登場人物紹介
僕:数学が好きな高校生。
ユーリ:僕のいとこの中学生。 僕のことを《お兄ちゃん》と呼ぶ。 論理的な話は好きだが飽きっぽい。
テトラちゃん:僕の後輩。 好奇心旺盛で根気強い《元気少女》。言葉が大好きな高校生。
双倉図書館にて
僕はユーリやテトラちゃんといっしょに、双倉図書館で開催されている《音楽と数学》というイベントに来ている。
《音は波》コーナー(第281回参照)、《ピタゴラスの響き》コーナー(第283回参照)、《自由な平均律》コーナー(第285回参照)をひと回りしたところ。
ユーリ「あーおもしろかった。対数、完全に理解したっ!」
僕「また大きく出たなあ。そういうのやめい!」
ユーリ「へへ」
テトラ「それにしても、音について考えるときに、数学で学ぶ対数が出てくるのはおもしろいですね(第285回参照)。 音楽と数学って、ちょっと考えると全然ちがうものに思えるのに、音楽を支えている根底のところに数学があるなんて」
僕「確かにそうだね」
ユーリ「あれー、でもテトラさん? 世の中のものを細かくしていったら原子や素粒子になるんでしょ。この世のものを支えている根底のところに物理学もあるよー。思いがけないところに、ららら物理学ー」
テトラ「ほんとですね! ユーリちゃんすごいです!」
僕「ユーリが言ってることは正しいけど、何かずれてるような気もするなあ」
ユーリ「おっおっ、ユーリさまの理論に文句あるんかい」
僕「すごむなよ。確かに物体を細かくしていったら原子や素粒子になるかもしれないけど、ふだん生活しているときには原子を意識してるわけじゃないよね」
ユーリ「だからー、細かくしたら、って言ってんじゃん」
僕「うん、だからね。その条件はとても重要なんだよ、きっと。考えているレベルが違う。風を感じるときに、空気分子一つ一つを感じてるわけじゃなくて、 ものすごい数の空気分子の集まりの動きを感じている。 分子一つ一つがどうでもいいというわけじゃなくて、 その……集まりとしての振る舞いに目を向けているんだ」
テトラ「"a macroscopic viewpoint"」
僕「それそれ!」
ユーリ「え、なんて? ポイント?」
僕「マクロスコーピック・ビューポイント。巨視的視点。細かく分けて見るんじゃなくて、大きな目、視野を広くして見ること」
ユーリ「まくろすこーぴっく……」
僕「そう考えてみると《音は波》というのはまったく正しいんだけど、僕たちが音楽をとらえているときの感覚と、ある一瞬の波の動きをとらえる感覚とのあいだには、 ずいぶん差がありそうだなあ」
ユーリ「反対は何て言うの? まくろすこーぴっくの反対」
テトラ「対義語は"a microscopic viewpoint"でしょうか」
僕「マイクロスコーピック・ビューポイント。微視的視点」
ユーリ「まいくろすこーぴっく……マインクラフトみたいな名前」
僕「そうそう、マインクラフトスコーピック・ビューポイント……って違うだろ!」
ユーリ「ノリツッコミ寒いよ。そんなことより、次はどのコーナーに行く? えーっと、《音は波》と、《ピタゴラスの響き》と、《自由な平均律》は見たから、次はどーしよ。 《リズムは歌う》にする? 《音色と倍音》にする? それとも《音符の箱詰め》にする?」
ユーリは、パンフレットとスタンプカードを見比べながら、次に進むコーナーを物色している。
テトラ「そういえば《ピタゴラスの響き》からすぐに《自由な平均律》に来ちゃいましたよね」
ユーリ「?」
テトラ「あっちにある《純正律の輝き》コーナーに行きましょう」
僕「ああ、飛ばしたコーナーがあるんだ」
僕たち三人は《純正律の輝き》のコーナーへ移動した。
今回は、何だかテトラちゃんが僕たちを導いていくみたいだな。
《純正律の輝き》
ユーリ「《じゅんせーりつ》って、超かっこいい名前!」
テトラ「"just intonation"ですね」
ユーリ「じゃすと・いんとねーしょん」
僕「クイズパネルがいきなりあるよ」
クイズ(純正律における音程と周波数比の対応)
純正律における音程と周波数比には次のような対応があります。
この中には、ピタゴラス音律を作る方法では作れない音程が含まれています。どれでしょうか。
ユーリ「めんどくさそーなクイズ……」
僕「いやいや、純正律という音律と、ピタゴラス音律の違いを見つけるためのクイズなんだよ、きっと」
テトラ「あ、あたしは……答えをもう見ちゃってるので(お口にチャック)」
ユーリ「完全度って同じ音のことだよね、ピタゴラス音律のところでも出てきた」
僕「そうだね。二つの音が同じ高さになっている音程のことだ」
ユーリ「なんでいま微妙に言い換えたの? 同じ音のことでしょ?」
僕「《同じ音》というのは大ざっぱな表現だからだよ。《音は波》だから、音には高さや大きさやそれからもっと複雑な形についての情報がある。 いまユーリが言った《同じ音》は、高さが同じという意味だろ?」
ユーリ「そだよん」
僕「それから、完全度や完全度というのは、音程についての名前なんだから。二つの音が必ず出てくる。 音程というのは二つの音の高さの違いだから」
ユーリ「はいはい。完全度は、二つの音が同じ高さになっている音程ですよっと。でも、これってどーして《完全度》っていわないんだろ」
僕「どうしてだろうね……ところで、このクイズに戻ろう。ここに書かれた個の音程のうち、ピタゴラス音律を作る方法では作れない音程がある、と」
純正律における音程
ユーリ「ピタゴラス音律を作る方法って、倍にしたりにしたり」
僕「そうだね。まずオクターブは自由に作れる。周波数を倍にすればオクターブ上がるし、周波数を倍にすればオクターブ下がる。 そして、それとは別に周波数を倍にしたり、倍にする。 そうするとオクターブ以外の音の刻み方ができる」
ユーリ「あー、だったら完全度はできるね。だもん」
僕「いやいや、そうなんだけど、順番に考えようよ」
テトラ「……」
完全度
僕「まず、完全度は作れる」
ユーリ「同じ音だから……二つの音が同じ高さの音程にすればいいから」
僕「そうだね。最初の音の周波数をHzとして、同じ周波数Hzの音を用意すると、
完全度
ユーリ「完全度も作れるよ。これはオクターブ上でしょ。周波数を倍にすればいいから、これも作れる」
僕「うん。最初の音の周波数をHzとして、その周波数を倍にした周波数をHzとすると、ということ。だから、
テトラ「あっ……こういうのって大事ですね」
僕「こういうの?」
テトラ「という周波数比が出てきたときに、当たり前のように見えても、のように書いてみることです。あたしは、いつもとでどっちがどっちって思っちゃいます。倍にするか倍にするか……」
僕「ああ、そうだね。相対的なものだから、入れ換えてもほとんどの議論は同じように進んじゃうからね。 でも、当たり前のことをちゃんと書いてみるのは大事だと思うよ。 ときどき意外な発見もあるしね」
テトラ「はい、根気よく計算するのは大好きですっ!」
完全度
ユーリ「早く次やろーよ。完全度は作れるっしょ? だもん」
僕「作れるね。これはピタゴラス音律で大事な音だった。オクターブ以外で初めて出た音だから。に対して、を作ったときだね。 Hzの周波数を倍するんだけど、そうするとオクターブよりも上になるから、で割る。 その周波数をHzとすると、はの倍になる。だから……」
ユーリ「でしょ? との両方を倍する」
僕「そうだね。それで完全度はできる」
完全度
ユーリ「次の完全度もできる。えーと、下がればいい?」
僕「下がるというか、いま作ったと、高い方のの音程だよね。だって、で、だから、
ユーリ「あー、それでいーんだ。ユーリはから周波数を倍した低い音を作るんだと思った」
僕「それでもいいよ。それは、のオクターブ下の音になる」
純正律における音程
長度
テトラ「次はいよいよ、あっ、いよいよじゃなくてっ、次は純正律の長度ですね」
ユーリ「周波数比はで……これはピタゴラス音律だと作れないんじゃね? うん、作れない!」
僕「それはなぜか」
ユーリ「があるから! のうち、は作れるよ。でもは作れない!」
僕「それは、なぜか」
ユーリ「はの倍数じゃないから!」
僕「そうだね。はの倍数でもないし、の倍数でもないから。ピタゴラス音律を作る方法で作れる周波数比は、
ユーリ「そーだね」
僕「だから、正の整数を使ってという周波数比を作るためには、とを素因数分解したときに、 どちらもとの素因数しか持たないようになっていなければならないわけだ。 でもは素数だから素因数は自身だけ。なのではピタゴラス音律の方法で作れない」
ユーリ「ダウト! いまの説明、怪しーぞ。《とがとの素因数しか持たない》じゃなくて《とがとでなくてはならない》じゃないの?」
僕「約分した後はそうだね。の冪乗との冪乗になる。でもたとえば、でという比は作れるよ。 はの冪乗じゃないけど、だから」
ユーリ「そっか、約分か……あー、ってことはが入ってるのは全滅だ。長度と短度と長度と短度は全部が入ってるから、 ピタゴラス音律を作る方法では作れない!」
テトラ「こちらに正解パネルがあります」
クイズの答え(純正律における音程と周波数比の対応)
この表のうち、 純正律における長度、短度、長度、短度は周波数比の中にが素因数として含まれているので、 ピタゴラス音律を作る方法では作れません。
純正律
テトラ「こちらに《純正律による音階》の解説パネルがあります」
純正律による音階
この表の音程(純正音程)を使って規定された音階を純正律による音階と呼びます。
- に対して、完全度、完全度、完全度、完全度、長度、長度上の音となる音をそれぞれ作ります。
- に対して完全度上のに対して、完全度下の音、長度上の音を用いて音を作ります。
- この音で《純正律によるハ長調( major)の音階》が作られます。
ユーリ「めんどくさそーな作り方」
僕「いや、これははっきりしているよ。つまり、二つの音の周波数比が決まっていて、それを音程として音階を作るということだね」
ユーリ「計算すればすぐできるじゃん」
僕「やってみよう」
ユーリ「えー……」
僕「すぐできるんだろ?」
テトラ「そうですね! やってみましょうよ」
ユーリ「の音から個の音を決めて、の音から個を決める……うえー」
ユーリ「とりあえず、最初の個はできたよ。よーするにだったら低い音のを倍すれば、高い音になるってことだからカンタンだった!」
- Hzに対して、完全度上の音はHzの倍
- Hzに対して、完全度上の音はHzの倍
- Hzに対して、完全度上の音はHzの倍
- Hzに対して、完全度上の音はHzの倍
- Hzに対して、長度上の音はHzの倍
- Hzに対して、長度上の音はHzの倍
テトラ「できましたね……」
ユーリ「……これって、Hzはぜんぶ共通だから、
僕「要するに、そういうことだね」
ユーリ「でもこの順番ってめちゃくちゃじゃん? 小さい順番に並べた方がよくね? 一番小さいのがで、一番大きいのがで……えーと、とってどっちが大きい?」
僕「全部小数に直した方が大きさは比べやすいかな」
ユーリ「だったら、小さい順番だと、
僕「……」
ユーリ「ねー! 合ってるでしょー?」
テトラ「合ってますよ、ユーリちゃん」
ユーリ「ねー、返事してよー!」
僕「こういう数列、見たことあるぞ……
ユーリ「個の分数になったけど……これがどーしたの?」
僕「え、よく見れば気づくよ!」
テトラ「えっ……」
ユーリ「むむ……足してる?」
僕「そうだね」
ユーリ「左と右の分数の《分子同士》と《分母同士》を足してる??」
テトラ「あっ! 本当ですね……」
僕「うん、そうなってる。たとえばとの間にはがあるけど、こんなふうに《分子同士》と《分母同士》を足してる」
ユーリ「うーわ! なにそれ! 他のとこも? 計算してみる!」
テトラ「全部そうなっています!」
ユーリ「えー、なってないよー。だってとを《分子同士》と《分母同士》を足したらだよ。でもあいだにあるのはだもん。……あっ、約分すれば合ってる! 約分かー」
僕「そうか……この数列はファレイ数列に出てくるぞ、きっと!」
ユーリ「ふぁれいすうれつ?」
僕「そうだよ。ファレイ数列の定義はこう」
ファレイ数列
は以上の整数、は正の整数とする。
となる分数で、分母が以下になる値を小さい順に並べる。
これを次のファレイ数列という。
ユーリ「わかんねっす」
僕「たとえば次のファレイ数列は、分母がの分数で、値が以上以下になる数からなる。具体的に小さい順に並べると、
ユーリ「ほほー……」
僕「そしてこれは、との組から始めて、両側から作っていけるんだ。つまりね、とからスタートして、 二つの分数の《分子同士》と《分母同士》を足した分数をあいだに入れていく 方法を使う。具体的に書いてみよう」
テトラ「何だか、綺麗ですね!」
ユーリ「すげー!」
僕「ユーリが作ってくれた数列、
ユーリ「む。微妙にずれてますけどー。だって、余計なが入ってる」
僕「おや、そうだな。まちがいまちがい。ユーリ、よく気付くなあ。引くんじゃなくて逆数か! ユーリが作ってくれた数列、
ユーリ「おー、ほんとだ!」
テトラ「いまの数列をから引きますよね……
ユーリ「おもしろーい!」
テトラ「でも、どうして純正律を作る音程とファレイ数列が関係するんでしょう……?」
ユーリ「なんでなんで?」
僕「なぜだろう……うーん。あのね、ファレイ数列では、と進んできて、ようやくまで来てが分母に使えるようになる。 言い換えると、ファレイ数列に現れる数は、分母が以下という制約がある既約分数として表記される数。 だから、できるだけ小さな整数を使って比を作ろうとしている純正律の比に現れたんじゃないかな」
テトラ「just intonationの根底には、小さな整数による比がある……」
ユーリ「待って。でもピタゴラス音律はとを使ったわけでしょ?」
僕「そうだね。そして純正律ではととを使っている」
ユーリ「だったら、ピタゴラス音律の方が小さな整数だけ使ってるじゃん。なのに、なんで純正律を考える必要があるの?」
僕「ユーリは正しい。でも、小さな整数を使ったからといって、あるいは使う整数の種類が少ないからといって、比が単純になるとは限らないよね。たとえば、という単純な比をとを使って作ることはできない。でもを使えば一発で作れる」
ユーリ「おお、確かにー」
テトラ「あ、あたし……先ほどひとりでこの《純正律の輝き》コーナーを見たときには、この音程の表を見て『こんなふうに純正律は作るんだ』とだけ考えました。 ユーリちゃんが言ったように、計算をすればわかる……と思ったんです。 でも、先輩とユーリちゃんといっしょにもう一度ここに来て、 実際に計算してみると、気付くことがたくさんありました。さらに疑問もたくさん湧いてきますけれど」
僕「……」
テトラ「いまは、純正律による音階を作っている途中で、まだ音しか計算していませんけれど、あたし、巨視的視点にふっと立ったような気がします」
僕「というと?」
ユーリ「まくろすこーぴっく!」
テトラ「そ、そんなすごいことじゃないんですが……ピタゴラス音律にせよ、純正律にせよ、音を見つけようとしているんですね。音を表そうとしている。 できれば、いろんな音程が小さな整数の比になるような音を用意したい。 とを使う方法もあれば、ととを使う方法もある。 でもそこにこだわりすぎると、今度は移調が難しくなる……まとまらなくてすみません」
僕「そうか、いまのテトラちゃんの言葉で思ったんだけど、音律を決めるというのは整数比を使った近似の問題なんだね。 ピタゴラスコンマという概念があったけど、あれは誤差の一種と考えられそうだ。 平均律はその誤差の部分を平均的に分散させている……」
ユーリ「んんー、そろそろ純正律の音階、残りの二音を作ろーよ!」
(第287回終わり、第288回へ続く)
参考文献
- 東条敏+平田圭二『音楽・数学・言語: 情報科学が拓く音楽の地平』(近代科学社)
- 石桁真礼生+末吉保雄+丸田昭三+飯田隆+金光威和雄+飯沼信義『楽典ー理論と実習』(音楽之友社)
- 小谷野謙『よくわかる楽典の教科書』(ヤマハミュージックメディア)
- グレアム、パタシュニク、クヌース『コンピュータの数学』(共立出版)