備忘録 化学療法 | 子宮頚部腺がんステージ4b 34歳新米ママのむすめごはん

備忘録 化学療法

テーマ:夫 備忘録

(備忘録 診断から治療へ のつづき)

 

 

3週間ごとの化学療法を7回行って、約半年が過ぎた。

 

 

彼女は相変わらず尼僧のような頭で、少しやつれていたが、意外にも元気そうに過ごしていた。

 

 

彼女は吐き気や倦怠感に耐えながら一生懸命頑張った。

 

 

体調のいい日は遠出もしたし、横浜で行われた僕の弟の結婚式にもウィッグをつけて出席したりした。

 

 

相変わらず料理を作るのが好きで、葵の離乳食を一生懸命こしらえては、冷凍して保存する。おかげで冷凍庫は離乳食だらけだ。

 


4月には葵が一歳の誕生日を迎えた。

 

 

水切りヨーグルトで作った彼女特製ケーキでお祝いをした。

 

 

葵は顔中をヨーグルトまみれにしながら美味しそうにケーキを頬張っていた。少しずつ歩けるようになってきたし、言葉も喋るようになってきた。

 

 

ちなみに初めて喋った言葉は、ママともパパともとれる『ワワ』というような言葉だったが、僕はパパだったと言い張った。




(妻の行なっていた化学療法はTC療法+アバスチンです。カルボプラチン、パクリタキセル、アバスチンを3週ごとに投与します。



初回のみ入院で、それからは外来通院していました。



幸い、化学療法をする事を見越して、腹腔鏡手術の後に埋め込み式ポートを左鎖骨下に入れてもらってありましたので、点滴をするのはずいぶん楽でした。



お薬は一日で入れ終わりますが、5-6時間はかかります。



薬の影響で眠くなるみたいで、投与中はよく寝ていました。



投与日と翌日はすごく元気です。

ステロイドも入るので、やけにハイテンションになります。



2日目から吐き気と倦怠感、腹部の張り感、筋肉痛が出てきます。



3-4日後がピークで、動くのも辛そうでしたが、5日目くらいには楽になってきます。



だいたい、ケモ2日後から5日後までは葵を実家に預かってもらい、6日後からは妻がお母さんに手伝ってもらいながら育児をしていました。



ケモ後14日ごろが血球減少がピークになるので、病院で採血し確認します。



そこから血球は回復傾向に向かいます。



それから次のケモまでは元気なので、遠出したりする楽しみweekとなります。

このタイミングで、ここぞとばかりに楽しみます!美味しいものを食べたり、旅行したり。



このように3週間毎のサイクルを7回繰り返していきます。




初回化学療法の2週間後ごろから髪が抜け始め、4-5日で髪は全くなくなりました。



眉は残っていましたが、回数を重ねると眉や全身の毛がなくなります。



妻は化学療法中はよく膀胱炎の症状に悩まされていました。



これは薬の影響なのか、病気の影響なのか、よく分かりませんでしたが、血尿がでたり、排尿時痛があったようです。



だいたいTC-BV療法は6クールが基本みたいです。



妻は若いですし、もともと元気だったので、7クールまでいきましたが、まぁ当然、回を重ねる毎にしんどさはましていきます。



7クールの前後で二回腎盂腎炎になり入院しました。



もともと尿管がつまり発見された病気で、最初から尿管カテーテルを入れざるを得なかったところにケモで免疫力が落ちてきたため発症したのだと思います。
 


血球減少も限界がきていたので、化学療法は7クールで終了となりました。)






↑お雛様 
最近はこんなに可愛いお雛様もあるんですね!
もうすぐひな祭りですね。
あれからもう一年。早いなぁ。



↑抗がん剤を投与中の妻

青い手袋はパクリタキセルの副作用の末梢神経障害によるしびれを軽減するために、手を冷やしているところです。

妻は結構物事を徹底してやるほうだったので、持参の保冷剤と100均の保冷バッグで足も冷やしていました。

携帯も使えず、両手両足を氷で冷やす寒さが雪山のようだったと、後から笑って言っていました。

さらに、味覚障害も軽減するかもと言って、常に氷を舐めていました。

そのおかげかどうかは分かりませんが、しびれはほとんどなく、味覚障害も軽かったみたいです。



↑家には妻の趣味のピアノがあります
もったいないので、娘の寝かせつけがてらピアノを弾く私。
独学でほんの少しかじっただけなので、弾ける訳ではありません。



↑右は妻の妹
妻が大好きな妹です。
ほんとうに妻と仲良しで、なんでも話せる仲みたいでした。
妻の闘病中の家族の心の支えになってくれた、大事な人です。
よくふざけて笑わせてくれます。
今の葵のママ代理の1人です。



↑そしてママ代理のもう1人。
妻のお母さん。
義母も妻の闘病中にほぼ毎日家に来てくれて、洗濯や掃除、妻の看病、あおちゃんの世話などをしてくれました。
感謝してもしきれません。



↑ママ代理の3人目
私の実の母親です。
彼女に育てられると、私に似そうで心配です。
冗談です。
感謝しています。

横浜での弟の結婚式での写真です。





↑祝㊗️  葵  一歳記念!
よくここまで大きくなってくれました。
生まれた時はあんなに小さかったのに。
子供の成長はほんとに早いですね。



↑南知多のお花畑


↑日間賀島でタコも食べました🐙



この頃も楽しい写真がたくさんで選びきれません。


化学療法のサイクルに慣れてきて、だんだん調子のいい時、悪い時が分かるようになってきます。
調子の悪い時はしっかり休んで、調子のいい休みの日には出来るだけ家族でお出かけしました。


妻は化学療法が辛くない事は無かったと思いますが、前向きに治療し比較的穏やかに過ごしていました。


さらに、この頃は治療に伴って順調に腫瘍マーカーは下がってきており、CTでも腹膜播種は小さくなってきていました。


化学療法もある程度効果がありました。


その時はもしかしたら治るんじゃないか?なんて思っていましたので、
私たち家族も明るかったですし、
妻も化学療法の辛さは我慢できたのでしょう。

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備忘録 診断から治療へ

テーマ:夫 備忘録

(備忘録 診断 のつづき)

 

 

年末に入るので、病理検査の詳しい結果と治療方針の説明は年明けとなった。

 


 

年末には嫌なことを忘れるために、生後8ヶ月の葵と彼女と3人で車に乗り天橋立まで旅行に行った。

 

 

葵は8ヶ月になり、バンボ(子供が座る椅子のことですね)に上手に座れるようになり、ハイハイもするようになっていた。

 

 

旅行はとても楽しかったが、心の底にはやはり不安がよぎっていた。

 

 

しかし彼女にはそんな不安な気持ちを悟られないように、僕は極めて明るく振る舞った。

 

 

彼女も時折不安そうな表情を浮かべるので、最近の化学療法は副作用対策がしっかりしているから、治療しながら仕事をしている人もいるみたいだよ、なんて、なんとか勇気づけようとした。

 

 

が、内心では、こんな小さい子がいて、僕は仕事もしないといけないのに、彼女は癌の治療なんてできるのだろうか?と不安で仕方がなかった。

 


信仰心などとは無縁な人間だったが、帰りにガン封じ寺にも寄ってお参りした。
 

 


年が明けた1月に僕たちは病院の産婦人科を訪れた。

 

 

病理の結果は子宮頸癌の中でも悪性度の高い腺癌というものであったらしい。
 

 

やはり根治治療は不可能で、化学療法が第一選択だと聞かされた。
 

 

すぐに化学療法のスケジュールが決められた。

 

 

髪が抜けるのかな?吐き気が強いのかな?など、不安だらけだったが、負けてはいられない。

 

 

前に進まなくてはと自分を奮い立たせた。





治療が始まる前に、成人の日を利用して、3人でディズニーランドにも行った。



もしかしたら家族3人で行ける最初で最後のディズニーランドかもしれないと思うと、居ても立っても居られなくなり、化学療法が始まる前に無理やり予定をねじ込んだのだ。



8ヶ月の娘とのディズニーランドは予想以上にしんどかったが、それでも、ミッキーの家でミッキーマウスと写真を撮って、カリブの海賊にも乗った。



ミニーちゃんの靴下を娘のために買って帰った。


 

2人とも何も言わなかったが、お互いが、最後のディズニーランドになるかもしれないと思っていたと思う。



せっかくのディズニーランドも、楽しさと悲しさが入り混じった複雑な気分だった。





彼女の妹の夫は元美容師だ。

 

 

今は美容師をやめて警察官をしている。

 

 

化学療法が始まってすぐに、彼に頼んで彼女の断髪式をした。

 

 

髪が抜けても抜け毛を処理しやすいようにだ。

 

 

彼女の両親、家族も一緒に、相撲取りの断髪式さながら、1人ずつハサミをいれていく。

 

 

わざと前髪をパッツンにしてみたり、みなでふざけながら髪を切った。

 

 

その後、義弟に上手く整えてもらった。

 

 

彼女はそれまでのショートボブからベリーショートへと変身したが、意外と似合っており、本人もまんざらではなさそうだった。


僕は、そのとき、妻の命が助かるなら髪なんかいくらでもくれてやる、と思った。


 


その1週間後には髪は抜け落ち、落ち武者を経て尼僧になった。

 

 

僕は尼僧になった彼女も可愛らしく思えたし、彼女もそれほど落ち込んだ様子はなかった。

 

 

むしろ頭をからかいふざけあっていた。


 

 僕も、いっそ妻とお揃いでスキンヘッドにしようかとも思ったが、仕事に支障をきたしそうだったのでやめておいた。




化学療法をすると数日して吐き気と倦怠感が襲ってくる。

 

 

しばらくは動くのも辛くなるので、その間は葵を僕の実家と彼女の実家に交互に預けることにした。

 

 

彼女の実家はうちから30分ほどで行けるところにある。
 

 

 

葵は10ヶ月になり、彼女が化学療法を受けるために断乳を余儀なくされた。

 

 

彼女は少し寂しそうだったが、幸い葵はおっぱいを欲しがって泣き出すことも少なく、僕たちは非常に助かった。

 

 

むしろ離乳食とミルクを毎日バクバクと平らげていた。

 

 

彼女に似て食べるのが好きなようだ。

 

 

好き嫌いもまったくない。

 

 

まさかこんな小さい子を家族とはいえ別の家に預けることになるとは思ってもいなかったが、葵はどちらの家でも嫌がらずに、いつもニコニコしながら遊んでいた。

 

 

その分、休みの日は葵とたくさん遊んだ。




↑天橋立の温泉です



↑癌封じ寺





妻の髪型の変遷

 


↑断髪式後

ここから髪がなくなります



ウィッグをつけるとこんな感じ
妻はたくさんウィッグを買っていました。気分に合わせて髪型を変えれるので楽しそうでした。

注意して見てみると、病院にはウィッグの人って結構いるのです。でもぱっと見は分かりません。
ただ、夏は蒸れて暑いみたいです。


頭の写真は削除しました。
コメントをいただいて、確かに妻が嫌がるかもしれないと思いました。










ディズニーですね
写真は結構楽しそうにしていますが、実は、僕はこの時のディズニーの記憶がほとんどありません。
多分、不安が心の半分を占めていたのと、生後10ヶ月の子供を連れているのが、思っていた以上に大変だったんだと思います。




疲れて眠る僕と楽しそうな葵
葵も少しずつ成長してきています