備忘録 診断から治療へ | 子宮頚部腺がんステージ4b 34歳新米ママのむすめごはん

備忘録 診断から治療へ

テーマ:夫 備忘録

(備忘録 診断 のつづき)

 

 

年末に入るので、病理検査の詳しい結果と治療方針の説明は年明けとなった。

 


 

年末には嫌なことを忘れるために、生後8ヶ月の葵と彼女と3人で車に乗り天橋立まで旅行に行った。

 

 

葵は8ヶ月になり、バンボ(子供が座る椅子のことですね)に上手に座れるようになり、ハイハイもするようになっていた。

 

 

旅行はとても楽しかったが、心の底にはやはり不安がよぎっていた。

 

 

しかし彼女にはそんな不安な気持ちを悟られないように、僕は極めて明るく振る舞った。

 

 

彼女も時折不安そうな表情を浮かべるので、最近の化学療法は副作用対策がしっかりしているから、治療しながら仕事をしている人もいるみたいだよ、なんて、なんとか勇気づけようとした。

 

 

が、内心では、こんな小さい子がいて、僕は仕事もしないといけないのに、彼女は癌の治療なんてできるのだろうか?と不安で仕方がなかった。

 


信仰心などとは無縁な人間だったが、帰りにガン封じ寺にも寄ってお参りした。
 

 


年が明けた1月に僕たちは病院の産婦人科を訪れた。

 

 

病理の結果は子宮頸癌の中でも悪性度の高い腺癌というものであったらしい。
 

 

やはり根治治療は不可能で、化学療法が第一選択だと聞かされた。
 

 

すぐに化学療法のスケジュールが決められた。

 

 

髪が抜けるのかな?吐き気が強いのかな?など、不安だらけだったが、負けてはいられない。

 

 

前に進まなくてはと自分を奮い立たせた。





治療が始まる前に、成人の日を利用して、3人でディズニーランドにも行った。



もしかしたら家族3人で行ける最初で最後のディズニーランドかもしれないと思うと、居ても立っても居られなくなり、化学療法が始まる前に無理やり予定をねじ込んだのだ。



8ヶ月の娘とのディズニーランドは予想以上にしんどかったが、それでも、ミッキーの家でミッキーマウスと写真を撮って、カリブの海賊にも乗った。



ミニーちゃんの靴下を娘のために買って帰った。


 

2人とも何も言わなかったが、お互いが、最後のディズニーランドになるかもしれないと思っていたと思う。



せっかくのディズニーランドも、楽しさと悲しさが入り混じった複雑な気分だった。





彼女の妹の夫は元美容師だ。

 

 

今は美容師をやめて警察官をしている。

 

 

化学療法が始まってすぐに、彼に頼んで彼女の断髪式をした。

 

 

髪が抜けても抜け毛を処理しやすいようにだ。

 

 

彼女の両親、家族も一緒に、相撲取りの断髪式さながら、1人ずつハサミをいれていく。

 

 

わざと前髪をパッツンにしてみたり、みなでふざけながら髪を切った。

 

 

その後、義弟に上手く整えてもらった。

 

 

彼女はそれまでのショートボブからベリーショートへと変身したが、意外と似合っており、本人もまんざらではなさそうだった。


僕は、そのとき、妻の命が助かるなら髪なんかいくらでもくれてやる、と思った。


 


その1週間後には髪は抜け落ち、落ち武者を経て尼僧になった。

 

 

僕は尼僧になった彼女も可愛らしく思えたし、彼女もそれほど落ち込んだ様子はなかった。

 

 

むしろ頭をからかいふざけあっていた。


 

 僕も、いっそ妻とお揃いでスキンヘッドにしようかとも思ったが、仕事に支障をきたしそうだったのでやめておいた。




化学療法をすると数日して吐き気と倦怠感が襲ってくる。

 

 

しばらくは動くのも辛くなるので、その間は葵を僕の実家と彼女の実家に交互に預けることにした。

 

 

彼女の実家はうちから30分ほどで行けるところにある。
 

 

 

葵は10ヶ月になり、彼女が化学療法を受けるために断乳を余儀なくされた。

 

 

彼女は少し寂しそうだったが、幸い葵はおっぱいを欲しがって泣き出すことも少なく、僕たちは非常に助かった。

 

 

むしろ離乳食とミルクを毎日バクバクと平らげていた。

 

 

彼女に似て食べるのが好きなようだ。

 

 

好き嫌いもまったくない。

 

 

まさかこんな小さい子を家族とはいえ別の家に預けることになるとは思ってもいなかったが、葵はどちらの家でも嫌がらずに、いつもニコニコしながら遊んでいた。

 

 

その分、休みの日は葵とたくさん遊んだ。




↑天橋立の温泉です



↑癌封じ寺





妻の髪型の変遷

 


↑断髪式後

ここから髪がなくなります



ウィッグをつけるとこんな感じ
妻はたくさんウィッグを買っていました。気分に合わせて髪型を変えれるので楽しそうでした。

注意して見てみると、病院にはウィッグの人って結構いるのです。でもぱっと見は分かりません。
ただ、夏は蒸れて暑いみたいです。


頭の写真は削除しました。
コメントをいただいて、確かに妻が嫌がるかもしれないと思いました。










ディズニーですね
写真は結構楽しそうにしていますが、実は、僕はこの時のディズニーの記憶がほとんどありません。
多分、不安が心の半分を占めていたのと、生後10ヶ月の子供を連れているのが、思っていた以上に大変だったんだと思います。




疲れて眠る僕と楽しそうな葵
葵も少しずつ成長してきています
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備忘録 診断

テーマ:夫 備忘録

(備忘録 背中の痛み のつづき)

 

 

手術室勤務時代からの付き合いで、彼女もよく知った泌尿器科医が診察してくれた。

 

 

頭は薄くなっているが、優しい医師だ。

 

 

知り合いのよしみか、すぐに造影CTで調べてもらうことになった。

 

 

検査の結果は、やはりはっきりとした原因はよく分からないけど、腸間膜に何か所か異常な影があること、水腎症の原因は子宮にあるのかもしれないこと、とのことであった。

 

 

つまり、何らかの子宮の病気で尿管が詰まっているのではないか、とのことであった。
 

 

すぐにその泌尿器科医が出産時の主治医である若い産婦人科の女医さんに電話をしてくれた。

 

 

産婦人科で内診を受ける。

 

 

ベテラン産婦人科医師も来てくれた。

 

 

エコーでもはっきりしないが、何やら内診で硬く感じる場所があると。

 

 

MRIを予約してその日は帰った。

 

 

帰る前に泌尿器科医が、詰まった尿管の通りを良くするために、尿管カテーテルを入れてくれた。

 

 

余程カテーテルが嫌だったのか、彼女は終始不機嫌だった。

 

 

僕は子宮内膜症かなにかかなぁ、なんて思いながら、ネットで子宮の病気を調べたりしていた。
 

 

後日造影MRIを撮って結果を確認すると、やはり子宮には何か病変があるらしい。

 

 

でもまだ何かはわからない。

 

 

採血やPETCTなど色々な検査が予約され、徐々に不安が募っていく。

 

 

最終的に、腹腔鏡の手術で腸管膜の病変をとってきて病理検査で確定診断をつけることになった。

 

 

2018/12/25 クリスマス

 


虫垂炎の時にもお世話になった大ベテラン麻酔科女医が麻酔をかけてくれ、手術は行われた。

 

 

心配だったので僕も手術室に入って見守っていた。



産婦人科医も全員集まっていた。

 

 

最初、彼女のお腹の中はすごく綺麗に見えた。



なんだ、やっぱり何かの間違いだったんじゃないか。



最初はそんな風に思った。



しかし、腹腔鏡のカメラが別の部分を映した時に、僕の不安は確信に変わった。

 

 

整形外科医でも分かった。

 

 

硬く周りと癒着し正常組織とはまるで違う。

 

 

間違いない。

 

 

癌だと。



手術をしてくれている外科の執刀医も、悲しそうに “癌だね、病理の検査に出しておくよ” と言った。



その先生も妻の事をよく知っている。

 


しかもさらに詳しくカメラで調べると、病変は腹膜や横隔膜にもポツポツとしこりを作っている。

 

 

腹膜に播種していたのだ。
 

 

僕は、皆の前だったので冷静さを保っていたが、気を許すと涙がこぼれそうになった。

 

 

ベテラン麻酔科医が僕の気持ちを察したのか、心配し慰めてくれたのがせめてもの救いだった。

 


病理の結果は数週間後に出るとのことだったが、結果は分かり切っている。

 

 

悪性腫瘍の腹膜播種、つまりはstage4だ。

 

 

どのガンだとしても悪いことに間違いはない。

 

 

手術が終わった後、僕は義父に電話しありのままを伝えた。

 

 

stage4のガンが強く疑われる、根治治療は望めないので、化学療法をすることになると思うと。

 




帰りの車の中で僕は今後のことについて漠然と考えていた。

 

 

今の時代はネットでなんでも調べられる。

 

 

車を止め、子宮頸癌のガイドラインを調べてみると、stage4の子宮頸癌は5年生存率が約20%と書かれていた。

 

 

他のステージよりは明らかに生存率が低い。

 

 

しかし、それが高いのか低いのかは捉え方次第のようにも思う。



その時の僕には20%という数字にはまだ希望が残されているように感じた。

 

 

その一方で、彼女がもし死んだらなどと悪いことを考えると、しぜんと涙が溢れてきて、とたんに視界が悪くなった。

 

 

家に着いてからは、泣いていたのを彼女に悟られないようにようにしばらく車の中で涙が乾くのを待ってから家にはいった。



(造影MRIのあたりから癌だろうとは思っていました。だって僕は妻のカルテをいつでも見れますから。個人情報だろうが、なんだろうが、そりゃ見ますよ。妻が心配なんですもん。毎日、毎日、何かの間違いじゃないか、内膜症だろ、、って妻のカルテ、画像を何度も何度もみて思っていました。でも、妻には何も言えません。


検査結果が出揃っていないのに、癌かもしれないとは流石に言えませんから。


癌だと確定した日、腹腔鏡手術の日、本当に目の前が真っ暗になったようでした。


腹腔鏡手術の日の帰りの車は、本当に涙で前が見えなくなって危なかったです。


妻が亡くなった時を除けば、この時が1番泣きました。


妻は僕がそんなに泣いていたことは知らなかったと思います。


しかし、一方で泣いていてはダメだ、病気と向き合って治療しないと、家族との過ごしかたを考えないと、と決心を固めた時でした。




今思えば、妻に癌だったと最初に伝えたのは僕だったと思います。


だって、病理の結果が出るのには2週間ほどかかり、その前に妻から、お腹の中はどうだったか聞かれますから。


伝える時はさすがに勇気がいりました。


でも、隠すわけにもいかない。


出来るだけ妻が不安にならないように、優しく、笑顔でがんだったよって言った記憶があります。


がん告知は夫、、、非常に珍しいパターンだと思います。




しかし、妻も薄々そう思っていたのだと思います。


それでもやはり事実を突きつけられて悲しそうでした。


僕は出来ることを精一杯やろう、一緒に治療を頑張ろうと、心の限り励ましました。


癌は治らない病気じゃない時代だと。


そして、妻は笑顔でうん、といいました。


この夫からの告知のおかげで2人の絆が強くなり、2人で頑張ってこれた気がします。



それからも、検査をすればすぐに夫が知る、主治医が説明する前に妻に説明する。


治療方針も、主治医から説明を受ける前にだいたいこうなるだろうと予想ができましたし、妻に伝えていました。その予想はほとんど当たっていました。


子宮頚がんのガイドラインなどは、穴があくまで読みましたから。


主治医の先生はやりやすかったのか、やりにくかったのか、、


でも、主治医も決して嘘や隠し事は出来ませんよね。すぐ夫にバレますから。


僕も妻にはほとんど隠すことなく、検査結果などは話していましたし、2人で治療をどうしていくか考えて話し合ってから病院にいっていました。


だから、妻は安心して治療が受けられたのかもしれません。)





↑妻の髪があるうちにスタジオで写真を撮ってもらおうと撮影した写真です。

妻の遺影もこの時の写真を使いました。

本当に綺麗に撮ってくれました。






↑クリスマス

ちょうど妻の手術の前に撮りました

葵は髪が少なくて心配でしたが、今はきちんと生えてきています

改めて写真を見ると、ずいぶん顔が変わったように感じます。