その答えをずーっと求め続けているのが、ミステリという界隈なのだと思う。
新たな証拠によって前の推理が否定され、新しい推理が発表される。
でもそれも次の証拠によって覆される。
そしたら真相ってのは何なんだ。どうしたらそれが真相とわかるのだ。
本格推理には「読者への挑戦」がないと成り立たないという人もいる。
要するにミステリは作者と読者の戦いで、フェアな戦いにはルールが必要なのだ。
読者への挑戦はそれを保証する。
或る頁において、ここまでに集めた証拠で謎は解けますよ、これ以上の証拠は出ませんよと宣言するのだ。
でもそんな作者と読者の戦いに巻き込まれる作中人物はたまったものではない。
ミステリは戦いである前に小説の一ジャンルだ。小説は作中人物が織りなすものであり、物語であるのだ。ドラマが作中で完結していなければならない。
読者は読者への挑戦を読めるかもしれないが、探偵は読めない。じゃあなんで探偵はそれが真相だと理解できた?
ここで探偵は「一人の人間」であるのか、それともただの「舞台装置」に過ぎないのかという話が出てくる。
初めのうちの探偵はだいたい舞台装置だったが、最近は探偵だってただの人間だというスタイルが増えている。
じゃあ何のために推理しているのか、推理とは何で探偵とは何なのか。そういう議論があった。
この辺の話をだいたい煮詰めたのが「後期クイーン的問題」である。
クイーンより前からこのような話の萌芽は山ほどあったのだが、クイーンがそれを明確に作中に表してしまったのだ。
で、日本人は後期クイーン的問題が大好きなもんだから、多くの作家はある程度その辺の話を意識している。
その解決は多くの場合、「この推理があってるとは限らないけど最も妥当性が高いよねー」みたいな感じになっていった。
日常の謎や安楽椅子ものではそのまま終わることも多いし、もっと重大な事件なんかではここから先は公的権力がしっかり調べるからねーみたいな感じで探偵は身を引いたりする。
ところがそれがもうちょっと洗練されたのが割と最近の話で、「聴衆を納得させるのが探偵の役割だ」みたいなテイストの台詞が妙に増えた気がしてる。
つまり、合っているか合っていないかは聴衆が決める。その基準は「納得」であって、「真実」ではない。
もっと言うと、この聴衆はある特定の一人なんていうこともある。『氷菓』では、折木が「必要なのは真実ではない、千反田が納得することだ」と何度もモノローグで述べている。
ラノベっぽかったり、化物語っぽかったり、一見ミステリではないようにも見える。
だが、ミステリ読みからしたら内容は日常の謎・ライトミステリ・ファンタジーミステリ・伝奇ミステリなど最近の傾向を取り込んだ「ザ・現代ミステリ」であるうえに、
上述の「聴衆の納得するものが、探偵のしなければならない推理だ」を構造の中に入れてしまっている(聴衆が怪異の仕業だと思えば怪異が活性化し、物理的に可能だと納得すれば怪異が消える)
のが如何にも凄い点だ。
真実も虚構、推理も虚構、でもちゃんとその骨格はミステリの流れを引き継いでいて、これがミステリでないならば、ミステリであるものなどない、と1ミステリ読みは思うよ。
ツイッターで見たわ
それは別の人です(読んでない)
要するにミステリって自称賢い書き手と読み手のマウントバトルなんでしょ
後期クイーン問題に詳しそうなので聞きたいんだけど、そもそもクイーンにおける「犯人側が意図的にリアルタイムで探偵側にトラップを仕掛けてくる」っての、ギリシャ棺みたいな前...
後期クイーン的問題ってだいたい日本人が勝手に言い出したものだし、そのネーミングも色んな作家が好き勝手論争してる中で変遷してるからね 最初は後期とか言ってなかったみたいだ...
>そしたら真相ってのは何なんだ。どうしたらそれが真相とわかるのだ。 >その本の中でたまたま最後に発表された推理が正解となるのか。 >それだって次の証拠が出たら覆るかも...
し、信頼できない語り手。
SNSで論破とF.U.Dを繰り広げてネット民を疑心暗鬼に落とせば完全勝利って事だよね
ついでにID: INVADEDも見ようぜ
ワイは見てるやで やっと黒幕が見えてきてクライマックスやな あと歌舞伎町シャーロックも面白いで 1クール目でやった取り留めのない回が2クール目で次々拾われてく感がなかなか
こっここここいつwwwwwwwww ミステリーをミステリなんて言ってやがるwwwwwwwwww ア、アホだ〜!wwwwwwww お前ケミストリー をケミストリって言うようなもんだぞwwwwwwwww ミステリーはこうやって...
レジストリ「…」
言葉遊びは暇人の専売特許
お前がそう思うなら、そうなんだろう。お前の中でわな。