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 さて、岡山理大がおよそぞんざいにやってのけたあからさまな差別は、営業上の利害だとかとはあまり関係のない、ド直球の、プリミティブな差別だった。

 獣医学部が韓国人学生を排除することで、直接的な利益を得られるわけではないし、なんらかの損失を回避できるわけでもない。

 あくまでも、彼らは排除のために排除し、差別のために差別している。
 つまり、意図としてはそれだけ差別の意図が徹底していたということでもある。
   私がなんともいやな気持ちになっているのはこの点だ。

 彼らは、ただただ差別のために差別をしている。

 儲けるためにとか、カネを節約するためにとか、そういう損得勘定すらない場所で、ただ一心に自分自身の差別をしたいという欲望をかなえる目的で差別をしている。こんなに薄気味の悪いやりざまがあるだろうか。

 あるいは、損得に沿って考えるなら、韓国人受験生の面接点にゼロの数字を書き込んで、彼らの合格を阻止しようとした人々は、誰かに気に入られたくてそれをしたのかもしれない。

 その場合は、韓国人を差別すると喜ぶ誰か(それも偉い人)が、彼らの上にいたということになる。

 それもまた非常に気味の悪い想定ではある。

 ナチス治世下のドイツや、戦前の日本のような、異民族への差別がごく自然な感情として広く共有されていた社会では、差別は、それ自体が利益をもたらすものでなくても、民族の団結を促すわかりやすいスイッチとして機能していたと考えることができる。

 現代でも、自分たち以外のメンバーを排除することや、純血でないとされる構成員を差別することで、主要な「仲間」の団結を完全ならしめるための助けとしている集団はそこここに存在している。

「◯◯人は国に帰れ」
「◯◯人はこの店に入るな」
「Japanese Only」
 というスローガンは、差別のための掛け声であると同時に、仲間内に団結を呼びかける和合の言葉でもある。

 こういう場所では、「韓国人」であるとか「中国人」であるとか「ユダヤ人」であるとか「異教徒」であるとか「裏切り者」であるとか「売国奴」であるといった、具体的な「外部の人間」「異端の存在」を設定・想起し、その彼らを排除、差別、攻撃、嘲笑することを通じて、「自分たち」(あるいは「日本人」)の輪郭を明確化できると思っている人間は、実のところ、少なくない。彼らは、まず外部に憎悪の対象を設定し、しかる後にその憎悪への反作用として自分たちへの愛情を方向づけるのである。

 排外主義や外国人差別は、行き過ぎた愛国主義の反作用だと言われる。

 私は、逆だと思っている。