全7448文字

 私とて、会見のすべてが出来レースだったとは思わないし、記者クラブにぶら下がっている記者が雁首を揃えて政権の茶坊主業務に邁進しているとは思っていない。

 ただ、首相に「苦言を呈する」構えで文章を紡ぎつつ、結果として、会見場に集まった自分たちの仕事ぶりについて弁明しているようにしか見えない記事を配信することになってしまった今回の経緯を、私はとても残念に思っている。

「記者と政治家の間には、部外者にはわからない微妙な駆け引きと力関係があって、それは記事を読んでいるだけの読者には簡単には理解できないものなのです」

 というお話は、雲の高みにいる人間が、下界の人間にアナウンスする説明として、内容はともかく、構えとしてあまりにもイヤミったらしい。その意味で、失敗だったと思う。

 私は率直に
「ナニサマのつもりだ?」

 と思ったし、もっと言えばナニサマとナニサマが互いに忖度し合ってるみたいなやりとりは、有料の見世物として興行するのには無理があると考えている。無理だ。そんなものを見るために、大切な時間を浪費するのは御免だ。

 話がズレてしまった。
 文春の記事の話題に戻る。

 記事の内容が真実であるのだとすれば、今回の岡山理大の所業は、まるで弁護の余地のない、最悪のやりざまだ。

 上の文で私があえて「記事の内容が真実であるのだとすれば」などと、事前弁解くさい接頭辞を配置したのは、自分の気持ちの中で、いまにいたってなお、「いくらなんでもこんなひどい話が本当であるはずがない」という、常識から来る思い込みをぬぐい切ることができずにいるからだ。

 これはそれほどひどい話だ。
 というよりも、ゲロが出そうにグロテスクな話だ。

 本件が、「不正入試」であることはあらかじめ申すまでもない。それゆえ論じる必要もない。

 「差別事案」であることもはじめからはっきりしている。
これらの前提を踏まえた上で、ここから先、私が書こうとしているのは、
「差別はいけません」
「大学の入学試験は公平、公正、かつ透明性が確保されているべきです」
 てなことを、くどくどと弁じ立てるテキストではない。
 入試の公平性と差別撤廃の必要性は、民主社会の前提ではあるが、本稿のテーマではない。

 本稿のテーマは、むしろ、それらの諸前提の崩壊危機についてだ。

 私は、ここから先の何十ラインかを
「差別って本当にいけないのか?」
「入試が公平じゃないからって、たいしたことないだろ?」

 と考え始めている人間たちのために書こうと思っている。