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 初めまして。私です。

『私』というのは皆さまからすれば、どうにも呼びづらいかと思いますので好きに呼んでもらって構いません。

そうですね。。。迷ったのなら、まよでいいです

ここにはツイッターから来てくださった方が大半だと思います。
字数制限のあるツイッターでは書ききれないことが沢山あったので、この度ブログを開設しました。

私についてまとめましたので、長くなるかと思いますがどうか最後までお付き合いください。

はじめに

私はある一つの投稿で一気に多くの人に知られることになりました。

はじめに言いたいことがあります。

私は、私が「特別」だなんて微塵も思っていません。

たくさんの人に応援してもらったから偉いとか、すごいとか(中には心無いコメントもありますが) そんな風には一切思っていません。

だから、私は自分自身を驕り高ぶり過大評価するつもりは一切ありません。今も、これからも。それは応援してくれる方々が10万人になろうと、20万人になろうと同じです。

皆さんはただ余命宣告をされていないだけで、もしかしたら明日消えるいのちかもしれない。

いのちの重さは本来、同じであるべきなのです。

誰が皆さんの「明日」を保証してくれるでしょうか。
夜寝て…朝起きたらまた何も変わらない日々なのでしょうか。

これまでの経緯

簡単にこれまでの私をまとめてみます。

はじまりはここから

わたし
わたし

2月半ば。1月から続く不調、体のかゆみ。胃のムカムカにより病院に行きます。
そこで初めは不明であると言われたが、後日精密な検査により癌と判明。その場で余命宣告。
病院では冷静だった私も、家に帰り、扉を締めた瞬間に泣いた。うわんうわん泣いた。それからは自暴自棄。一年も一日も対して変わらないと考えるようになり、自殺未遂をする。が、失敗。死ぬのが怖いことを知ります。

それから2~3日が経過します。

2〜3日が経ち、少し落ち着いた頃、わたしはひとりでいるのがひどく寂しくなります。『誰かとおしゃべりがしたい 』それは現実世界からの逃避でもありました。
そこで思いついたのはTwitter。手っ取り早く私と話してくれる人がほしい。でもどうやったらこんな私と話してくれるだろうか。
かつて痴漢されたことのあるわたしは、『えっちなことをツイートして話し相手を作ろう』と考えます。

バカですよね。誰でも良かったんです。わたしとおしゃべりしてくれさえすれば。

男性に対して歪んだ知識しか無かったわたしは、こんなことしか思いつかなかったのです。その時、目的を叶えるためにイヤイヤ水商売する女の子の気持ちがなんとなく分かった気がしました。

でも、なかなかわたしとまともに会話してくれる人は現れなかった。

当たり前です。そんな風にして集めた人たちですから。それに私自身が楽しくなかった。やってみて分かったのですが虚しいのです。客観的にみて馬鹿なことをしていると分かるのですが、その馬鹿なことをしているのが私自身であり、自己嫌悪に陥るのです。

そこで私は正直に話そうと思いました。
当初、本当は話したくなかったのです。それは同情されるのが嫌だったから。可哀想な人と思われるのが嫌だったから。

真実の告白

 正直なことを話したところ、多くの反響がありました。

応援メッセージ声援。一方で批判バッシング。

批判やバッシングをする方たちは過去の(自暴自棄に陥っていた)わたしをみて、批判してしているのでしょう。

過去のわたしについて、非はありました。正しいと思えるやり方ではありませんでした。そこから疑いの芽が出たのもわたしの責任です。

説明不足でした。ごめんなさい。

無知ほど恐ろしいことはありません。自分を信じて疑いませんから。まさに井の中の蛙。夜郎自大。夏の虫氷を笑う。です。

わたしを非難する方へ

私は基本的に批判者は悪だと言うつもりは毛頭ありません。むしろ感謝しています。そういうスタンスです。

何故か、批判する方は普段日常的に物事を疑っては取捨選択しています。そういう方々が少なからず存在しているから、社会というものは改善され、経済は回るのです。

しかし、今回の件に関しては私はあまり心地よいとは思えませんでした。なぜなら批判する方々には『明確な根拠』が無いからです。

考えてみてください。例えば、殺人事件があったとします。自分が『私は犯人じゃない』と主張するのは自由ですが、他人に対して根拠なしに『お前が犯人だ』と断言したらどうでしょう。言われたほうはあまり心地良くはありませんよね。

日々の日常を疑うのは大切なことです。しかし、明確な根拠ナシに人を批難していいかといったら答えはNOです。

明確な根拠というのは、曖昧さのないもの。動かぬ証拠です。『〇〇だから□□で、つまりこの流れから推測すると△△と言える。』などといった推測や憶測ではありません。

その推測の過程が正しいと言えますか?数学でおこなう証明とは違って、ただの推測に過ぎません。推測は不明瞭です。あなたは人間の心理を完璧に理解してますか?
精神科医やカウンセラーですら困難なのに、どこに根拠があるのでしょう。

家族について

このことについては深く申し上げられません。ごめんなさい。
話せることは、物心つく頃から父はいないという事。母は高校生の頃に他界したということ。姉とは別々に暮らしているということ。姉には知られたくないということ。

診断書をみせろ

『診断書を見せろ。そしたら信じてやる。』そういう方がいらっしゃるのでここで言及しておきます。

結論から言うと診断書は見せられないのです。

そもそも診断書というものは必ずもらえるものではありません。医師が休養や支援が必要だと判断した場合に限り発行されるものです。

わたしは現在会社に勤めていません。 そのため、「会社に提出するために診断書が必要」ということはないのです。

また、診断書というのは基本的に作成及び発行に料金(お金)がかかります。つまり有料です。

もしも自分だったらと考えてみてください。必要のないものをわざわざお金を出してまで買い、見たくもない現実を眺めたいと思いますか。わたしにはそんな勇気ありません。

わたしは疑いの目でしか物事を捉えられないあなたたちが嫌いです。

それならば「検査結果ならあるだろ」という方が湧き出ると思います。

わたしは問いたい。あなただったら見せられるのかと。

わたしは見せたくありません。

理由は3つあります。

  • わたしのプライバシーを守るため
  • ‌見せても偽装と言われるのがオチ
  • ‌可哀想なわたしになりたくない

まず1つ目ですがわたしのプライバシーを守るためです。

検査結果の形式、記載方法は病院によって異なります。調べればどの病院かくらいまでは分かる可能性があります。

先程【家族について】で記載したように、私は私であることを身内(姉)に絶対に知られたくありません。

また、検査結果というものは本来人に見せるものではありません。自分の身体の中身。その詳細がかかれています。白血球がどうとか、 HbA1cがどうとか…

あなただったら見せられますか?

2つ目、『見せたところで偽装と言われるのがオチ』

Twitterの中には優秀な方も沢山いますが一部、根拠のないことをあたかもそれっぽいことを言って難癖をつけるいわゆる『口がうまいだけ』の人がいます。

例えば、『数値がおかしい本当なら〇〇のはずだ。だから偽装だ』というように。根拠の無い自信も時には必要ですが使う場面が違います。使い方を誤れば人を傷つけます。私はそれに抗う体力はありません。あなた達のほうがずっとずっと体力があります。

最後、『自分自身』のポリシーに基づくものです。

3つ目、『可哀想なわたしになりたくない』

私は昔から強く生きたいと思っていました。本当は弱いのを隠して、強がって、そうやって生きてきました。弱っているところなんて見せられなかった。それは今も同じです。

だから、今ここで『ハイ診断書。証明したからみんな信じて』そんな風に言うのが心の底からイヤでした。

わたしは同情してほしいんじゃない。私が生きていたということを残したいだけです。

まとめると、わたしの身体の中身をさらけ出し、身バレするリスクを負いながらも自分のポリシーに反したことをする。さらに見せれば偽造といわれる可能性がある。そこに公開するメリットはないと考えます。

嘘であってほしいと願っているのは他でもないわたし自身です。

ここまで教えても尚、診断書診断書言う方は自分のヤバさに気づいたほうがいいですよ。

繰り返しますが、わたしは決して同情してほしいのではありません。

だから診断書は見せられないし、検査結果は見せたくないのです。

3種類の人間

私に寄せられる批判的なリプライを分析してみた結果、おおよそ批判者には3通りの人間がいると分かりました。

  • 疑ってはいるが、応援する気持ちもある人
  • ‌自信は無いがなんとなく批判する人
  • ‌自信を持って批判する人

疑ってはいるが応援する気持ちもある人

『もし嘘なら〇ネ、本当なら応援します』『証拠をみせろー』『診断書ないと信じられない』
こういった方達です。

この層に目立つのはどっちつかずであるということ、そして結果は両極端であること。死ぬか生きるか、みたいな感じです。

『叩きたいんだけど、もしもの事があったら嫌だから保険として応援という言葉を使う』 疑ってはいるが、完全とは言い切れないから一応念の為保険に入っておくみたいな保守的な姿勢。

自己保身的で身勝手、ある意味で世渡り上手な部分はありますが、よくよく考えるとただの自分大好きちゃんです。

そういう人ほど、証拠を見せたところで『ふーんそうだったんだー』で終わって、私に対する興味などはなから無かったかのような素振りをするのです。

イジメを見てみぬふりする傍観者的な立場と言えます。

疑っているなら「応援してます」とかはなから言わないほうが良いですよ。今までそうやって何人の人を傷つけてきたのでしょうか。

自信は無いがなんとなく批判する人

『これ嘘らしいですよー』
こういう方です。この層も保守的な部分があります。『らしい』という言葉を使い、曖昧さを強調して、違ったときの責任は自分ではない他の誰かに擦り付ける。

ドラえもんでいうとスネ夫みたいな立場です。強いものに引っ付く金魚の糞。大した根拠はなく、自分でも納得こそはしていないが、なんとなく感覚で批判する。

学生時代を思い出してください。グループのリーダーのあとをくっついて回っていませんでしたか。

自信を持って批判する人

『これは違う!』『嘘だ!』と断定的な言葉を使う人です。

この方たちの良いところは自分の信念を貫けるところです。一方で、それが間違ったものだとしても貫き通してしまう恐ろしさがあります。

たとえば、国語の文章題で、間違った問に対し『ここはこうとも読み取れるから間違ってない!』と主張する、もしくは心の中で思っているタイプです。

そういった層は自分が少数派であるということに気付いていません。

そしてその少数派の自分が【正】であることを信じて疑わないのです。
小学校の道徳の時間に毎時間とんでもない発言をする人がいましたよね。その方です。

私は、これらの3種類の人間を悪だとか、最低だとかを言うつもりは毛頭ありません。
「僅かな情報で思い込んでいただけ」なのですから。

思い込み

パラダイム転換

パラダイム転換という言葉があります。

わたしも何度も読んだことのある有名な本。『7つの習慣』から引用します。
私という人間を作った一つの教科書のようなものです。

 ある日曜日の朝、ニューヨークの地下鉄で体験した小さなパラダイム転換を、私は忘れることができない。乗客は皆、静かに座っていた。ある人は新聞を読み、ある人は思索にふけり、またある人は目を閉じて休んでいた。すべては落ち着いて平和な雰囲気であった。

 そこに、ひとりの男性が子供たちを連れて車両に乗り込んできた。すぐに子供たちがうるさく騒ぎ出し、それまでの静かな雰囲気は一瞬にして壊されてしまった。

 しかし、その男性は私の隣に座って、目を閉じたまま、周りの状況に全く気がつかない様子だった。子供たちとはといえば、大声を出したり、物を投げたり、人の新聞まで奪い取ったりするありさまで、なんとも騒々しく気に障るものだった。ところが、隣に座っている男性はそれに対して何もしようとはしなかった。

 私は、いらだちを覚えずにはいられなかった。子供たちにそういう行動をさせておきながら注意もせず、何の責任もとろうとはしない彼の態度が信じられなかった。周りの人たちもいらいらしているように見えた。私は耐えられなくなり、彼に向かって非常に控えめに、「あなたのお子さんたちが皆さんの迷惑になっているようですよ。もう少しおとなしくさせることはできないのでしょうか」と言ってみた。

 彼は目を開けると、まるで初めてその様子に気がついたかのような表情になり、柔らかい、もの静かな声でこう返事をした。

 「ああ、ああ、本当にそうですね。どうにかしないと……。たった今、病院から出て来たところなんです。一時間ほど前に妻が……。あの子たちの母親が亡くなったものですから、いったいどうすればいいのか……。子供たちも混乱しているみたいで……」

 その瞬間の私の気持ちが、想像できるだろうか。私のパラダイムは一瞬にして転換してしまった。突然、その状況を全く違う目で見ることができた。違って見えたから違って考え、違って感じ、そして、違って行動した。今までのいらいらした気持ちは一瞬にして消え去った。自分のとっていた行動や態度を無理に抑える必要はなくなった。私の心にその男性の痛みがいっぱいに広がり、同情や哀れみの感情が自然にあふれ出たのである。

 「奥さんが亡くなったのですが。それは本当にお気の毒に。何か私にできることはないでしょうか」

 一瞬にして、すべてが変わった

『7つの習慣』(インサイド・アウト)より

このように、あるひとつのものの見方が一瞬にして別の見方へと移行することがあります。それがパラダイム変換です。

ローの言葉を借りるなら、「悪の“葉っぱ”に斧を向ける人は1000人いても、“根っこ”に斧を向ける者は1人しかいない」ということです。

真実を突き止めようとするのなら、行動や態度という「葉っぱ」に心を奪われることなく、その行動や態度の源であるパラダイムという「根っこ」に働きかけなければなりません。

「葉っぱ」ばかりに目を向けていませんか?

人生はシュレディンガーの猫

もし〜なら/〜だと分かっていたら/〜と知ってしまったから

人生においてこういうことは良くあります。人は自分の思考でしか生きていません。パラダイム変換は必ずしも良いことに起きるのではありません。

ここで一例をご紹介しましょう。あなたが既に感じたパラダイム変換かもしれません。

あなたは俳優のAさんがファンで大好きでした、しかしAさんが不倫をしていたと判明した瞬間に嫌いになります。

「なんか嫌だ。気持ち悪い」そういった感情です。

その方々の性格が特別ひん曲がってるとか、芯がないとかいうわけではありません。

別にいいのです。それは。人間の心理ですから。もちろんわたしもその一人です。

もしもわたしに、仮にでも彼氏がいたとして、その人に裏切られたら憤怒するでしょう。もしくは、全てがどうでも良くなり自傷的になるかどちらかです。

あなたも同じです。もしも、あなたが大好きで慕っている人が、浮気をしていたとしたら?絶対ないなんて保証はないのです。知ってしまったらあなたは怒り狂うでしょう。

 人生はシュレディンガーの猫です。

好きと嫌いが混在しているのです。
ある一定の条件下においては好きであるが
一定の条件下になったら一瞬にして嫌いモードに切り替わります。
そういうものなのです。

少しわたしのこと、分かっていただけたでしょうか。

いのちの意味

私は幼い頃、「何故生まれたんだろう」と答えのない問題を本当に真剣に考えたことがあります。

皆さんも一度はあるのではないでしょうか。

いのちの意味。それは私たち人間が目を向けたところにしかありません。
目を向けた先にしかドラマは生まれないのです。

だから「人間のいのちは偉大だ」「ペットのいのちは大事だ」となるのです。

たとえば、ドキュメンタリー映画。題名「いのちについて」というものがあったとします。
そこに崇高で気高いもとして登場するのはいつも人間やペットのいのちです。

今お箸でつまんでいる牛肉のことなどはすっかり忘れて、まさに目の前の「大事だ」とするいのちを懸命に応援します。

そして口を揃えて言うのです。

可哀そう。と。

それがいいか悪いかは置いといて、人間とはそういうものであるのです。
それは「一種の仲間意識のようなもの」である気がします。

殺虫剤で殺した虫や昨日食べた魚と、私たち人間のいのち、「いのち」であることは同じはずなのに、自分たちのものは他と違って特別で崇高で、偉い。そう考えるのです。

そういう意味ではいのちに差はあるのかもしれません。

様々な道徳の時間に聞かされたいのちの平等さ。

でも過ごしていればわかります。

明らかに平等じゃない。同じ重さじゃない。

そんなのは幼稚園児でもお年寄りでもわかります。

最後に

とても大切なことを言います。

先生、有名人、インフルエンサー、政治家、教祖。

常に、勢いのある人、強い言葉を言っている人が正しいとは限りません。それが正しいかどうか、あなたがちゃんと考えなくてはいけない。

つまり、わたしの言っていることもそう。あなたが考えなくちゃいけない。

しかし、ここまで読んでいただけたのなら、分かっていただけたのではないかと思います。

わたしはあなたたちに幸せになってほしいです。それがたとえわたしを批判する人だとしても。

人が人を疑うのは仕方のないことです。
文明が発展し続けられたのは、批判者がいたからです。

でも、ほんの少しだけ、ちょっぴり、欲を言うのなら、
可能な限りみんな仲良く手を繋げたらいいなあと思うのです。

PS,最近カメラを買いました。写真というのはその人のひととなりを表します。
動画はその集合体。
撮った写真、時間をかけて作った映像。それらを見ればその人がどんな人なのか大体のことは分かります。

2週間前、動画を作りました。わたしの好きな「雨の音」を使って。

ここで紹介するようなものでもありませんが、皆さんも雨の音で癒されてほしいなあと思います。

第一章「決意」 雨の音に癒されて ヒーリングミュージック rain sounds

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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