ほら、例の 『共犯新聞』 3代目ゲストブックだよ。
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「筋」の可視化
投稿者:久保AB-ST元宏 投稿日:2018年 4月 9日(月)15時04分56秒>この
岡山であったP-MODELのライブ(イン・スルー・ジ・アウト・ドアの発売前の音源を引っさげての渋谷陽一のトークライブ。
↑
■中野さんと言葉を交わしていると、時々、ひとりごと(?)のような気がすることがあります。
なんせ、出てくる重要キーワードが、私と交差しまくり。
スイッチだらけ。
地雷の夜。=児雷也。
1979年、松村雄策が日本コロムビアから出したばかりのシングル・レコード「GREEN LIGHT」発売ライブを札幌の大谷会館で行う!ってーので、
高校3年生の私は高校1年生の弟を連れて120km北の沼田町から行きました。
これが、私の初めてのプロ・ミュージシャン(?)のライブ体験でした。
この時、ライブの前座(?)が渋谷陽一で、細身の白っぽいスリー・ピースのスーツに長髪で、やたら色気があって、かっこよかった。
■今は、便利な世の中で、YouTubeで、
「1979年7月21日ON AIR 松村雄策 渋谷陽一 仙台FMリウエストアワー 」
ってのが聴けます。すげぇっすよね、これ。
たぶん、この7月の仙台 → 8月の札幌@久保兄弟参戦 → 10月の岡山@中野さん参戦、なのでしょう。
ですから、すでに1979年の段階で、私は中野さんとつ・な・が・っていたわけで。
上記の仙台では、まだレッド・ツェッペリンの新作『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』の音源は非公開、ってーのも、時系列リアル・タイムとしておもしれぇっすよね。
上記の音源では松村雄策のライブも聴けますが、これはまさに、私が1カ月後に札幌で観たライブと同じ構成です。
松村が呑みかけのバドワイザー缶を客席に蹴って、ライブは始まりました。
松村は前作のアルバム『夢のひと』の軟弱な音(?)からブギー色を濃くしたかったので、生き生きしていますよね。
たぶん、アルバム『夢のひと』で松村はジャックスを、渋谷陽一プロデューサーは歌ものを、アレンジャーはプログレを狙っていて、それが1978年の時代とは大幅にズレていたからねぇー。
こう書いていて、懐かしすぎるのですが(笑)、中野さんには安心して固有名詞を説明抜きで書き続けられる安心(笑)。
そも&そも、私は松村雄策が歌って、岩谷宏が歌詞を書いたカセット・テープのイターナウ『今がすべて』の全曲をイラスト詩集(?)として高校の新聞会の回覧ノートに直筆フル・カラー連載で描いた高校生でしたから。
>P-MODELとリザード、ARBが参加
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■いやぁ、これはすげぇ。世界的に見ても、これらは1979年で観ておくべき3バンドですね。
ちなみに私の弟は19歳の時にシロートとしてP-MODELライブを札幌へ招聘し、1990年代に芸名「ことぶき光」でP-MODELに加入します。
1984年、アブノーマル・ストリッパーはARBと共演しました。
1979年の日本で一番人気があったパンク・バンドはストラングラーズだ、と上記のラジオで渋谷陽一が語っていますが、そのオコボレでリザード人気もありましたよね。私は引いてみていましたが。モモヨ(管原庸介)は今、何をやっているんだろ?
>79年10月ごろ、僕はロッキング・オン(特に岩谷宏)の影響をもろに受けて全投稿型同人誌
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■『共犯新聞』にも書いたように、「当時の私は高校の新聞会で勉強もできないくせに(がくっ。)教師 ににらまれながら、
連日、教師が不快になる内容の新聞を全校生徒に向けて出しまくってい」ました。
それは、登校前の全校生徒の机の上に、教師の検閲を無視した号外を置いて回る☆とか。
かなり、やばい高校生ですよね(笑)。
■そう&そう、1978年秋の修学旅行で東京で大学生と待ち合わせをして、新宿レコードでニック・ロウのLPレコードを買ったなぁ。
その大学生は、西日本(?)出身の日笠慎也で、『蛍 ザ・ファイアー・フライ』ってミニコミをやっていました。なんでも高校時代に同名の人力飛行機、ハングライダーを飛ばしたとか?
その大学生と中野さんは世代も近いし、出身地も近いから、どこかでつながっていないかな?
あ、そのミニコミも共犯書斎にあります。私は、なんせ物持ちがいい。『ロッキング・オン』も1975~1987年は全冊、あります(笑)。
>単行本より雑誌の方がいいんだと思い、なぜかと聞かれると、雑誌は消えてなくなってしまうから
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■分かるなぁ。すごく、よく分かる。
それって、P-MODEL≒平沢進の
「本当はソノシートで出したかった。その辺の店先にぶら下げられてあって”こ れちょうだい”ベリッ!とはがして買われるような。」発言と同じだし、
セックス・ピストルズがアルバム1枚で消えてなくなってしまったことに代表される、
ニヒリズムのその後を生きているかのような、誰もが「はやく80年代よ来てくれ!」と根拠なく声をひそめて放熱をひかえていた1970年代の終わりに向かう時代の空気ですね。
私もアブノーマル・ストリッパー当時、「何年も続けることが重要な時代では無くなったし~。」とファンの女子中高校生の前で言うと、
誰もが、私の発言には同意しなければいけないと思いつつも、「でも・・・。」と言い出しては、言葉があとに続かない時代でもありました。がくっ。
■そして&また、1984~1985年ごろ、アブノーマル・ストリッパーのファン数人(←みんな女子だったなー。)に渋谷だったかに呼び出され、
その日のテーマ(?)「今後のアブノーマル・ストリッパーについて」彼女たちが熱く語り合っている最中に、
私は、「(当時のアナログ版)『共犯新聞』は、どん&どん、いろんな人を巻き込んで行って、アブノーマル・ストリッパー色が消えてなくなってゆくのが好ましい。」と言うと、
女子どもは、とまどいだして、さらに私が「『共犯新聞』の編集を君たちがやるかい?」とお願い&提案をすると、その場が暗くなった☆よーな記憶があります(笑)。
ファンは、久保の表現に期待をしていた、ってことは、まぁ、ふつーに考えれば分かるけれど、
当時の私の関心の中心は、中野さんの「消えてなくなってしまうから」に近い同時代性だと思います。
>すべて読んだ人にだけゆだねられている
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■今日の私のカキコミは、なんでも&かんでも70年代『ロッキング・オン』がらみでレスしてゆけば、
あの当時、「ROの会」ってーのがありましたよね(笑)。
私は、もちろん入ってはいませんでしたが(笑)、毎号、「ROの会」の新入会員の個人情報が記載され、
そこに「ロッキング・オンは何もしません。自発的に何かを始めない人がROの会に入っても意味はありません。」的なコメントが毎回しつこく書かれていましたよね(笑)。
この発想もまた、吉本隆明「自立の思想」的でも、ありますなぁ。しみ&じみ。
>優れた表現は必ず場によって変容され、発した者の意図を離れたところで共有される。
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■中野さんが言う「場」を、私は「メディア」と名付けているのですが、
私と中野さんが、装置としてのメディアにある一定の信頼と期待を持つ理由は、
その透明なバトン・リレーの可能性にあるのでしょう。
■「セックス・ピストルズがアルバム1枚で消えてなくなってしまった」終わり方は、
彼らが登場した当初から、長髪をなんの未練も無く否定していたファッションという「場」=「メディア」で共有されていたのですし。
>誤解に満ちた浅はかなものだったとしても、まぎれもなく吉本隆明の作り出した「場」が影を落としたもの
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■私は56歳まで生きてきて、いよ&いよ、歴史は進化に向かっているのではない、と、絶賛☆確信中♪
東浩紀『一般意思2.0』では、ハンナ・アーレントの考え「ひとは私的には動物として生き、公的にのみ人間として生きる。」が語られています。
ここに、今日も話題の「自衛隊のイラク派遣時の日報問題、財務省の決裁文書の改ざん問題、財務省理財局が森友学園に「口裏合わせ」を依頼」の補助線を差し込むと、
公的だからこそ動物として野蛮になり、私的だからこそ正論を愚直に貫き人間であろうとする姿の存在も構造されていることが分かります。
でも、ロックを聴いてきた我らには、こんなのアタリマエなんですよね(笑)。
愛と平和のジョン・レノンが、狂気の天才であることは、「発した者の意図を離れたところで共有され」ています。
■また、私は吉本隆明を語る時に「体系」を持ち出すと、やや緊張します(笑)。
それは、「筋」と言い換えてもいいでしょう。「やつの考えには、スジが通っている。」の「筋」、です。
ラーメンと映画と政治とグラガを同じ言葉で語る『共犯新聞』の「筋」(がくっ。)。
■もはや人類は直線型の進化をしていないのであれば、「筋」の可視化が当面の『共犯新聞』の仕事のよーな気がします。
>僕は一番影響を受けた77~78年ごろのロッキング・オン
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■私が『ロッキング・オン』の存在を知ったのが、1977年の春、入学したての高校のある街の本屋で、でした。
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