共産党・志位委員長の歴史認識で大批判「昭和天皇は軍の最高責任者として侵略戦争拡大の方向で積極的に関与した」

「『戦争責任言われつらい』晩年の昭和天皇吐露」
昭和天皇は、中国侵略でも対米英開戦決定でも、軍の最高責任者として侵略戦争拡大の方向で積極的に関与した。個々の軍事作戦に指導と命令を与え、戦争末期の45年に入っても戦争継続に固執して惨害を広げた。歴史の事実だ。

侍従日記「戦争責任言われつらい」晩年の昭和天皇吐露

昭和天皇が85歳だった1987(昭和62)年4月に、戦争責任を巡る苦悩を漏らしたと元侍従の故小林忍氏の日記に記されていることが明らかになった。共同通信が22日までに日記を入手した。昭和天皇の発言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と記述している。

やはりといってはなんですが、志位和夫委員長(共産党)の歴史認識には疑問を持たざるをえません。
昭和天皇や山本五十六大将や他にも戦争を避けようとした政治家や軍人も多くいましたが、開戦派の政治家や軍人が新聞社をけしかけ世論を煽り戦争にいたったことは広く知れ渡っています。
それに、敗戦後に昭和天皇は自らの命を顧みず国民を守ろうともしました。

昭和天皇とマッカーサー元帥のお話を紹介します。

マッカーサーに対し、陛下は直立不動の姿勢をとられ、国際儀礼としてのご挨拶をしっかりとなさったうえで、このようにおっしゃられました。「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟があります」

弱ったのは通訳でした。その通り訳していいのか?けれど陛下は続けられました。

「しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。
温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」

マッカーサーは驚きました。
世界中、どこの国の君主でも、自分が助かりたいがために、平気で国民を見捨てて命乞いをし、その国から逃げてしまうのが、いわば常識なのです。
ところが陛下は、やれ軍閥が悪い、やれ財閥が悪いという当時のご時勢下にあって、「一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても」と淡々として申されたのです。

マッカーサーは、咥えていたマドロスパイプを、机に置きました。
そして椅子から立ち上がりました。
そして陛下に近づくと、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と命じました。

マッカーサーは今度はまるで一臣下のように掛けていただいた陛下の前に立ち、そこで直立不動の姿勢をとりました。
「天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!」
彼は、二度、この言葉を繰り返したそうです。
そして、
「私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」と言いました。

陛下も、立ち上がられました。
そして涙を流しながら、「命をかけて、閣下のお袖にすがっております。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と申されたのです。

そののちマッカーサーは、陛下を玄関まで伴い、自分の手で車の扉を開け、陛下をお見送りしました。
そして、あわてて階段を駆け上がると、これまでのGHQの方針を180度変更するあらたな命令を下しています。全文はこちら⇒https://ameblo.jp/phenix753/entry-11864155545.html

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