みやぎ野球史再発掘
石巻野球界の父、毛利理惣治 伊藤正浩
石巻野球場にある「毛利理惣治翁之像」。同球場は震災後に仮設住宅団地に使われ、2020年度中に利用再開の見通しだ=宮城県石巻市水押3丁目 |
石巻野球界の父、毛利理惣治は、もっと知られるべき野球人だ。
1896(明治29)年、みそ醬油(しょうゆ)醸造業を営む商家に生まれた毛利は、仙台商業―早稲田大学で野球に熱中。家業を継ぐために石巻に戻ると、1914(大正3)年に、石巻日和倶楽部(現存の社会人チームでは東北最古。全国でも3番目に長い伝統を誇る)を設立。オーナー兼監督となった。日和倶楽部は、石陽倶楽部や渡波倶楽部(宮城水産OB)といった石巻のライバルたちと競い合いながら実力をつけていった。
毛利は、31(昭和6)年には私財を投じて市内水押に日和球場(現・石巻野球場)を建設し、のちに石巻市に寄贈した。こけら落としの試合には、当時の球界最高峰の東京六大学野球から早稲田大学を招き、仙台鉄道局との好カードを実現させた。
33年には石巻市制施行を記念して、三田稲門戦(現役・OBチームの早慶戦)を実施。さらに、同年の都市対抗野球の宮城予選を石巻に誘致。見事に日和倶楽部が優勝を飾った。また、日和倶楽部として多くの少年野球大会や軟式大会などを主催した。
終戦直後には進駐軍チーム相手に日米野球を開催。石巻に疎開していた阪神の若林忠志投手を日和倶楽部に引き入れ、登板させた。
さらに47年、石巻中(現石巻高)に野球部を設立して、監督に就任。唯一の野球経験者は、日大三中(現日大三高)から転入してきた息子の光雄だけであったが、翌年には、県内から仙台勢以外で初の甲子園出場を果たした。65年没。
球界に貢献した人物は野球殿堂博物館(東京)で顕彰されているが、地方の野球人は事実上対象とされていない。ならば「みやぎ野球殿堂」を作り、郷土の野球人をたたえるべきだと思うのは筆者だけだろうか。
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