みやぎ野球史再発掘
沢村に沸くスポーツマン球場 伊藤正浩
1929(昭和4)年6月、仙台に二つの球場ができた。一つは、23日に開場した八木山球場(現・八木山動物公園)、そしてもう一つが、29日に開場したスポーツマン球場だ。前年に東北体育協会球場が観客席の崩壊から閉場し、活動の拠点を失っていた仙台球界の光明であった。
スポーツマン球場ができたのは薬師堂の北側(現・仙台市若林区木ノ下3丁目)。本塁からセンターまで100メートルほどで、収容人数は1万人とされ、2万人収容の八木山球場に比べて規模は小さい。だが、宮城電鉄(現・JR仙石線)榴ケ岡駅から徒歩圏内と、交通の便に勝り、旧制中学の甲子園大会の予選や、都市対抗野球の予選などの会場となった。
球場を作ったのはスポーツマン協会。杉村多利治、加藤謙次郎、半沢正二郎といった市内の野球愛好者で組織されていた。
外野フェンスの向こうは雑木林で、ここに「野球蟬」と称されるやじ馬が多数登り、タダ見に興じていた。ついには青年が転落死する事故も起きている。
ここでプレーをした有名選手として、35年に来仙した伝説の大投手、巨人軍の沢村栄治が挙げられる。前年の日米野球でベーブ・ルースら全米軍の強力打線を1点に抑える好投を見せ、18歳ながら、プロ野球界を代表するエースとして名をはせていた。
10月28日に行われた試合の対戦相手は仙台鉄道局。東北随一の強豪だったが、日本プロ野球界初の米国遠征を敢行し、帰国後の国内遠征でも40戦36勝の戦績を収めた巨人軍には歯が立たない。巨人軍が17点を挙げ圧勝。沢村は七回に味方の2失策から4点を失うが、完投勝ちを収めている。
その後、スポーツマン球場は経営難から閉場。現在では球場の痕跡は何も残されていない。
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