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03月04日朝日新聞デジタル朝刊記事一覧へ(朝5時更新)

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みやぎ野球史再発掘

全米軍呼んだ伊勢親子 伊藤正浩

写真:1931年秋、船で日本に向かう大リーガーたち。レフティ・グローブ(前列左から2番目)やルー・ゲーリッグ(後列右端)の顔が見える=佐山和夫さん提供 拡大1931年秋、船で日本に向かう大リーガーたち。レフティ・グローブ(前列左から2番目)やルー・ゲーリッグ(後列右端)の顔が見える=佐山和夫さん提供

 1931(昭和6)年11月、全米軍が来仙し、八木山球場で試合をした。

 読売新聞から仙台での興行権を購入したのは、仙台市街自動車株式会社(仙台市営バスの前身)。その中心は、伊勢久治郎、孝太郎の親子であった。久治郎は1866年の生まれ。れんが製造(現在のあすと長町に工場があった)などで財を成し、1919年にバス事業に進出した。

 試合の前評判は上々で、2万人収容の球場に外野席を増設したが、それでも前売り券は完売の盛況。今のように造成されていなかった八木山の球場周辺に、前日から徹夜組が現れ、これを目当てに夜鷹そばが出るほど。当日も円タク(タクシー)やバスが球場目指して道路に列をなした。

 仙台での全米軍の相手は駿台倶楽部(明治大OB・現役チーム)。しかし、ルー・ゲーリッグ、レフティ・グローブなどのちに7人がアメリカ野球殿堂入りする最強軍団が、13―2で圧倒した。三回、ミッキー・カクレーン選手が逆風を突いて放った本塁打は、センターのフェンス際のポールに当たって跳ね返ったボールが観客に当たり、前歯2本を折るほどだった。

 試合の実務を仕切ったのは、息子の孝太郎だ。雨天の場合は試合は中止(順延無し)、前払い済みの契約金の払い戻しも無しという厳しい条件だった。試合当日、父久治郎が仙台駅での出迎えや開会式のあいさつなどで得意顔だった頃、孝太郎は空ばかり見ていたという。果たせるかな、夕刻から土砂降りの雨に。試合が無事に終了していたのが幸いであった。

 全米軍はこの後も各地を転戦。17戦全勝で帰国の途に就く。

 この3年後のベーブ・ルース率いる全米軍の来仙につながる実績を作った、伊勢親子の功績は大きい。

 (続く)

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