みやぎ野球史再発掘
丘の頂上、伝説の舞台建設 伊藤正浩
大正の末、仙台みそ醸造などで財を成した「紅久(べにきゅう)」4代目・八木久兵衛が、仙台市街の西にある丘陵地・越路(こえじ)山を買い取った。跡を継いだ5代目が、その頂上付近に2万人収容の大球場を造る。数々の伝説の舞台となった八木山球場だ。
関東一の球場であった神宮球場を模し、2年の歳月をかけた。12万円(現在の6億円ほどか)の巨費を投じた球場は、完成後、宮城県へと寄贈された。
1929(昭和4)年6月のこけら落としは、当初は球界最高峰・早慶戦の開催を目指した。折衝の結果、早慶新人戦の実施が発表されたが、これも直前で頓挫。ドタバタの末、急きょ三田倶楽部(慶大OB・現役チーム)と東京倶楽部(都市対抗野球の優勝候補の常連)の好カードが組まれた。このとき、宮城県初の野球実況のラジオ放送が行われた。
翌30年6月には三田稲門戦(早慶OB・現役チーム同士の対戦)が行われた。盛況ぶりは球場にとどまらず、夜には東二番丁小学校で、満員の観客を集めて、球界名士の講演会や運動映画上映会が開かれた。
第2戦では三田軍に慶大の宮武三郎が登場。当時、球界の頂点にあった東京六大学リーグで、57年に立教大の長嶋茂雄(のちに巨人で活躍)に破られるまで通算ホームラン記録を持っていた大選手だ。仙台でも女性人気が抜群で、男性ファンがことごとく稲門軍にくみしたと新聞にある。宮武は期待に応えてライトスタンドに本塁打。八木山球場での日本人選手唯一のスタンドインの本塁打となった。
八木山球場は、有名チームが来仙した際の試合会場となったが、交通の便の悪さから、学生野球や社会人野球の大会には、同時期に開場したスポーツマン球場が使われた。
31年、いよいよ全米軍が来仙する。(続く)
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