みやぎ野球史再発掘
進駐軍VS.名投手・若林忠志 伊藤正浩
1945(昭和20)年、終戦とともに、野球は瞬く間に息を吹き返した。
9月には、東北帝大(現東北大学)病院の武藤外科チームと事務員チームが八木山球場で対戦したと伝えられる。トラックで乗り込んだところ、球場は食糧増産のため畑になっており、センター付近のわずかなスペースで行ったという。
10月には石巻で日米野球が行われた。きっかけは地元消防団員と進駐軍の兵士が親睦ゲームを約束したこと。話が膨らみ、日本側のチームが石巻の強豪・日和倶楽部(くらぶ)となり、そして若林忠志投手の参加が決まると、事態は大きく動いた。
若林はハワイ出身の日系2世。28年に来日し、法政大や大阪タイガース(現・阪神)のエースとして活躍、44年にMVPに選ばれた名投手だ。戦争でプロ野球が休止され、妻の実家の石巻に身を寄せていた。日和倶楽部はさらに、法政大で若林とバッテリーを組んだ藤田省三(のちに近鉄初代監督)や、仙台鉄道局からも選手を補強した。
試合は10月28日、旧制石巻中(現・石巻高)に超満員の観衆を集めて行われたが、12―2で進駐軍チームの快勝に終わった。
実は、進駐軍側も日本にいる部隊から野球経験者を集めており、その中には現役大リーガーが4人、パイレーツのワール投手が登板したとも言われる。一説には、マッカーサー元帥側近で野球好きのマーカット少将がハワイ時代の若林投手を知っており、直々に招集を指示したという。
11月3日には塩釜の上ノ原球場(現・塩釜ガス体育館)でも、進駐軍と全塩釜の試合が行われた。4―13で全塩釜が敗れた記事があるが、詳細は不明だ。
この後、進駐軍では日本人チームとの試合が禁止されたといわれる。終戦直後の宮城での日米野球は、全国的にも希有(けう)な事例だ。
ここから広告です
PR注目情報