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03月04日朝日新聞デジタル朝刊記事一覧へ(朝5時更新)

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みやぎ野球史再発掘

戦時下「幻の甲子園大会」 伊藤正浩

写真:「幻の甲子園大会」に参加した仙台一中選手。右から春日清、小泉芳夫、木村公一の各選手。ローマ字が禁止され、胸の文字は「SENDAI」から「仙台一中」に 拡大「幻の甲子園大会」に参加した仙台一中選手。右から春日清、小泉芳夫、木村公一の各選手。ローマ字が禁止され、胸の文字は「SENDAI」から「仙台一中」に

 1942(昭和17)年8月の甲子園大会は、大阪朝日新聞の主催ではなく、「大日本学徒体育振興大会」の1競技として、文部省の外郭団体が仕切った。通算回数には数えられない、いわゆる「幻の甲子園大会」だ。

 戦時下の大会で、「選手」は「選士」と呼ばれ、打者が投球を避けることは「突撃精神に反する」として許されず、当たっても死球とならなかった。

 この大会に東北予選を勝ち抜いて出場したのは、村田栄三監督率いる仙台一中(現仙台一高)。小泉芳夫主将は開会式で選手代表の答辞(選手宣誓)を任された。「皇国次代を双肩に担うべき青年学徒としてあくまで正々堂々と戦う」と、これも軍国調であった。

 仙台一中は1回戦で優勝候補の大分商業に3―2で勝利。レフトの富田実選手が、四回にフェンスに激突して左足を3針縫うけがを負いながら、最終回のピンチに大飛球を好捕したガッツプレーが語り草だ。

 大分商業の投手は荒巻淳。のちに高専大会、都市対抗野球、プロ野球で日本一となり、85年に野球殿堂入り。「和製火の玉投手」と呼ばれた名投手の栄光の野球人生で、甲子園制覇という最大の栄誉を阻止したのが、仙台一中であった。

 続く準々決勝は広島商業戦。しかし宿舎で出された外国米に当たって下痢になる選手が続出し、10―28で大敗する。小泉投手も体調を崩し、四死球を連発したが、負傷以外での選手交代禁止の大会規則から、投げ続けざるを得なかった。

 この後、戦争激化により野球は休止に追い込まれ、再び球児が甲子園に集ったのは戦後の46年のこと。

 当時の仙台一中ナインで最後の生き証人だった春日清さんが、今年2月、91歳で亡くなった。「正式な大会じゃなくとも、甲子園の土を踏んだことは誇りだった」と話していたそうだ。

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