みやぎ野球史再発掘
仙台初の球場、突然の幕 伊藤正浩
仙台初の野球場の話。
伝来以来、仙台の野球試合は、旧制二高や旧制仙台一中(現仙台一高)といった学校の校庭で行われていた。しかし大正時代中ごろから有料試合が行われるようになると、専用球場の必要が生じた。そこで造られたのが1923(大正12)年5月27日、榴ケ岡に開場した東北体育協会球場(体協球場)だ。今の仙台サンプラザのそばになる。
こけら落としの試合は、プロ野球リーグのなかった当時、球界の最高峰だった東京五大学リーグ(現在の六大学リーグ)の早稲田大学と、日本最初の職業野球チームの日本運動協会(芝浦協会)。3―1(六回雨天コールド)で、芝浦協会に凱歌(がいか)が上がった。
中堅90m、両翼75mほどの狭い球場で、ライトのフェンスの向こうは、客席ではなく寺院の墓地。ここに不届きなタダ見客が多数現れ、石塔や卒塔婆(そとば)を踏み台にして陣取ったために、寺側が汚物をまいて撃退する事件もあった。
体協球場は野球ブームの中、仙台球界の中心だった。甲子園大会の東北予選、都市対抗野球の予選をはじめ、学生野球、社会人野球などの大会の会場として使われた。
しかし、その最後は突然に訪れた。
28年7月8日、第2回都市対抗野球大会仙台予選の第1戦。当時仙台最強の仙台鉄道局(現JR東日本東北)と、素人(アマチュア)倶楽部の注目カードに、2万人とも言われる大観衆が詰めかけた。体協球場の収容人員は公称4千人。重みに耐えきれず、試合開始前に三塁側のスタンドが崩壊したのだ。幸い負傷者はなく、試合も無事行われたが、施設再建のめどが立たず、廃場となってしまう。
現在、跡地はスーパーなどの商業地。往時の面影をしのばせるものは、何も残されていない。
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