みやぎ野球史再発掘
1世紀前、夢追った女学生ら 伊藤正浩
現在、日本の女子野球は世界一の水準にある。2018年のW杯では6連覇を達成。同年、仙台ではクラーク記念国際高校に東北初の硬式野球部ができ、関心を集めている。
実は女子野球の最初の隆盛は、大正時代であった。
宮城県第二高等女学校(宮城二高女、現仙台二華高)に野球部ができたのは1921(大正10)年のこと。自由主義者で知られた小倉博校長が、後押しをした。使用球は、軟式球が普及する前に広く使われていたスポンジボール。試合は七回制だった。
キャッチボール程度のレベルだったようだが、話題が先行し、翌年には、文部省主催の運動体育展覧会で水戸高女と対戦予定、と報道されている。また、宮城一高女や女子師範学校とのリーグ戦創設が報じられたこともあったが、いずれも実現しなかった。
関西や名古屋でも女学校野球が盛んで、24年に大阪で行われた第1回日本女子オリンピックには大阪、和歌山の学校が参加し、和歌山高女が優勝した。
宮城二高女もこの年11月には、スポンジ野球男性チームの強豪・マストン倶楽部(仙台鉄道局高等官チーム)と対戦。8―8で引き分ける善戦ぶりを見せた。
しかし翌年になると、宮城二高女の野球の記録はぱったり見られなくなる。全国的にも女学校野球は急速に衰退した。なぜか。
全国高等女学校長会で野球が「稍(やや)過激」な種目とされたことが、影響したと言われる。女学校野球が盛んだった和歌山県でも、禁止の通達が出たという。当時は、親に反対されながら、野球をしていた女学生も多くいた。女子の運動に対する社会の理解が乏しい時代だったのだ。
女子が存分に野球のプレーができる現代。1世紀前の先人たちの労苦が顧みられることを望みたい。
ここから広告です
PR注目情報