みやぎ野球史再発掘
「ハーレル」が伝えた熱狂 伊藤正浩
仙台の「野球事始め」から、このコラムをスタートしたい。
宮城県史第18巻(1959年)によれば、第二高等中学校(のちの旧制二高)に赴任した米国人英語教師ハーレスが、野球用具を持ち込み、学生に教えたのが始まりという。彼に教わった「仙台野球1期生」には、蔵相になった井上準之助や文豪高山樗牛、河北新報社を創業する一力健治郎らがいる。
さて、「ハーレス」とされてきたこの人物、史料から調べ直すと実は「ハーレル」(F.W.Harrell)であった。外国人名をカタカナで伝える難しさだ。また、来仙した年も、県史より1年早い1887(明治20)年だ。
1859年、バージニア州の生まれ。84年に宣教医(眼科医)として来日し、翌年に妻キャリーと結婚。妻の父親ジェームス・バラは日本初のプロテスタント教会を設立した宣教師で、東北学院を創設する押川方義に洗礼を授けた。
ハーレルは野球を伝えた他にも、宮城の郷土史に足跡を残している。
現在、七ケ浜町に高山外国人避暑地があるが、この先鞭(せんべん)をつけたのが彼だ。狩猟で訪れた際、体調を崩していた妻の療養の適地と見いだし、仙台神学校(のちの東北学院)のシュネーダーに相談。シュネーダーらが当時の七ケ浜村と交渉して一帯を借り、別荘7棟を建てたのが始まりとされている。
ハーレルは帰国後、1892年にワシントン州ギルマン(現イサクア市)の初代首長を務め、その後メキシコで鉱山経営に携わる。1904年、44歳で早世。
彼が仙台に伝えた野球は、明治・大正・昭和と人々を熱狂させてゆく。
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いとう・まさひろ 仙台在住、46歳。会社員の傍ら郷土の野球史を研究する。
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