上田正造 上田正造の概要

上田正造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/16 02:36 UTC 版)

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上田正造
グランプリでの経歴
国籍 日本
活動期間 1993 - 1994
チーム

93’セクレテイルヤマハ

94’ケイユースズキ
レース数 16
チャンピオン 0
優勝回数 0
表彰台回数 0
通算獲得ポイント 0
ポールポジション回数 0
ファステストラップ回数 1
初グランプリ 1993’全日本ロードレース選手権GP250 開幕戦
最終グランプリ 1994’全日本ロードレース選手権GP250 第7戦
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来歴

1993年より2シーズン全日本ロードレース選手権GP250にヤマハ、スズキのワークスチームから参戦。 その後、極度の不振に陥り2年間ノーポイントのまま短い現役生活を終え、1995年引退

引退後は二輪販売会社を経営。大阪府を中心にバイクショップ、中古部品専門店など、グループ合計8店舗まで事業を拡大する[1]傍ら、2008年に設立された野球チーム紀州レンジャーズ(2009年より関西独立リーグ (初代)に加入)の運営母体、株式会社紀州レンジャーズの取締役兼任ゼネラルマネージャーに就任。

2009年2月20日、同じリーグの新球団である神戸9クルーズ執行役員常務として移籍した[2]が、同年6月、神戸を運営する株式会社神戸ベースボールクラブから解任される。関西独立リーグの球団運営は、プロレーサーおよび事業家としての経歴を評価されてのものだった[1]

2011年4月、四国アイランドリーグplusに所属する徳島インディゴソックスの事業統括兼任ゼネラルマネージャーに就任[1]。約2年ぶりのプロ野球界復帰となる。

竹下の在任中、徳島はチーム創設7年目にして初のリーグ優勝、あわせて年間総合優勝も遂げた。徳島は2012年3月27日、3月1日に決定されたNPB育成選手の独立リーグ派遣制度の適用を国内の独立リーグ球団で初めて実現し[3]、広島東洋カープから選手2名を受け入れた。同年前期終了時に「家庭の事情」により退団した喜田剛の後任として、8月に長内孝が打撃コーチに就任した[4]。2012年度の球団収支は1030万円の赤字で、前年度(2890万円の赤字)から大幅に改善した[5]

2012年12月、徳島球団公式ホームページや自身のfacebookにて、退団を表明(球団は「勇退」としている)。その後、2013年は球団顧問に就任。同年シーズン終了とともに退任[6]

2013年3月、徳島県内でイタリア料理店をオープン。同年7月には広告制作やプランニングを行う事務所を開設した後、2015年にはカフェのオープンとネット印刷業に参入した。

略歴

  • 1991年 - 地方選手権にてロードレースデビュー。
  • 1992年 - 日本モーターサイクルスポーツ協会(MFJ)ロードレースライセンス国内A級昇格。
  • 1993年
    • MFJロードレースライセンス国際A級昇格。 
    • 全日本ロードレース選手権GP250にセクレテイルヤマハから参戦。
  • 1994年 - KEIYUスズキに移籍。
  • 1995年 - 現役引退。(スズキ)
  • 2008年 - 株式会社紀州レンジャーズの取締役ゼネラルマネージャーに就任。
  • 2009年
    • 2月 - 株式会社神戸ベースボールクラブ(神戸9クルーズ)の執行役員常務に就任。
    • 6月 - 神戸の執行役員常務を解任される。
  • 2011年 - 四国アイランドリーグplus・徳島インディゴソックスのゼネラルマネージャーに就任。
  • 2012年 - 徳島のゼネラルマネージャーを勇退。
  • 2013年 - 徳島球団顧問に就任。同年シーズン終了と同時に退任。



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