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小牧発祥、なぜ名古屋コーチン? 親元離れて得た名声

駅の利用客を出迎える名古屋コーチンの銅像=小牧市の名鉄小牧駅前で

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 名古屋コーチンの発祥地は小牧市だと言われていて、市内にコーチン像も建てられています。なのに、なんで発祥地でもない名古屋が名前に入っているのでしょうか。「小牧コーチン」じゃない理由が知りたいです。 =小牧市北外山、勝山巳織さん(53)

 東京ディズニーランドのある千葉県の人たちが抱くような、やるせなさが伝わる質問。やはり知名度の違いからだろうか-。手掛かりを求め、名鉄小牧駅前にある名古屋コーチン像を訪ねた。

 駅から出てくる客を見つめる、つがいの二羽の銅像。その台座には「名古屋コーチン発祥の地 小牧」の字と解説があった。いわく、一八八二(明治十五)年ごろ、元尾張藩士の海部壮平、正秀兄弟が現在の小牧市池之内で地鶏と中国産のバフコーチンを交配して誕生したらしい。

 ここで謎が一つ解けた。明治初期、小牧市池之内は東春日井郡池林村だった。小牧市に編入されるのは昭和に入ってからなので、発祥時に「小牧コーチン」とはならなかったのだ。残る謎は「名古屋」の由来。生産者を直撃した。

 小牧駅から北東へ車で二十分。海部兄弟の養鶏場跡地からは二百メートルほど離れた場所に名古屋コーチン専門の養鶏場がある。運営する稲垣種鶏場(春日井市桃山町)の稲垣利幸さん(90)は、この道七十年近い生き字引。しかし、さすがに明治時代の事情までは分からなかった。代わりに、昭和時代から現在までの小牧と名古屋コーチンの歴史を教えてくれた。

 「戦争で名古屋コーチンは姿を消した」。第二次世界大戦前、一帯には稲垣さんの実家も含めて四軒のひよこ屋があったが、戦禍ですべて廃業。戦後は倍以上の速さで成長する外国産のブロイラーが業界を席巻した。一九五〇年代に養鶏業を再開した稲垣さんも、当初は卵を良く産む別の品種を飼った。「みんなその日暮らし。質より量だった」

 転機は国内がバブル景気に沸いた八〇年代末。値は張るが、味は格別の地鶏の需要が高まった。県から名古屋コーチン千羽を譲り受け、春日井市で肥育に乗り出した。小牧市に農場を新設したのは二〇一三年。「発祥の地でやってみたかった。自分の信念に従い、飼い方も餌もトップレベル。小牧の名古屋コーチンがおいしいことを広めたい」と、今も現役を貫いている。

 名前の謎に話を戻そう。養鶏場からの帰り際、取材に同席した孫の泰治さん(27)が一冊の本を見せてくれた。タイトルは「名古屋コーチン作出物語」。著者で地元の郷土史家、入谷哲夫さん(84)に話を聞き、答えにたどり着いた。

 入谷さんは言う。「名付け親は関西人。明治の中ごろ、名古屋方面から列車で大阪や京都に運ばれるコーチンがおいしいと評判になり、そう呼ばれるようになった」

 元々は、生みの親や薄い黄色の羽にちなんで「海部鶏」「薄毛」などと呼ばれ、尾張地域一帯で食されていた。一八八七年に一宮と大阪を結ぶ東海道線が開通すると、尾張の養鶏家がこぞって関西に進出。鶏専用の貨物列車が一日に二便も走るほど人気になった。一九〇五年には日本家禽(かきん)協会が名古屋コーチンという名前で実用鶏種第一号に認定。その名を不動にした。

 市内に名古屋コーチンの姿が戻ったのは最近で、市や小牧商工会議所が発祥地をPRし始めてから日も浅いが、取材を通して関係者の熱意に触れられた。たとえ「小牧コーチン」と呼ばれなくとも、誰もが「名古屋コーチンといえば小牧」と思い浮かべるようになれば、面目躍如と言えるだろう。

 

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