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 理由は、思うに、21世紀の時代精神が、不安という感情を軽蔑しているからだ。

 われわれは、不安や恐怖を、恥辱として意識するように条件づけられている。

 もう少しわかりやすい言い方をするなら、この何十年か、わたくしども日本人は、不安に陥ったり、恐怖に駆られたりする感情のあり方そのものを、理性の敗北ないしは情報収集の失敗と見なすものの考え方にすっかり染まってしまっているということだ。

 われわれは、感情一般を軽蔑している。

 そして、いま、そのことの報いを受けている、と、私はそう考えている。異論は認める。

 「正しく情報を咀嚼していれば、不安を抱く必要はないはずだ」
 「恐怖に駆られている人間は、正常な思考力を喪失した人間だ」
 「適切に思考し、十分に情報を取り入れている人間は、不安や恐怖とは無縁だ」

 というドグマに似たものを、いつの頃からか、われわれは信じ込まされている。

 だからこそ、ネット上の人間は、恐怖を語る人間を寄ってたかって攻撃し、不安を漏らす見解をわざわざRTしてまで嘲笑する。

 不安な人間を笑うのは、それ自体不安の表れだと思うのだが、笑っている人間はそのことに気づかない。なんとなれば、嘲笑はすべての感情を一時的に浄化する特効薬だからだ。

 しかし、ちょっと考えてみればわかることだが、恐怖は思考なんかでは撲滅できない。当然だ。不安も情報収集で消せるようなものではない。もちろん嘲笑でリセットできるものでもない。

 こんなことは、20世紀以前の人間であれば、誰もが知っている常識だった。

 つまり、不安ほど圧倒的で制御不能な感情はないし、恐怖ほど切実に人間を動かすものはほかにないというのが、前の世紀までに普通に生きている人間にとっては、ごくごく当たり前の人生観だったはずなのだ。それほど、人生は、恐怖と不安に支配され続ける経験だったと言い直してもよい。

 とにかく
 「理性で不安が消せるだと? 冗談言うなよ小僧」

 というのが、ちょっと前の時代までの通常人の普通の最終回答だったということだ。

 ところが、どうしたことなのか、令和の時代のわたくしたちはその時点から進歩するどころか
 「怖がっているヤツはバカだ」
 「不安とか、なにガキみたいなこと言ってるわけ?」

 てな調子の、小学校4年生段階の小児マチズモに退行している。

 今回は、だから、「正しく怖がる」ことの再学習を試みるつもりでいる。