専業主婦になるのは、2億円捨てること
橘玲(以下、橘) 先日『2億円と専業主婦』という本を出しましたが、これは2年前に出した『専業主婦は2億円損をする』という単行本を新書にリメイクしたものです。世の中の価値観があまりにも大きく変わったので、バージョンアップする必要がありました。
鈴木涼美(以下、鈴木) 前の本は、なんだかすごく専業主婦に怒られていた記憶があります。ネットで叩かれてましたよね。
橘 そうなんです。大卒の平均的な女性の生涯賃金が退職金抜きで約2億円といのは厚労省の外郭団体である労働政策研究・研修機構(JILPT)が公表しているデータなんですが、それにもかかわらずいちばん多かったのは「女が2億円も稼げるわけがない」でした。あと、日本では幸福度調査で専業主婦のほうが、共働き世帯の女性より一貫して幸福度が高いというデータがあるんですが、次に多かったのは「好きで専業主婦をやってるわけじゃない」という声でした。
鈴木 一つ目の論点については、2億円というと、金額が大きく感じるのかもしれませんね。ただ私のまわりには、高給取りのワーキングマザーも結構いて、3桁の後半稼いでいる女性や4桁以上稼いでいる彼女たちを見ていると、必ずしも大きすぎる数字のようには思いません。ただ、いまだに学歴やスキルをつける機会を十分に与えられなかったと感じている女性も一部にはいて、彼女たちにとっては2億円は通常以上に大きく響くかもしれないですね。
橘 鈴木さんの新刊には、専業主婦の方もそうでない方も出てきて、大変興味深かったです。私はあくまでも、妻が働かないでみすみす生涯賃金を捨てるのは経済的に非合理的だし、妻に家事・育児を丸投げしている夫も2億円損をしているという観点で本を書いたので。
鈴木 ワーママに関していえば、もう専業主婦になっちゃいたい! と思う人も結構いるとは思うんですよ。私は新聞社で5年働いてたので、いろいろ考えさせられましたよ。子どもがいる人は、もちろん多少は時間的な優遇もありますが、でもやっぱり職業柄、どうしても夜が遅いので、保育園だけでは無理。保育園の後の遅い時間に、他の場所に預けるか、もしくはベビーシッターを雇わなきゃいけない。
橘 私も共働きで保育園の送り迎えをやっていたので、それはわかります。
鈴木 その費用がかなりかかって、お給料の半分以上になることもある。好きで始めた仕事とはいえ、こんなに大変な思いをして、働けば働くほど赤字になるんであれば、やる意味はあるのか、と。私たち下の世代から見ると、そう思っちゃうわけです。結果、職種を変えたり転職したり、そういう選択肢をとるようになり、一番やりたい仕事がどうせできないのであれば、苦労してまで仕事を続ける意味はあるのか、という疑問が芽生えるのも不思議ではない気がします。
橘 なるほど。
専業主婦になりたい気持ちは、どこかにある。
鈴木 だから、専業主婦になりたいってどこかで思うのも、私はわかります。私が新聞社に入ったとき、40ぐらいの子持ちの女性がいたんですが、海外駐在のチャンスは逃し、残業すればするほど可処分所得がどんどん減るっていうのを見てると、とてもじゃないけど割に合わない。しかも、せっかく歳をとってから幸運にも恵まれた子供と過ごす時間はかなり限られますからね。働きながら必死で子育てして苦労する意味がどこにあるのかって、割と若いときに思って。
橘 日本の社会では、賢くて真面目で頑張る女性が貧乏くじを引かされて大きな負担に苦しむという構図がありますよね。子育てでも、老親の介護でも。
鈴木 前の本が書かれた2017年って、私たちの世代は30代前半。怒ってしまった専業主婦の皆さんは、もうひとつかふたつ上の世代で、専業主婦以外の選択が、まだあまりなかった。私たちは、上の世代が割と普通に働けるようになったのを見ているんですが、その状態があまりにも悲惨なんですよ。
女性が活躍する社会になっているんですが、活躍っていうより、もはや酷使。なんか女が働いてるせいで家庭が大変、っていうふうに見えてしまう。働いているせいで、子どもにものすごくお金がかかるとか、働いているせいで子どもが寂しいとかってなってしまうんですよ。もともとの話でいえば、別に女が働いているせいじゃなくて、男が長時間働いているせいでもあるのに。
橘 そのあたりは、私が子育てしていた30年前とぜんぜん変わってないですね。
鈴木 まねをしたいっていうふうに思えるロールモデルが、なかなかいなかったのが現状ですね。かといって、専業主婦になってる子はなってる子で、やっぱりすごく承認欲求が全然満たされていないので。
橘 「好きで専業主婦をやってるわけじゃない」という怒りの背景には、現代社会では、けっきょく仕事から得る承認がいちばん大きいというのがあると思います。夫から「子育て、頑張っているね」と言われるより、上司や同僚、取引先や顧客から「君ってすごいね」「あなたのお陰で助かりました」と言われる方が、ずっと自分が「輝いている」と感じられるんじゃないでしょうか。そもそも、そんなふうに妻をほめる男自体が少ないのでしょうが。
鈴木 だから結局、仕事をやってないと、まさにこの「全然、輝いてないじゃん、私」っていうことになっちゃう。子どもの世話だけやって何してるの? みたいな。そんな人生でいいの? みたいに言われて落ち込む。でも逆に働くと、最初に言ったみたいに、ひたすら子育てコストが上がり、子供と触れ合う機会を逃し、仕事も思うようにいかない。下の世代は、子供も欲しいし仕事も欲しいと思ってはいたけど、あんなふうにはなりたくないよっていう。社会がロールモデルの作り方に失敗した気はします。
橘 ロールモデルがなくて戸惑っているのは、若い男性も同じはないでしょうか、とくに最近は。
鈴木 男も女も結局、大きな会社に入って、3年ぐらいでみんな辞めちゃうのは、上司を見てて、あんなふうになりたくないって思うからかもしれないですね。会社に尽くして働き、ローン支払いや子育てで金銭的にはギリギリ、自由に旅したり本を読んだりする時間もない。あと長く働くっていうことも最近よくいわれるけれども、やっぱり高齢者で働いている人も一部しか見てないから、とても大変そうだし、ネガティブなロールモデルばっかり出てきちゃう。何やっても幸せになれないじゃん、みたいな。
専業主婦の実態が、全然わからない。
橘 専業主婦の生活とか、意外とわからないですからね。自分の親くらいしか知らないし。「隣の芝生は青く見える」ですね。
鈴木 たしかに。いまは、若いとき、1回は働きだすのが女性でも普通だと思いますけど、そうすると同じ会社の中にいるから、働き続けてる人の苦労は目に入るけど、専業主婦の苦労とか専業主婦の家庭の貧しさとかっていうのはわからない。専業主婦は会社に出てこないので、目につくところにそんなにいないので。会社入って一番、大変そうに見えるのが、子どもがいて働いてる人、ということになりますね。そうすると、イメージの中にいる専業主婦の方が美化されたまま、楽そうで幸せそうでいいな、となる可能性は多分にありますね。
橘 社内にそういう例がたくさんあるから、「子育てしながら働くのはしんどそう」とリアルにわかるんですね。
鈴木 で、子どもがいない人は寂しいだろうけど、でもお金は持ってそうに見える。専業主婦はイメージの中で何となく、多少のつまんなさはあるかもしれないけども、少し落ち着いた生活ができてるってイメージ。そう考えると、やっぱり働いて子どもがいるっていう、学生時代に夢見た理想の選択肢というか、この社会が目指すべき選択肢が一番、目につく中で、一番過酷に見えちゃう。そうすると専業主婦や未婚の働く女性というモデルが「一番避けたい事態」よりはマシに思える。だから、困ってしまうというか。
橘 日本の働く女性がしんどい理由は、家事・育児を完璧にこなさなければならないという社会的なしばりが強すぎるからじゃないでしょうか。世界を見ると、母親が子どもの世話をしない社会はいっぱいある。インドの上流階級では妻の仕事は子どもを産むことで、あとは乳母がぜんぶやるから、すぐに仕事に復帰して出世していく。デリーやムンバイの銀行に行くと、フロアのいちばん上席に座っているのは、サリーを着た貫禄のある女性だったりします。インドは根強い性差別が残る社会ですが、ジェンダーギャップ指数で日本よりずっと上位なのはそれが理由ですね。
鈴木 それはいいですね。
橘 それによって富裕層と貧困層の格差が拡大するという人がいるかもしれませんが、乳母やメイドの仕事で生計を得ている貧しい女性もたくさんいる。家事・育児をアウトソースする社会的な合意ができているのなら、それでいいんじゃないでしょうか。それに対して日本では、家事・育児をすべて母親がするのが当然という強烈な規範がありますよね。
鈴木 確かに日本にはあるかも。
橘 どのように子育てするかはそれぞれの家庭が自由に決めればいいことで、住み込みのメイドさんや家事手伝いを頼んだっていいわけですよね。でも、「子どもは乳母に任せています」なんていうと、日本だとものすごいバッシングがあるんじゃないでしょうか。
鈴木 バッシングされますし、それこそ独身で家事代行を頼むだけでバッシングされるとか。都心じゃなくてもう少し田舎に行くと、いまだにやっぱり保育園に入れたらかわいそう、みたいなことを言ってくる上の世代とか、旦那のお母さんの心証が悪くなるとかっていうことは、普通にありますよ。千葉の友達ですら、彼女、電通同士で結婚して、もちろん保育園に入れるんだけど、なんか保育園のかわいそうな子たちの中にうちの孫入れたくないって、自分の母親が言ったりとか。「あなたの事情は分かるけど、かわいそうな子たちと一緒って思われたくない」って。
橘 すごいですね。
鈴木 でも割とそういうことを普通に、言ってくる人っていますよ。上の世代の思考は思うほどアップデートされていないですからね。今はそれが普通なのはわかっているのだけど、どうも納得がいっていないという感じなのでしょうか。でもいま、いちばんの問題なのは、子どもを産んで働いてる、2億円稼いでいる側の女性の幸福度が、あんまり上に上がっていかないということですよね。やっぱりその家庭の中の負担の問題をどうにかしてくれないと。あと、子育ての費用もちょっと高過ぎると思いますし、子育てというか、預ける費用とかが。そうなってくると、理不尽な価値観の押し付けをしてくる上の世代にも、はっきり反論ができないんです。
オンナの幸せはどこにある!?
第2回に続く。
橘玲(たちばな・あきら)
作家。1959年生まれ。2002年国際金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部を超えるベストセラー、『言ってはいけない 残酷過ぎる真実』(新潮新書)が45万部を超え、新書大賞2017に。『幸福の「資本」論』(ダイヤモンド社)など著書多数。
鈴木涼美(すずき・すずみ)
1983年、東京生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業、東京大学大学院学際情報学府の修士課程を修了。専攻は社会学。2009年から日本経済新聞社に5年間勤めたあと退職、作家デビュー。その他の著書に『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』(幻冬舎)、最新刊は『可愛くってずるくっていじわるな妹になりたい』(講談社)