関ヶ原の戦いで敗れた石田三成、小西行長らが、市中引き回しをされているとき、一人の人物が編笠をさしかけてやる。
「少しの間、休まれよ」
勝てば官軍。敗れた武将には死以外にも、恥や屈辱が待っている。そんな戦国時代で、そっと情けをかけた人物がいた。それこそ、今回の主役、「水野勝成(みずのかつなり)」である。
「鬼日向(おにひゅうが)」と呼ばれて恐れられた水野勝成。この官職「日向守(ひゅうがもり)」は、謀反を起こした明智光秀と同じ。当時は「裏切者」というイメージが離れず、忌み嫌われた官職であった。しかし、勝成はそんなネガティブさを笑い飛ばし、喜んで名乗っていたという強者。大将を任せられても自ら先陣を切って敵陣に突っ込んでいく。ある意味クレージーな一面を持ちつつ、情がとてつもなく深い。
今回は、そんな水野勝成の生き方に迫る。私個人としては、特に組織の上層部、部下を持つ方々に読んで頂きたい。戦国時代の理想の上司「水野勝成」。強くて優しい人格はどうして生まれたのか。その謎を解き明かす。
従兄弟・家康との関係は?
勝成の生まれは岡崎(愛知県)。永禄7(1564)年、水野忠重の嫡男として生まれる。ちなみに、父の忠重は、徳川家康の母である於大の方(おだいのかた)の弟。つまり、家康からすれば、忠重とは甥と叔父、勝成とは従兄弟同士の間柄となる。
なお、勝成の父・忠重には兄がいた。苅谷城主の水野信元である。水野兄弟は仲違いをしており、信元は織田信長の勢力下に入り、忠重は甥の家康の家内へ。ただ、のちに信長の命により、家康は信元を殺害し、父・忠重は兄のあとを継いで、苅谷城主に収まっている。
さて、勝成の父・忠重は、家康軍として多くの合戦に出陣している。元亀3(1572)年の織田・徳川連合軍と武田信玄が戦った三方ヶ原の合戦に至っては、父・忠重は大事な役割を果たす。三方ヶ原の合戦といえば、家康が恐怖のあまり脱糞して敗走したことでも有名だ。この逃走の際に、家康の甲冑を着用して身代わりになったのが、忠重だったとか。現在水野結城家には、この戦で家康から拝領した甲冑があるという。
勝成もまた父に従い、家康軍として出陣。初陣は、天正7(1579)年の高天神城攻め、勝成16歳のときである。ただ、敵の武田勝頼が軍を返して帰国したため、大きな戦いにはならず。しかし、その後の勝成は、数々の戦で武功を上げ続け、その名を広めていく。勝成の戦術スタイルは独特。とにかく自らが先頭に立ち、敵陣に突撃するもので、一番槍や一番首は勝成の十八番だとか。
なかでも、徳川家康の家臣・鳥居元忠と共に出陣したときのこと。じつは、勝成の父・忠重は、鳥居元忠に若い勝成の指導を頼んでいたという。しかし、元忠は、勝成の軍に知らせず自軍のみで兵を進めた。これに対して勝成は激怒。
「…出抜いて自分だけ軍を進めるとはあまりにも頼み甲斐無い仕様、今日以後、拙者若輩者ではあるが、貴殿よりの指図は受けず、自らの才覚により戦を行う故、御了承頂くべし」
平井隆夫著『福山開祖・水野勝成』より一部抜粋
このような苦い経験を経て、勝成の「我先に」というスタイルが、より確固たるものになっていたのだろう。ただ、勝成の困ったところは、どのような立場になってもこのスタイルを貫く点だ。大将になっても我慢できず一番に攻め入り、家康に嫌味を言われることも。長所でもあったが、それは同時に勝成の短所にも。生涯、変わることはなかった。
実父と断絶!15年間の浪人生活
水野勝成の人生において、15年もの放浪生活はのちの人生に大きく影響を及ぼす。それにしても謎である。浪人生活を余儀なくされる勝成に、一体何があったというのか。どうして父・忠重は自分の嫡男である勝成を勘当するに至ったのか。
きっかけは、小牧・長久手の合戦。織田信長の死後、次の覇権を巡って、信長二男の信雄・徳川家康連合軍と豊臣秀吉が戦った合戦である。このとき、勝成は結膜炎で眼を患っており、兜(かぶと)をつけずに鉢巻きで戦場へ。これを、父の忠重が見とがめた。兜なしの勝成に対し「そんなに不必要なら尿桶(にょうおけ)に使え」などと散々叱ったのだとか。これに対し、勝成は「父であってもそんな雑言は許せぬ」と、やはり兜なしで敵陣へ乗り込み、一番首を取ってきたという。
なお、このときの勝成は、家康に「父には暇(いとま)をもらって別行動する」と報告している。ただ、仲違いはしているものの、父からの勘当までには至ってない。どちらかというと、勝成がブチギレているだけである。勘当される本当の理由はこのあとのようだ。『水野勝成覚書』には、どうやら勝成が父の家臣を斬り殺したことに原因があると、記録されている。
「父の家臣富永半兵衛という者が、我等のことを惣兵衛(父・忠重のこと)にさんざんに告げ口をし、悪口するので、あまり迷惑仕り、無念に存じ、水野家中に居り度くなくなって、この者を切り殺して、浪人仕るべくと存じ、伊勢の桑名にて手打ちに仕り、それより浪人仕候」
記録では、父・忠重に告げ口、悪口をしたという。ただ、一説には、勝成が無心をして、父の家臣に拒否されたことが原因で斬ったともいわれており、真相は定かではない。確実なのは、父の陣中で意に沿わぬことをしでかし、怒りを買ったということ。それもただの怒りではない。父・忠重もブチギレたのである。その怒りは、「奉公構(ほうこうかまい、かまえ)」という形になって表れる。
「奉公構」とは、簡単にいえば、自軍の集団から追放して、さらに他家に対しても、主君の許しがない限り召し抱えないようにと回状(御構状)を出す仕打ちである。主君の怒りを買って、このような目に合う者もいなくはない。ただ、実父からの「奉公構」は前代未聞。なかなか珍しい。この「奉公構」により、勝成は織田信雄や徳川家康に奉公を申し出たが、断られている。従兄弟の家康からは、あとで父・忠重にとりなすからとのフォローも。こうして、水野勝成は21歳にして浪人生活を送ることとなり、以後15年間苦労の人生を歩むのである。
勝成の浪人生活は、順調ではなかった。豊臣秀吉の下で一時は禄(給与)をもらっていたようだが、やはりそこでも秀吉の怒りを買い、逃走している。「六左衛門」とまで名前を変えており、本気の逃走だったのだろう。一説には、相撲で喧嘩となり同輩を殺してしまったからだとか。早々と大阪の地を脱出して、勝成は流浪生活に。中国地方から九州までとその範囲は広い。その後、仙谷秀久、佐々成政、小西行長、加藤清正、黒田長政と名の知れた武将の家中に入っては、出ての繰り返し。一ヵ所にとどまらず、傭兵のように渡り歩いた。どこでも一千石で召し抱えられたともいわれ、よほどの凄腕だったことが分かる。
勝成の浪人時代は、決して褒められたものではない。問題を起こしつつ、危機に陥っては瀬戸際で切り抜けてきた。宿代が払えなかったときには、夜泣きしている子供に効く薬として、自分の体の垢を取って丸め、薬として渡したなどの逸話も。後世での創作の域を出ないが、水野勝成なら、さもありなん。夜中にせっせと、自分の寝床で垢をこすっている姿が目に浮かぶ。流浪時代は虚無僧(こむそう)の姿で移動していたことも。のちに勝成は、福山城主となって、城下へ虚無僧を一切入れない施策を実施。実体験をもとに、虚無僧となれば誰でもあらゆる場所に行くことができると知っていたからであろう。それにしても、勝成の武士としての誇りはどこへやら。大胆な言動には驚かされる一方だ。
75歳で現役?島原の乱に再登場
15年の浪人生活にもようやく終止符が。父・忠重と和解したのは、慶長4(1599)年、勝成36歳のときである。秀吉の死後、次の覇権争いに徳川家康が名乗り出たことがきっかけであった。当時、石田三成らが京都・伏見の徳川家康の屋敷を襲撃するとの噂が出始めていた。勝成は従兄弟・家康の苦境を救うべく、一心に考える。そして思いついたのが、屋敷の「警備」であった。勝成は、毎夜、甲冑姿で家康の本陣に詰めて警戒をした。この事実が家康に届き、これを機に、父・忠重との和解がなされるのである。
ただ、このあと、残念ながら父・忠重は殺される。石田三成の命で、加賀井弥八郎に宴席で斬られてしまうのであった。なんでも、背後には、徳川家が一番頼みとする股肱の臣を討ち取れば恩賞を与えるとの約束があったのだとか。勝成はその無念を晴らすべく、関ケ原の戦いでは、大垣城を落とす活躍をみせている。
続く大阪夏の陣では、一軍の将として、多くの武将を従えての出陣を任されている。しかし、あれほど家康より、昔のようには戦うなと釘を刺されていたにもかかわらず、自ら先陣をきってしまうことに。既にこのとき五十路を越えている勝成。若武者のごとき暴れようだったとか。結果的には、一軍の将としての戦いができず、家康の機嫌を損ねることに。恩賞もなく、勝成の家臣にも論功行賞がなかったという。家康曰く「日向守(勝成のこと)の持病が起こった」と呟いたそうだ。
こればかりは、仕方のないことなのかもしれない。勝成は「見守る」ことができない種類の人間だ。居ても立っても居られず、体が先に動いてしまうのだろう。それは年を取っても、何ら変わりはないようだ。徳川幕府成立後、既に家康はこの世を去り、3代将軍家光の時代。合戦が減りつつある寛永14(1637)年。九州で史上最大の一揆となる「島原の乱」が起こる。九州の諸大名で討伐軍が編成されたが、幕府より出陣の要請を受けたのが、なんと御年75歳の水野勝成である。これには、勝成も大興奮。もはや、この年になっても武人としての血が抑えられなかったようだ。出陣の命を告げる使者を、勝成は屋敷で待てずに、自ら馬を走らせて迎えに出ていったという。