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【政治】

<2020年 核廃絶の「期限」>(下)平和願い家族が継承 被爆から死… 12日間の口述筆記

妻により口述筆記された佐々木一二さんの被爆体験が収録された冊子「戦争の記憶」

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 「その瞬間、白色閃光(せんこう)とともに爆風襲来、縁側にありたる高崎少佐は『アアッー』と言う叫びをあげたり。同時に一瞬にして家屋崩壊し、その下敷きとなる」

 陸軍経理学校(現在の東京都小平市)の国語教授だった佐々木一二(いちじ)は一九四五年八月六日、広島市中心部の旅館で被爆した時の様子を、妻のつた子に、こう口述筆記させた。

和田三千代さん

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 筆記によると、佐々木は下敷きとなった建物から何とか逃げ出し、広島市内にあった陸軍被服支廠(ししょう)で救護を受けた。十二日に現在の広島県庄原市の実家に疎開していた妻子のもとに戻ったが、翌日から起きられなくなり、布団で洗面器に血を吐いた。

 佐々木の体には赤い斑点が浮かび、被爆十二日後の十八日に死去。診断は「被爆による敗血症」で、数え年の四十七歳だった。

 佐々木がおそらく死を予感しながら、つた子に口述筆記させたのは学校に宛てた報告書だった。

 四五年の八月二日に香川県で、経理学校の入学試験の試験官を務めた後、瀬戸内海を渡り、五日に広島市に部下二人と到着した場面から始まる。

被爆体験を妻のつた子さん(手前)に口述筆記させた佐々木一二さん(後列左)

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 原爆投下後、旅館から部下の一人と脱出したものの、「高崎少佐」と試験の書類を収めたトランクが見つからない。「四囲を包囲」する猛烈な火の手が迫り、「断腸の思い」で避難。市内は「広島城、大本営等をはじめ大建築物一瞬にして倒壊」していた。

 佐々木は自らの症状だけでなく、目の当たりにした原爆被害の大きさ、重要書類を紛失した責任、部下を亡くした無念さを約三千五百字でつづった。しかし、報告書の現物は見当たらない。

 次女の和田三千代(84)=千葉県我孫子市=によると、つた子が学校に送ったとみられるが、敗戦による軍解体の後、どうなったか分からないからだ。つた子は六五年に五十七歳で世を去った。親族が仏壇を整理した際、その原稿もなくなったが、姉(90)がその前にノートに書き写していた。

 和田はそのノートを基に、会長を務める我孫子市消費者の会が二〇〇一年に編さんした冊子「戦争の記憶」で報告書を紹介するなど、父が残した文書の継承に取り組んできた。佐々木の報告書は、被爆者が被爆直後に残した記録として極めて重要なものだ。

 和田は「戦争を語れる人は少なくなってきたが、過去のことと軽んじてはいけない」と平和を願い続けるとともに、「記録が文書で残り続ければ、いずれ孫の世代も読んでくれる」と被爆体験が記録として保存され、後世に継承される重みをかみしめる。

  (敬称略、北條香子)

 

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