改組 新 第6回 日展東海展
2020年1月29日~2月16日
愛知県美術館ギャラリー
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あの人に迫る座間宮ガレイ 日本選挙新聞編集長
◆幸せの鍵は選挙 有権者に訴えるタレントの大竹まことさんの付き人、人気番組の放送作家を経て、「日本選挙新聞」という聞き慣れない新聞を立ち上げた。そんな座間宮ガレイさん(41)は実は、三十五歳まで投票所に行ったこともなかった。「選挙は私たちの生活の幸せづくり」と気付いたことが、立ち上げのきっかけになったという。 -座間宮ガレイってすごい名前ですね。 仕事がなくて、部屋にこもりきりだったころ、見かねた友人がカラオケに誘ってくれて、そのときに歌手の忌野清志郎さんの動画を見たんです。「ざまあみやがれ!」って全力で歌っている姿が格好良くって。社会に対してあきらめないで何くそと生きていこうと、座間宮ガレイってペンネームを決めたんです。 -芸能人の付き人、放送作家、選挙新聞の編集長。ユニークな経歴です。 早稲田大で演劇サークルに入り、最初は俳優を目指しましたが、顔はジャニーズに負けてるし、演技力は子役出身者にかなわない。だったら作家になって、面白いものを作りたいと思うようになりました。 大学二年のとき、裸で舞台に上がる意味不明のコント劇に出たんです。その舞台を大竹まことさんが見ていました。真っ裸の自分が何か言うと大竹さんの笑い声が聞こえるんですよ。 舞台後に大竹さんの電話番号をゲットして後日、「作家になりたい」と相談したら、「おまえにはお笑いだろ」と言われました。このとき、笑いの道にあらゆるエネルギーをぶつけたいという衝動が起きたんです。芸人ではなく、コントの台本を書こうと大学を二年で中退しました。 -それで放送作家になったのですか。 最初は、付き人とバイトをしながら、コントの台本を書き続ける毎日でした。大竹さんからは「三十本くらい書いたら俺を呼べ」って言われたけど、そんなにすぐにできないじゃん。 頑張って納得できる三十本を完成させて。でも、使ってもらえず、講評されるだけの日々が二年間続き、ようやく一本、「コントで使わせてくれ」というものができました。電柱の地中化が始まったころで、電柱の希少性をテーマにした設定でした。本番を見たら、設定以外は全く違うものになっていましたけどね。 二〇〇八年ごろから、テレビ番組「ナニコレ珍百景」を担当しました。新人だし、とにかく面白いものを持っていった。「ネタをリサーチして考える」を繰り返し、深夜帯でしたが、ロケの台本の八割ほどを僕が書くようになりました。 けれど、リーマン・ショックで、若手の放送作家は使われなくなっていった。仕事がだんだん減り、一一年は引きこもりみたいになっていたんです。 -どうやって引きこもりを脱したのですか。 座間宮ガレイというペンネームを決めたのがきっかけです。あれは一一年三月十日でした。その後、原発問題をブログで発信したりしていたのですが、一三年に、山本太郎さんに出会うんです。ずっとファンだった山本さんが参院選に出馬すると聞いて、手伝いたいなと思っていたら、偶然、知り合いが事務所に連れて行ってくれた。「どうせ、僕たちの意見なんて聞いてくれないでしょ」って思って、三十五歳まで投票したことがないほど選挙とは縁遠かったんですけど。 山本さんに何となく、「政見放送をどんな感じでやるんですか」って尋ねたら、NHK批判とか反原発だけだった。これじゃ多くの人の受け皿にはなりませんよ、と言ったら納得してくれて、一週間くらいかけて一緒にゼロから原稿を作り直しました。そのとき、国を良くしたいという多くの人の思いを感じたし、選挙って幸せをつくっていく、幸せを求めていく作業だと思いました。皆の声が出れば出るほど、社会は良くなるはずだから声を出しやすい社会をつくりたいと燃えてきたんです。その後はとにかく選挙を仕事にしたいと思うようになりました。まず、全身タイツを着て、ギャグを言いながら選挙の解説をするという動画の配信を始めました。一四年の沖縄県知事選では那覇の国際通りで全身タイツで(紙芝居ふうにネタを展開する)フリップ芸をしながら、こんな争点がある、こんな報道がされていると紹介していったんです。 -そこからなぜ、選挙新聞を作ろうと思いたったのですか。 僕一人の力でも社会を良い方向に変えたいと思ったんですが、権力はないから影響力を持たないといけない。ドイツ人の友達から選挙のことばかり書いてある新聞があるって聞いて、これだと思いました。永田町から地方まで、何から何まで変えてやろうって。 日本選挙新聞には、選挙の検証記事などを載せています。例えば、ある知事選は、どうしてこの票差になったのか。新住民の数、どの辺りに住んでいるか、産業構造はどうか。地域のさまざまな情報から検証していく。「結局、この選挙は私たちにとってなんだったの」という問いに答えられる新聞だと思います。 今年は沖縄県知事選や新潟市長選の取材をしてきました。地方の選挙を掘り下げれば掘り下げるほど、普遍的な課題が見つかると思うんです。 -新たに取り組んでいることはありますか。 新聞の発行と並行して全国を回って選挙の勉強会をやっています。三年で五百七十回くらいやりました。地域を回って地域の課題など勉強し、新聞を作れればいいなと思います。今は、会社を立ち上げたいと思っています。うちの会社は「民主主義」を実現する会社ですって堂々と言えるようにしたい。 辞書などで調べると、民主主義国家は「正常な選挙によって決まっている国」と定義されています。民主主義が成熟している国は、有権者が変化を生み出している。選挙新聞を読んで、この課題を解決したい、この人を当選させたいという選挙に向き合う人が増えたらいいですね。日本人の一億人がそういう感覚だったら、どうなると思いますか。絶対にいい国になると思うんです。 -自分が選挙に出ようとは思わないのですか。 幼少期から、知の力で物事を動かす軍師への憧れがあります。理屈っぽい父親の存在があったから。何を言っても論破してくる。 小学五年のときに読んだ野球漫画「ドカベン」で、小柄な選手が「成長過程にある高校生は体格に差があるから高校野球はフェアじゃない」と言うせりふがあった。当時、僕も背が小さくて、すごくシンパシーを感じたんですが、父は「大相撲のほうがフェアじゃない」って言ってね。 その通りだなって悔しくて泣いた。知識のある人に負かされるのはこんなに悔しいのか、と同時に憧れになりました。あとは大竹さんとの出会い。ネタがコントに使われた。自分が光るのではなく、後ろから支える喜びは大きかった。僕は裏方のほうが合っていると思います。 <ざまみや・がれい> 1977年、石川県小松市生まれ。「自由な髪形が認められていた」との理由で金沢大付属中を受験して合格した。入学式では同級生に一目ぼれ。毎学期末に「告白」を続け、付属高3年の夏、ようやく「OK」をもらって、恋を成就させた。早稲田大法学部に進学したが、中退して大竹まことさんに師事。「酒を飲むくらいなら社会学者の本を読め」という大竹さんの言葉から、社会の課題に目を向けるように。その後、放送作家に。2013年の参院選で山本太郎氏の運動に関わり選挙に関心を持ち、各地の選挙を取材して動画サイトでの配信を始めた。17年2月に日本選挙新聞を立ち上げ、これまでに7号を発行した。日本選挙新聞のホームページで、1~7号を購入できる。 ◆あなたに伝えたい忌野清志郎さんの動画を見たんです。「ざまあみやがれ!」って全力で歌っている姿が格好良くって。社会に対してあきらめないで何くそと生きていこうと。 ◆インタビューを終えて「幸せになりたい人が声を上げられる社会にしたい」 三時間、ぶっ通しでしゃべり続けてくれた。出てくるエピソードはどれも面白く、全て書き切れないのがとても残念だ。 二〇一七年の衆院選で石川県に来ていた座間宮さんと初めて会ってから、なぜそんなに選挙が好きなのか、もっと聞きたいと思っていた。取材する座間宮さんがあまりにいきいきとしていたからだ。 「選挙は皆の幸せをつくる」と何度も繰り返していた。選挙を身近なものとして有権者が体感できるようにと、走り続ける思いの強さ。これこそが選挙に懸ける理由なのだと知った。 (蓮野亜耶) PR情報 |
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