千田有紀の「「女」の境界線をひきなおす 「ターフ」をめぐる対立を超えて」について


 つい先日市場に流通しはじめた現代思想2020年3月臨時増刊号「総特集 フェミニズムの現在」に武蔵大学社会学部教授で現代社会学を専門とする千田有紀の「「女」の境界線をひきなおす 「ターフ」をめぐる対立を超えて」という題名の論考が掲載されていて、Twitter上で物議を醸している。元々、この論考は最近の主にTwitter上で激しくなっているトランス女性への差別言説に関連して浮上してきた問題を扱ったもので、論考の内容がトランス差別的だという指摘が次々に出てきている。すでにこの論考についてブログで論じている人もおり、私もSNSやブログを見た限りどうしても一度は目を通しておく必要があると思い、早速雑誌を手に入れて、件の論考を読んでみた。以下では読んだ上で私の立場から言わせていただかねばならないことを述べていく。

 トランス女性差別云々の議論に関しての私の立場性を言わせていただくと、私自身、出生時に割り当てられた性別が男性で、現在は女性として生活しているトランス女性である。したがって差別の当該の立場から私は千田有紀の論考を読んだ。2018年7月にお茶の水女子大学がトランス女性の受け入れを公表して以来、これに反対する意見がTwitter上に現れ、そこからトランス女性の存在をシス女性の安全を脅かすものとして敵視する言説があふれ出てきた。私は平素からSNS上での議論にはあまり意義を感じず、参加しないので(特にTwitterでのやり取りは神経を消耗する割には得るものがあまりない)、この間のトランス差別をめぐるSNSでの論議にも参加せず、また自分の経験上、自分が持つ属性に起因する差別言説をSNSやブログなどの媒体で目にすることで気分を害するので、あまりこの種の言説には触れないようにしてきた。しかし、吉田寮の入寮パンフにトランス女性のことについての文章を寄稿することにしたため、この種の言説にも触れておく必要があると思い、この10日近く集中的にチェックしてみたが、正直な所、相当に唖然とさせられ、憤慨もし、そして既視観のある言説、つまり実生活で私に向けられた差別発言をそのまま再生産したようなものがかなりあると感じた。そんななかで私は千田有紀の論考を読んだのである。

 私は千田の論考を読んで、やはりこれはトランス女性に対して明確に差別的であり、到底許せない差別扇動をアカデミックポストの座に就く自身の特権を活用して行っていると言わざるをえない、と判断した。以下ではその理由を一つ一つ説明してゆく。

①TERF, つまりはtrans-exclusionary radical feministという言葉の定義の仕方の危うさ

 千田は論考の冒頭で、この言葉は本来は「フェミニストによる、フェミニズムの反省の言葉」であったのが、本来の意味を離れてトランス排除的な視点を持つ人間への中傷の言葉となっていて、日本でもそうなってきている、としている。フェミニズムのなかでトランス女性の存在が不可視化、ないし周縁化されてきた側面があるのは間違いなく、だからこそそのことへの真摯な総括とフェミニズムによるフェミニズム自身への問いとしてTERFという言葉が生まれた、というのは納得できる話であり、それはフェミニズムが性のあり方によって人間が抑圧される理不尽さと闘うものである以上はトランスの観点がフェミニズムに備わっているかどうかは当然問われるべきである。ところが、千田はその言葉が今では他人を中傷・侮辱する言葉になっているということを述べ、これは危惧されるべきことだと言う。元々、トランス女性への差別を俎上に乗せる問題意識から生まれた言葉である以上、実際に起きているトランス女性への差別やそれの温床となる構造にフェミニズム全体が十全に向き合えない限りこの言葉を中傷や侮辱の言葉としてラべリングして読み手に紹介することはトランス女性による逆差別が今は起きているという現実と乖離した印象操作を行うことになる。千田は冒頭から危うい論調で読者を引っ張っているのである(※ちなみに私はTERFという言葉は基本的には使わないたくはない。なぜならトランス女性は女性であり、女性への差別に加担する連中をそもそもフェミニストとして扱うことはフェミニズムへの誤解を生み、かつトランス差別を軽く見ることに繋がるからである。一連のフェミニストを名乗るトランス差別者の一群については「偽フェミニスト暴力集団」とでも呼んでおきたい)。

② 大学という場でトランスジェンダーがぶつかる困難の軽視

 千田は自身の大学教員としての経験からトランスの学生の相談に乗った際に、学内でトイレに困るなどの困難はあまり問題になっていなかった、と書いている。しかし、こうも書いている。「尋ねてみたこともあるが、各々工夫を重ねているようだった」と。そもそもシスジェンダーの学生であればトイレ問題で工夫する必要は病気や障がいという事情がなければ基本的にはあまりないはずで、トランスの学生が各自で工夫して対処することを強いられている時点で大学という場所がトランス差別的な空間なのである。この点を千田は全く軽視し、自身の教員としての責任・立場を問うことすらしていない。ちなみに私の経験から言うと、大学のトイレは基本的に女性用と男性用に分かれていることが大部分でユニセックスのものは限られている。私の所属する京都大学文学研究科について言えば、教室及び研究室の集中する文学部新館(8階建て)は1階に誰でも利用可のトイレがあるだけであとはすべて女性用と男性用とに分かれており、トランスの学生にとってはかなり不便な環境である。このことについて私は大学に相談したことがあるが、1階のトイレがあるからそれを使いなさい、というだけであまりきちんと対応しようという感じでは何らなかった。

 また、トランスの学生が大学の教室や研究室でハラスメントを受ける危険性の問題が何ら取り上げられていない。私の経験から言っても、授業のときなどに「君」付けで呼ばれたり、「彼」と呼ばれる、奇異な視線で見られる、服装を揶揄される、他の学生たちの見ている前で性別に関する情報を訊かれる、といったことは何ら珍しいことではない。その辺りのことが千田の認識の範疇に入っていないのである。

③ 千田の立場性の問題

 千田は今現在起きているSNS上でのトランス差別言説を「ターフ戦争」と形容し、「いま存在している不要な(と私は信じている)争いを終わりにしたいと切に願っている」と書いている。なぜ、千田はトランス女性への差別言説の横行する現状をわざわざ「戦争」という言葉を用いて表現するのだろうか?これだとお互いに非を認めるところがある、という話になり、トランス女性の受けている差別の問題が覆い隠されてしまうではないか。さらに千田は不要な争いは終わらせたいと述べるが、いかなる立場で争いを終わらせたいのだろうか?現実社会にトランス女性への差別構造が存在し、かつSNS上でも偏見と差別に満ちた言説が飛び交うなかで単に争いを終わらせよう、というのは根本から問うべき課題、置き去りにせずややこしくするべき問題に蓋をして、結果的にマイノリティを犠牲にすることに繋がりかねない立場と言わざるをえない。

④ 男性器及びそれと関連した入浴問題についての議論の雑さ

 この論考で千田はトランス女性(※ここでは性別適合手術をまだしていないトランス女性)がシス女性と共に銭湯や温泉の女湯に入ることの可否が議論の俎上に上がってきていることに触れ、シス女性がこれに拒否反応を示すのはペニスというものが持つ暴力性・加害性ゆえのことであり、差別意識からではないと述べている。確かに今の日本の銭湯や温泉は女湯と男湯に分かれているのが当たり前で、性別の異なる人間同士が共に入浴するというのはプライベートな空間でかつ十分な信頼関係がある場合に限られているだろうし、その背景に男性による性暴力、強姦の恐怖、ペニスが女性を無理に妊娠させうる凶器として使用できうる、からというのも妥当な見解と思われる。しかし、これはあくまでも現在の日本だけを見た場合の話で、過去を振り返れば、混浴が公然と行われていた時代もあるし、ペニスへの恐怖を女性たちが抱く現状が果たして通時的に見ても変わらないことなのかどうかへの問いが千田には欠けている。

 また、今の銭湯や温泉自体についてもそもそもこの社会にはヘテロセクシャルかつシスジェンダーの女性と男性しかいない、同性同士ならば同じ湯でも大丈夫という考えのもとで設計されてきた点を問い直す必要がトランス女性の入浴問題を考えるにあたり求められてくるはずだが、この点まで千田は踏み込まず、自らが話題化したテーマであるにも関わらず、「争いを深め、不要な対立をあおる風呂について語ることが、生産的だとは思えない。もうこの風呂の話は、終了したらいいのではないか」と書いて、議論を中途で放棄してしまっている。千田自身、風呂の問題がトランス差別を巡る大きな論点だとしながらもこのような態度を取るのでは真剣さを疑わざるをえない。

ジェンダー論の議論の問題性

 千田はジェンダーの理論に関する議論の歴史を三期に分け、第一段階ではジェンダーが社会的に作られることが議論され、第二段階では、ジェンダーのみならず身体もまた社会的に作られると言われるようになり、その考え方の延長で第三段階ではジェンダーも身体も自由に選択可能なものとなったする。したがって、ジェンダーロールもジェンダーアイデンティティも、そして身体も後天的に作られたフィクションであるという考え方へとジェンダー論が変遷していったと述べる。千田自身がこうしたジェンダー論を踏まえた上で、女性と男性を生物学的に別物だと本質主義的に分類することを否定している。ここで問題となるのは、では千田が言うようにジェンダーも身体も全き自由意志で選択可能だとした場合、トランス女性の性別移行はどう捉えられるべきなのか、ということである。千田の論ではトランス女性は自分の意思で自分の性別を選び取った、ということになるが、果たしてそれはどうなのだろうか?

 ここからは私自身の経験も踏まえて自分なりに考えたことを述べるが、まず言っておきたいのは私自身がジェンダーロールもジェンダーアイデンティティも身体もすべて自由に選択可能な、性の主権者であると感じたことは一度もない、ということである。

 ジェンダーロールに関しては家庭や学校での生活を通して作り上げられている、いつの間にか自分のなかの常識として定着してしまっているのはその通りだと感じるし、分かりやすい例で言うと、今の日本でスカートを履くのは女性で男性は履かないものだ、などというのは確実な根拠をどこにも持たないものである。女の子なら、男の子なら、女性なら、男性なら、これこれこういうことが好きだ、嫌いだろう、というのも基本的には単なる偏見であったり、問い直されるべきものであったりすることが多く、だからこそジェンダーロールに縛られない自由な振る舞いが出来るようになることは望ましいし、既存の考え方のために再生産されている抑圧を取り除くことも出来るのである。

 しかし、これがジェンダーアイデンティティ、あるいは身体のこととなると事情は異なる。大人たちに女の子向け、男の子向けとして推薦されたおもちゃや服、遊びを好まない子どもはいくらでもいるし、そのことがジェンダーロールの根拠のなさを示すのだが、ではその子が成長の過程で性別を移行したい、生まれたときに割り当てられた性別と異なる性で社会生活を送りたいと希望するかといえば、これは全然別の話である。子どものころに女の子と遊ぶことを好み、世間で女の子向けとされている服やおもちゃ、アニメ、マンガを好む男の子が成長の過程で女性として生きたい、自分の身体を女性的なものに変えていきたい、と必ずなるかといえば全然そんなことはないのである。トランス女性当該の私にとっては、ジェンダーロールとジェンダーアイデンティティは全く別物であり、ジェンダーアイデンティティを変えることなど出来る話ではないのである。

 今の社会で人間の性別の割り当てというのは、外性器の形状のような身体の一部の要素だけで決められているものであり、これがいかに偏った性別の決め方かはそもそも私たちの日常生活では誰が女性で、誰が男性かを判断するのに性器も染色体もホルモンも何ら確認されていないことがほとんどであることから分かる。生まれたときに性別を割り当てるときに参照される要素は実生活での性別判定では使われず、ほぼ見た目で判断されるのが現実である。したがって、人間の性別が紋切り型で女性と男性に分けることができないのも、そもそも性別を決める基準が確実に信頼に足るものではなく、人間の身体のどの部分が人間の性別を決めるのかも必ずしも明快ではないからである。トランスジェンダーの場合だと、生まれたときに女性ないし男性と判定される要素、そして外見で女性ないし男性と判断される要素を確かに元々は持ち合わせてはいたが、恐らくは身体のなかにそれとは矛盾する、トランスジェンダーをそれたらしめる何かが要素として内在し(それはDNAだったりするのかもしれない)、そのことが原因で、成長の過程で、社会生活への参加の過程で、自分の身体への違和感及びジェンダーアイデンティティと割り当てられた性別との不一致が生じてくるのである。

 日本の医学界では上記の現象を「性同一性障がい」と名づけて病理化し、身体的な性別と精神的な性別との相違を特徴と見たが、私から言わせていただくと、身体的性と精神的性という分け方はプラトン主義的、あるいはデカルト主義的な霊と肉の二元論を前提としたものであり、観念論そのものである。こうした観念的把握がジェンダーロールとジェンダーアイデンティティの混同につながり、ひいては人間が自身の性別の全き主権者であるかのような誤解を生むのである。唯物論的にこれをきちんと把握すると、トランスジェンダーの生の現象は、出生時に割り当てられた性別に基づいて育ち、社会生活を送る過程で自己の身体の内部の明らかに矛盾する部分、トランスジェンダーが自分と異なる性として扱われる根拠になる身体的特徴と自己を自己の性たらしめるジェンダーアイデンティティを生み出す根拠となる身体内部の素質が絶対矛盾的自己同一した状態となっているためだと把握できるのである。その状況のなかでトランスジェンダーは自分の性別を他人に認めてもらえず、一方的に押し付けられるだけの存在となり、性的に自己疎外の暗闇に閉じ込められてしまうのである。その矛盾が引き起こすさまざまな葛藤や苦悩及び自己の身体の矛盾を抱えながら日常生活、学校、職場、地域などといったさまざまな場所での性別を問われる機会・行為が否定的契機となって、本来の性別で生きることこそが必然であり、その必然こそが自由をもたらすことを弁証法的に掴み取った末に、トランスジェンダーは疎外された性別を回復する自己解放の闘争に立ち上がり、それが現象論的には性別移行として映るのである。したがって、私自身の経験を踏まえてもトランス女性の性別移行はブルジョワ個人主義的な自分に対する主権者としての自己の自由意志によるものではないのである。

 千田はジェンダーアイデンティティ及び身体を物質的な根拠なしに観念的な存在として捉える考えを無批判に受容しており、だからこそ観念の次元で性別が移行できると誤解している。実際にはトランスジェンダーは現象論的には性別を変えているようで、実体論的には何ら性別を変えてはいないし、本質論的には自身の身体内部のジェンダーアイデンティティを司る部分と他者にとって性別判定標識となる部分とが絶対矛盾的自己同一しているので、そこから身体改変が矛盾の揚棄のために求められてくるのである。論考を読むと、千田はトランス女性の当事者の声を聴取することをあまりしておらず、生きた人間の現実と相互に格闘せずに、いかにもブルジョワ学問的な流儀で「客観主義」的にこの論考を書いている。だからトランス女性という存在を把握する上で彼女らの生の現象をつかみ損ねてしまい、トランス女性という存在を下向的に分析することに失敗しているのである。

さらに千田は身体はフィクションであるという考えを踏襲しつつも、一方では男性のペニスを④で述べたように本質主義的なニュアンスで捉えるという矛盾も犯していることも銘記されたい。

⑥ トランス女性の経験が考慮されていない

 ⑤でも述べたように千田はトランス女性当事者との関わりを持たずに論文や書籍などで得た情報を観念論的に、ブルジョワ個人主義的に解釈してトランス女性のことを論じているので、トランス女性が女性として生きる道を歩む際の困難があまりこの論考では語られない。まるで趣味や嗜好で女性生活をはじめているとでも言いたいのかくらいに性別移行の自由の強調に比して困難さが語られない。

⑦ 話題が二転三転する

 千田の論考を読むと、風呂の話題をしていたと思うと、急に論の展開をやめたり、スポーツの話題をしたかと思うとこれも半端な段階でやめて次の話題に移るのが見て取れる。これは千田自身の考えが煮詰まらぬまま論を書いたことの証左に他ならない。

⑧ 誰が女性なのかを千田が決めようとしている

 トイレ問題を扱うにあたり、千田は「すべてのひとが安全にトイレを使う権利がある」と述べる。これは正しいが、その上で千田は女性というカテゴリーが社会的に構築されるものなのに性の多様性を標榜する者がなぜトランス女性を女性のカテゴリーに入れようとするのか、と書き、「トイレの使用の際に、どのようなカテゴリーの線を引きなおすことで、皆が安全だと「感じられる」かどうか」、が問題だと述べ、「女性が安全にトイレを使う権利」と「トランス女性が安全にトイレを使う権利」を別々に分けた上で共に尊重されるべきであると述べる。この千田の論の問題は誰が女性かと言う問題をトランス女性当該を抜きにして社会的に決めようとしている他、トランス女性を女性のカテゴリーに含んでいないことである。⑤で述べたようにトランス女性は自己の全き自由意志で自身の性別を選んだのではなく、封印された自己の性別を回復させる道のりを歩んでいる人たちである。したがって、トランス女性は女性であることに異論の余地はなく、わざわざカテゴリー分けを試みる千田は性を自分で選択できるという論に乗りながらなぜかトランス女性を女性カテゴリーに含まないという差別的かつ矛盾したことをやってしまっているのである。さらに千田は女性用トイレをトランス女性に使わせることがトランス女性の安全を守ることになるのかを問うべきと述べるが、ではシス女性の安全を守るために女性用トイレが必要なのかは問わないのである。

⑨ トランス女性への恐怖の扇動

 千田の論考を読むとカナダのバンクーバーで起きた事件を丁寧に背景を説明することなく取り上げてトランス女性やその権利の擁護者が非常に暴力的だという印象を読み手に与えている。一方ではトランス女性が日常生活、職場、学校、地域で受けている暴力の問題はほぼ参照されず、バンクーバーについては事件の暴力性がことさらに扇情的に強調されている。また、日本のSNSでのトランス女性を巡る議論についてもトランス差別的な言説は参照せず、トランス女性擁護側が反対者を一方的に中傷しているかのような印象を与える記述も見られ、公平さを著しく欠いた形でトランス女性への恐怖が煽られている。論考の最後でTERFを見つけ出して制裁を加える方向以外での解決策をと千田は提唱するが、現実にトランス女性が差別構造のなかで不利益を被り、差別的言動を公に浴びせられているときにTERFを制裁するな、より良い方向性を取るようにとトランス女性側を説教するのは、被害者叩きに他ならず、しかも千田自身にはトランス女性の解放のために何をなすべきなのか?という自己への問いが全く不在なのである。TERFと呼ばれる者の言説が看過できないレベルで差別的である以上、それに対する糾弾は正当なものであり、さらに言うと、日常的に権利を制限され、抑圧されているトランス女性が差別者に抗して立ち上がることはそれ自体自己解放的であり、不当な扱いや差別に抵抗する権利があることを自己の内で確認していく大事な作業なのである。バンクーバーで起きた出来事の恐怖を煽りながら、天上の高みから地上の騒乱を見物して評論する語り口で論を終えることで、トランス女性フォビアが読者に印象付けられる形となっているのは非常に悪質な印象操作である。

⑩ 根拠のないTERF擁護

 また、千田はいわゆるTERFについて、自分の知る限り差別意識を持つ者はいない、と述べて擁護する立場に立っている。千田の言い分だとではあのTwitter上でのおびただしい差別言説はではどうなんだ、ということが全く説明できない。実質的にトランス差別がなかったことにされているのである。しかも論拠が自分の知人にいない、ということであり、匿名での差別書き込みの多さを考えても何の根拠もなしに差別者の存在を覆い隠そうとしている魂胆が透けて見えるのである。

 以上、私は千田有紀の論考について自分なりに分析を加えてみたが、結論として改めて言わせていただくと、千田氏の主張は論としても説得力がなく、内容は差別的でかつトランス女性による暴力の恐怖を煽るものであり、このような文章を大学教員という社会的にも一定の影響力を有する立場の人間が書いて公にするのは到底許しがたいことである。千田氏はこのような論考を公表したことの責任を負うべきであり、自身の行為の総括および自己切開を通した自身の差別性の自己批判をきちんと行わない限りは教壇に立つことも公の媒体に自分の文章を出すことも許されてはならないと私は考える。

 最後に私から言いたいことは日本社会が差別社会であり、その状況下で起きているSNS上でのトランスフォビアに大学教員まで加担し始めたことに私たちは大いに危機感を高めていかねばならないということである。差別の根源である天皇制が未だ存続し、障がい者が集団虐殺される事件が起こり、朝鮮学校への弾圧、在日コリアンへのヘイトクライムヘイトスピーチ、入管当局による外国人への暴力と排斥などが行われ、書店の店頭には差別排外主義的な書籍が並び、新型コロナウイルスの問題も中国人フォビアの扇動に悪用され、山口俊之のような凶悪な性犯罪者が野放しにされ、麻生太郎のようなヘイト発言を繰り返す人間が未だ公職に就くことが許されるのがこの社会である。そのなかで生きる私たちはSNS上でのトランス女性差別が現実生活でのさらなる暴力に転化し得ること、それに抗するには何が今求められているのかを問い、考え、実践していかねばならないのだ。