──●山口さんと竹田さん、お二人でコントを続けて30年近くになりますか。
山口 34年、27歳の時からですね。
──●1984年からですね。山口さんはコント55号の萩本欽一さんがきっかけでお笑いの世界に入られたとか。
山口 萩本さんに憧れて、家出。親に大学の入学金から何から払ってもらったのに、1年で辞めるとは言いづらかったんで、こっそり出てきちゃったんです。でも、親ってありがたいね、除籍にならないように何十万円か払って休学届を出してくれてた。俺はもう行くつもりはないから払わないでって、中退。19歳からこの世界に入って、7年くらい埋もれてました。
──●竹田さんはもともとは?
竹田 僕は19 歳から25歳まで秋葉原の電気屋さんで働いてたんです。頭があんまり良くなかった。
山口 相当悪かった(笑)。通信簿見せてもらったら小学校1年で国語が5段階の1。びっくりしましたもん。
竹田 それで新宿遊びに行って、タバコ覚え、酒も覚え、女はわかんない、未熟だったもので(笑)。で、行ったストリップ劇場に山口さんがいたんです。
──●お二人で始めたいきさつは。
山口 俺は新宿のストリップ劇場に(幕間のお笑いで)出てて、そこにやりたいと言って来たのが竹田。4人くらいでやってたけど1人辞め2人辞め、残った俺ら2人で、与えられた10分間1日4回というステージをこなしたんです。コンビを組んでやろうとは思ってなかったというのが、事のいきさつ。
──●お二人は「山口さん」「竹田」と呼び合ってるのですね。学年がご一緒なのでもともとお友達だったのかと。
山口 いや(同年なのは)偶然です。劇場では俺が先輩なので。
竹田 山口さんは前にコンビ組んでいた方とは同級生だったらしい。
山口 その同級生と東京に出てきて一緒にやってましたけどコンビ別れしちゃって。俺は新宿に残ってた。
──●コンビ別れというのは時々聞きますが、どうしてそうなっちゃうのでしょう。
山口 お互いにプライドがあるから。俺がネタ考えてたんで「こうして欲しい、ああして欲しい」と言うと、指図されるのが嫌だったみたい。ネタのことより、言い方が気に入らないとかになっちゃって。
──●竹田さんと組んでから目標にしていた人とか師匠は?
山口 俺はコント55号の本も見てまねしたりしてたけど、55号の笑いって、ほかの誰がやっても面白くならない。自分の面白いと思うものを作っていかなくてはダメだと学びました。目標にしていた人を諦めた所から、第一歩は始まりました。
──●ほどなくテレビの『お笑いスター誕生!!』でブレイクされましたね。
山口 先輩に、面白いネタだから『お笑いスター誕生!!』に出てみないかって言われて。とりあえず賞金100万円を取って伊香保温泉で芸者を上げようっていうのが目標。二人で売れようなんて意思統一したこともなかったし、仕事にありつけるなんて思ってなかったからコンビ名も何でもいい。最初は「新宿コメディ」。
竹田 次のオーディションの時は「ランボー」。映画のランボーから取って。
──●名前も決めてなかったんですね。当時はツービートとかが人気で、漫才ブームでした。
山口 お笑いが若い女の子たちにワァキャア言われる時代になってきてた。
竹田 僕も、誰か好きな人(を目標に励む)というよりは、テレビに出れば女性にモテるという(笑)。
──●それから飛躍されて、34年間って、すごいですよね。
山口 同級生とはぶつかり合いがあったけど、竹田とは、けんかになんないです。売り言葉に買い言葉を買えないもんですから(笑)。
竹田 けんかしないっていうのは、僕が大人なのかもわからない(笑)。僕ができないものを山口さんがやってくれてるという価値観は大きいですね。山口さんが台本書いてくれて、僕はそれを面白くするために稽古する。キャラクターも全然違うし。山口さんはしっかり。見たから神経質って感じするでしょ。僕はがさつだし、酒飲むし、頭からっぽで、唯一言えるのは、華があることかな(笑)。
──●危機はなかったんですか。
山口 彼(竹田さん)はこの世界に入ってからすぐに売れちゃったから、売れてからつらい時期があったと思う。映画のことはまるきり知らないのに、つかこうへいさん原作の「熱海殺人事件」とか市川崑監督の「竹取物語」とか、主役級の扱いで(俳優)やっちゃって。プレッシャーとか苦しみはあったと思うけども、運良く彼の場合は、鈍感。
竹田 はははは……。
山口 彼の良さは、不器用で出来ないところ。そこに、なんとなしに愛らしい醸し出すものがある。その良さを俺が忘れて、仕事に追われて早く結果出さなくちゃいけないから「ああしろこうしろ」と自分の枠の中に固めて形にしようと思ってるうちに、つまんなくなってきちゃった。コントやるのつらいなあって時がありました。
竹田 そう。コントやるのつらいなあって。
山口 そう考えているうちに、彼のいい所を見つけてコントを作り始めたのに、そこに目をつぶってこっちの都合で処理してったら、「山口君と竹田君」のコントはなくなるなと考えた。彼は、全部、全力投球してくるんで、その良さがお客さんの琴線に触れて、竹田君を応援したくなる。彼がイキイキできるような設定にしてやるのが、こっちの役目じゃないかと、彼から教わった。それからものすごく楽になりました。彼ができないことは俺が代わりにやればいい、彼しかできないことを彼にやってもらえばいい。人間って面白くなくなると人を責めたくなる。「お前が悪いんだ」って言いたくなるじゃないですか。
──●ああ、なりますねえ。
山口 じゃあ、「お前が一人でも笑い取ってやれよ」って、なる。(コントは)やっぱり二人いないとダメなんです。
──●プライベートもご一緒したりするんですか。
山口 いや、いっさい。
竹田 昔は、山口さんが、僕の住む所、住む所、近くに引っ越してきて(笑)。
──●余暇とかご趣味は?
竹田 ソバ打ちです。今、ハマってます。家の裏にソバの先生がいらっしゃって、おもしろいからちょっとやってみようと思って。僕、飽きっぽいからすぐ辞めちゃうかと思ったけど、単純なようだけど奥が深い。
山口 最初は手打ちだってすぐわかるくらい短かった。次はきれいになってる。コント以上に上達が早い(笑)。俺は余暇は、女房が竹田と一緒で脳天気なほうで、仕事場では竹田に、余暇は女房に、ダメ出し(笑)。
──●くりぃむしちゅーのお二人がお弟子さんだったそうですが、やはりダメ出しを?
山口 二人は早稲田と立教の学生で、俺らがやっていたライブに「お笑いやりたいです」と言って来た。うちは弟子は持たない。俺も早く板(舞台)に立ちたいという欲求があったので、1年間付き人やってこの世界のルールを学んだら後は自分で。落語家みたいに伝承芸じゃないので、今をキャッチできないとネタもできない。俺の感覚を押しつけてもしょうがない。頭がいい二人だから自分で勉強していったものがあるんじゃないですか。この世界は売れる売れないは運でしかないんです。努力しても売れるとは限らない。でも、努力しなきゃ売れないよ。それを最初に言われたので、後輩にも言っている。
──●お仕事では全国各地に行かれていますね。
山口 そうです、講演会とか、仕事の幅もあって。今は楽しいよな。
竹田 ええ、お堅い所の仕事で、お笑いやっても誰も聞いてないとプレッシャーで負けちゃうじゃないですか。今は、そういう所でも「楽しんじゃおう」みたいなのがある。
山口 人間ってこの歳になると、〈宿題〉を自分で作っていくのが大事だと思う。宿題は学生時代はやるのが嫌だったけど、自分で作るとやらなくちゃならない。毎年1本ずつ人情喜劇を作っていくという宿題を自分に与えて、コントだけじゃなくて芝居も本を書きながら演出してます。そこで彼が弾んでくれていればそれが喜び。
──●山口さんは演出もされているのですね。竹田さんは出演のほう。
竹田 ま、主役って言うんですか(笑)。
──●山口さんの笑いにはシニカルというかリアルも入っていますね。
山口 この歳では人間の葛藤を描いたものしかできない。若い連中みたいに今のトレンドのネタはできないんで。まあ、我々の歳でコントやってる人はなかなかいないですか。自分たちが面白がれる世界を作っていけたらいい。今、60歳になってるけど、楽しく仕事ができてます。昔は、やらされてた部分がたくさんあったし、お金のことでだまされてたりしてたので。芸人としてやりたいことをやって何十年も来て、今こうして楽しく仕事させていただいている。それが一番幸せじゃないかな。
関内ホール楽屋にて(10月20日取材)
インタビュアー 福井・中野