応永の外寇(三日月城通信)
応永の外寇(1419年6月17日~7月3日 旧暦)↑
応永の外寇は、李氏朝鮮によって行われた、対馬への侵略戦争である。対馬では前の島主が亡くなり、若い島主が立ったために倭寇の取り締まりが緩んでいた。また、1408年に足利義満が亡くなっているため北九州の勢力関係もかなり不安定であったと思われる。従って倭寇の取り締まりは思うようにいかなかったと思われる。李氏朝鮮の上王太宗が倭寇退治を理由に対馬へ侵略したのがこの外寇である。
しかしながら朝鮮の倭寇の実体はこのようなモノである。
「臣聞前朝之季, 倭寇興行, 民不聊生, 然其間倭人不過一二, 而本國之民, 假著倭服, 成黨作亂, 是亦鑑也。」(『世宗実録』世宗28年10月28日。)
適当に訳した奴。「高麗末期に倭寇が横行して民が苦しめられたが、その中で倭人(日本人)はたった、1,2にすぎず、本国の民(朝鮮人)ばかりである。仮の倭(日本の)服を着て、党をなして、乱を起こした。これもまた鑑みてください。」
当然ながら世宗28年は応永の外寇より後の時代である。
なお、朝鮮王朝実録では、倭人と日本人を明確に区別して書いている。(罵倒するときは倭奴になる)実は、朝鮮王朝実録に出てくる倭人という存在は日本人では無いのだ。朝鮮人・中国人・日本人などを含めた沿岸を周辺に荒らし回る海賊と言う意味で使われている事が多い様である。逆に北方に現れていた野族・馬賊に関しては野人と書き記している。
要するに倭寇と呼んでいるものの正体は、「火賊」の一種の様である。朝鮮の火賊の横行までも対馬の責任にするのであるから李氏朝鮮も酷いものである。
6/20に対馬の浅茅湾付近に上陸、近くの民家に放火、虐殺。この辺は倭寇の基地があったと言われているがよく分からない。
奴隷(おそらく朝鮮人)21人と中国人131人を捕獲。と書いてある。中国人が131人も居る時点で倭寇の実体が分かるかと思います。
6/26 仁位郡で対馬軍の伏兵に会い大敗。
6/29 降伏勧告をするが、暴雨風の季節だと言われて慌てて帰還する。
7/3 黄海道周辺倭寇が出現。李從茂、巨済島へ帰還。
7/4 倭寇が忠清道から全羅道を荒らし回る。(結局、対馬まで何しに行ったのだ・・・。)
7/7 李從茂、ソウルへ帰還。
その後も再三対馬再侵略の上奏があるが、上王は許可せず。
なお、1419年とは、
応永26年 室町時代。称光天皇。将軍:第四代足利義持。
応永年間に起きた外国からの侵略なので、応永の外寇と呼ぶ。
室町幕府の政権基盤は常に不安定であったため(特に九州・関東は半独立地域だった)、この時代も不安定。
李氏朝鮮は四代王の世宗元年(元年と言うと1年目かと思うが実は即位2年目である。)
但し上王太宗(世宗の父三代王)が摂政を行っており、軍権を握っていた。この時代の世宗に決定権は無い。
世宗実録による李氏朝鮮側の戦力。
将軍:李從茂
兵船:227隻。京畿道から10隻、忠清道から32隻、全羅道から59隻、慶尚道から126隻、
将兵:17,285、諸将・官人及び従人669、諸兵16,616。
兵糧は65日分用意。
戦果:
民家に放火:2017(1939+68)
首級:123(114+9 日本側の記録では104)
焼いた船:144隻(129+15)
拿捕した船:20隻
捕虜:中国人と朝鮮人が179(21+131+15+8)
被害:
戦死者:180以上
負傷者:2500以上
黄海道から全羅道にかけて倭寇30隻に荒らされる。
対馬側の戦力は不明。
島主:宗貞盛
対馬の実質石高2万、17世紀末の人口が3万2000人前後と言う事を考えると最大動員兵力は多く見積もって3000。全兵力を投入した痕跡が見えないので500-1000の間と推定。
要するに1/20の兵力に朝鮮側が大敗しただけの戦いですね。
戦略的不備も多い。
7/3-4に倭寇に荒らされていると言う記述があることから李氏朝鮮側は制海権を全く握っていない。つまり持久戦になったら持ちこたえられない。朝鮮中の船をかき集め65日分の糧食を持っていた事から補給線を確保する事も考えていない。
要するに停泊中の船を背後から襲われたら帰る手段も食料も失う。
朝鮮側の作戦は不備だらけである。対馬側が手加減していたとしか思えない弱さである。(対馬は日朝貿易で生計を立てているので朝鮮軍を壊滅させると言う事は出来ないんですよね。)
- 最終更新:2010-05-03 19:35:09