七五三のお祝い。子どもの成長を喜ぶ華やぎに溢れます
2019年11月15日
11月に入ると神社やお寺の境内では、七五三を祝ってお詣りする家族連れをみかけます。今日15日は「七五三」。艶やかな絹に彩り豊かな模様のお祝い着に身をつつんだ、かわいらしい着物姿はなんとも微笑ましいですね。かつて乳幼児が元気に育つことが難しかった時代、子どもが無事に成長していく願いは一層強く、さまざまな祈りが行われました。七五三もそのひとつ、その願いは今も変わりません。成長の節目に晴れ着を着せた子どもとともに氏神さまに参拝し、その歳まで無事に育ったことに感謝をして、今後の健やかな成長を祈ります。今日は七五三の由来について考えてみたいと思います。
始まりは平安時代から! 長い歴史がありました
現在の「七五三」のお祝いは、
三歳前後に行われた「髪置(かみおき)」
五歳前後に行われた「袴着(はかまぎ)」と「髪削(かみそぎ)」
七歳前後に行われた「帯直(おびなおし)」
という平安時代から室町時代にかけて成立した子どもの儀式に始まりがあります。
「髪置」はそれまで剃っていた髪の毛を伸ばし始める儀式です。
子どもの産毛を剃る習慣が生まれたのは平安時代末期頃、胎内にあったものは不浄という考えが元となっているとのこと。生後6日目の行事として「六日剃(むいかぞり)」が行われ、子どもが3歳になるまで頭を剃りました。「まるぞりは3年続けると子が丈夫になる」という言い伝えもあったそうです。頭頂部、横や後ろを残して剃る髪型は、今でも童人形で見ることがありますね。
子どもが無事に3歳になると、長寿の人が「髪置親」となって真綿でできた白い綿帽子を頭に置く「髪置」を行い、髪を伸ばし始めます。白髪になるまで長生きするようにという思いが、白い綿帽子に込められます。
「袴着」は初めて袴を着る儀式です。平安時代公家の行事として男女ともに行われていました。
「髪削」は3歳で伸ばし始めた髪の毛を切りそろえる儀式で、室町時代以降に行われるようになりました。
江戸時代になると武家でも「袴着」「髪削」が行われるようになり、5歳男児の行事となりました。碁盤の上に立たせ、髪を切りそろえ裃(かみしも)の肩衣(かたぎぬ)を着せ、左足から袴をはかせ、刀は2本差させる、という武家らしいお祝いになったのです。
「帯直」は乳幼児の頃は付け紐で結んでいたものを、いよいよ大きくなり帯をするようになる時に行うお祝いです。帯解(おびとき)や紐直(ひもなおし)など、言い方はさまざまです。室町時代に貴族の間で始まったもので、男女とも9歳で行っていましたが、江戸時代中頃になると5歳の男児が着袴(ちゃっこ)の儀を行うのにたいして女児が7歳で「帯直」の儀を行うことが多くなったということです。
生まれたばかりの乳児から成長するごとに、将来を見据えた意味を持つ儀礼が、長い時間をかけて考えられてきたことがわかります。身なりを改めることで成長段階は次へ進むことがはっきりと認識されますね。
三歳前後に行われた「髪置(かみおき)」
五歳前後に行われた「袴着(はかまぎ)」と「髪削(かみそぎ)」
七歳前後に行われた「帯直(おびなおし)」
という平安時代から室町時代にかけて成立した子どもの儀式に始まりがあります。
「髪置」はそれまで剃っていた髪の毛を伸ばし始める儀式です。
子どもの産毛を剃る習慣が生まれたのは平安時代末期頃、胎内にあったものは不浄という考えが元となっているとのこと。生後6日目の行事として「六日剃(むいかぞり)」が行われ、子どもが3歳になるまで頭を剃りました。「まるぞりは3年続けると子が丈夫になる」という言い伝えもあったそうです。頭頂部、横や後ろを残して剃る髪型は、今でも童人形で見ることがありますね。
子どもが無事に3歳になると、長寿の人が「髪置親」となって真綿でできた白い綿帽子を頭に置く「髪置」を行い、髪を伸ばし始めます。白髪になるまで長生きするようにという思いが、白い綿帽子に込められます。
「袴着」は初めて袴を着る儀式です。平安時代公家の行事として男女ともに行われていました。
「髪削」は3歳で伸ばし始めた髪の毛を切りそろえる儀式で、室町時代以降に行われるようになりました。
江戸時代になると武家でも「袴着」「髪削」が行われるようになり、5歳男児の行事となりました。碁盤の上に立たせ、髪を切りそろえ裃(かみしも)の肩衣(かたぎぬ)を着せ、左足から袴をはかせ、刀は2本差させる、という武家らしいお祝いになったのです。
「帯直」は乳幼児の頃は付け紐で結んでいたものを、いよいよ大きくなり帯をするようになる時に行うお祝いです。帯解(おびとき)や紐直(ひもなおし)など、言い方はさまざまです。室町時代に貴族の間で始まったもので、男女とも9歳で行っていましたが、江戸時代中頃になると5歳の男児が着袴(ちゃっこ)の儀を行うのにたいして女児が7歳で「帯直」の儀を行うことが多くなったということです。
生まれたばかりの乳児から成長するごとに、将来を見据えた意味を持つ儀礼が、長い時間をかけて考えられてきたことがわかります。身なりを改めることで成長段階は次へ進むことがはっきりと認識されますね。
11月15日にお祝いする謂われはなに?
これにはいろいろな説があります。なんと言っても霜月(11月)は収穫が終わったあと、そして陰暦で15日は満月。また二十八宿という暦でいう吉日「鬼宿日(きしゅくにち)」が11月は15日にあたること。「鬼宿日」は嫁取りのほかは万事大吉とされています。このような良い意味が重なった日だからでしょうか、5代将軍徳川綱吉が長男徳松の健康祈願をこの日に行ったことから、11月15日がお祝いの日として定まったといわれています。お祝いはできるだけいい日を選びたい、古今を問わずその思いは変わりません。
「七五三」がことばとして使われるようになったのは明治時代。今のような賑やかな祝いごととなったのは意外に新しく、大正時代になってからということです。庶民にも子どもの成長を祝う習わしが広がったということですね。七五三のお祝いはまず氏神さまにお詣りをして、これまでの無事を感謝しこれからの成長を祈願しますが、まわりで見守って下さっている方への感謝も忘れずにしておきたいですね。お赤飯を炊いて配ったり、家族でお祝いの膳をかこんだりと、大いに喜び合いたいものです。
「七五三」がことばとして使われるようになったのは明治時代。今のような賑やかな祝いごととなったのは意外に新しく、大正時代になってからということです。庶民にも子どもの成長を祝う習わしが広がったということですね。七五三のお祝いはまず氏神さまにお詣りをして、これまでの無事を感謝しこれからの成長を祈願しますが、まわりで見守って下さっている方への感謝も忘れずにしておきたいですね。お赤飯を炊いて配ったり、家族でお祝いの膳をかこんだりと、大いに喜び合いたいものです。
「千歳飴」なぜ引きずるくらい長いのかしら?
1年に1度この頃に作られる「千歳飴」は甘くて素朴な味ですね。この味が好きでついつい毎年買ってしまいます。飴の歴史を紐解くと『日本書紀』の神武天皇の頃にさかのぼります。
「われ、いままさに八十平(やそひらか)をもって、水無しに飴(たがね)をつくらん。飴成らば、われ必ず鋒刃(つわもの)の威(いきおい)を仮(か)らずして、坐(い)ながら天下を平げん」
(さあ、私は今たくさんの平たい土器の皿で飴を作ろう。飴ができたならば、我は武力を用いずに天下を治めることができるだろう)
といって天つ神に戦勝を祈願されたと記録されています。
飴があれば戦わずに平和を得られる、というのはなんともいい話ではありませんか。具体的な資料としての飴の記述は、奈良時代の『食物下帳』762(天平宝字6)年にあり、これによると白米を原料とした水飴のようです。「延喜式」という平安時代に編纂された法令の中には、飴屋さんが誕生していたという記録がありますが、食べるものとしてではなく調味料だったようです。江戸時代になってようやくお菓子として売り出され、薩摩藩の黒糖により甘みにも変化がでてきたということです。
このような飴の歴史の中で、千歳飴は元禄・宝永年間(1688~1711年)頃、江戸・浅草の飴売り七兵衛が考案したそうです。飴がよくのびることから長寿の縁起をかつぎ、長い袋に入れて「千歳飴」または「長寿飴」と書いて売り歩いたのが始まりです。やがて袋に松竹梅に鶴や亀などおめでたい絵をいれて、七五三用に広まったということです。
引きずるように千歳飴の袋を持ち一生懸命歩いている姿に、思わず「ガンバレ!」と心の中で声を掛けてしまいます。今年もたくさんの子どもたちが七五三のお祝いにお詣りすることでしょう。健やかな成長を祈りたいと思います。
参考:
伊藤美樹 絵、生活たのしみ隊 編『赤ちゃん・子どもの祝いごと歳時記』成美堂出版
似内惠子著『子どもの着物大全』誠文堂新光社
高橋司 著『食で知ろう 季節の行事』長崎出版
『日本大百科全書』小学館
明治神宮のホームページ
カンロのホームページ
「われ、いままさに八十平(やそひらか)をもって、水無しに飴(たがね)をつくらん。飴成らば、われ必ず鋒刃(つわもの)の威(いきおい)を仮(か)らずして、坐(い)ながら天下を平げん」
(さあ、私は今たくさんの平たい土器の皿で飴を作ろう。飴ができたならば、我は武力を用いずに天下を治めることができるだろう)
といって天つ神に戦勝を祈願されたと記録されています。
飴があれば戦わずに平和を得られる、というのはなんともいい話ではありませんか。具体的な資料としての飴の記述は、奈良時代の『食物下帳』762(天平宝字6)年にあり、これによると白米を原料とした水飴のようです。「延喜式」という平安時代に編纂された法令の中には、飴屋さんが誕生していたという記録がありますが、食べるものとしてではなく調味料だったようです。江戸時代になってようやくお菓子として売り出され、薩摩藩の黒糖により甘みにも変化がでてきたということです。
このような飴の歴史の中で、千歳飴は元禄・宝永年間(1688~1711年)頃、江戸・浅草の飴売り七兵衛が考案したそうです。飴がよくのびることから長寿の縁起をかつぎ、長い袋に入れて「千歳飴」または「長寿飴」と書いて売り歩いたのが始まりです。やがて袋に松竹梅に鶴や亀などおめでたい絵をいれて、七五三用に広まったということです。
引きずるように千歳飴の袋を持ち一生懸命歩いている姿に、思わず「ガンバレ!」と心の中で声を掛けてしまいます。今年もたくさんの子どもたちが七五三のお祝いにお詣りすることでしょう。健やかな成長を祈りたいと思います。
参考:
伊藤美樹 絵、生活たのしみ隊 編『赤ちゃん・子どもの祝いごと歳時記』成美堂出版
似内惠子著『子どもの着物大全』誠文堂新光社
高橋司 著『食で知ろう 季節の行事』長崎出版
『日本大百科全書』小学館
明治神宮のホームページ
カンロのホームページ