これ以上なにか言うべきか迷っていました。
しかし、個人的な目標として
「作品が社会に与える影響を研究したい」
と掲げている以上、
件について何も言わないわけにはいきません。
特に私の場合、
作品も、男女平等の獲得も、
いずれも応援したい立場にいます。
この2つを支持していく上でどうすればいいか、
考えがまとまってきたために、
少し書き起こしたいと思います。
背景となっているコンテキストは複雑ですが、
提案すべき解決策は、
案外シンプルなのではないかと思います*1。
私の中のオタクとフェミニスト
この件を受けて私が目指したいゴールは、
3つに分解できます。
私の中のオタクの立場は、
①作品が皆に愛されるようでありたい。
②表現の自由を守りたい。
③男女平等を速やかに達成したい。
さて、少なくとも私の考えでは、
どの立場に立ったとしても、
どこへ向かうべきかという結論は同じでした。
争点になっている絵だけを差し替え、
キャンペーンや作品自体のことは応援するか
少なくとも黙認する。
このような結論に至りました。
まず、
①作品が皆に愛されるようでありたい。
この立場から言えば、
少なくとも「あの」表現が不愉快だとされる以上、
それをすぐに差し替えることは、
作品が嫌われないことに役立ちます。
加えて、ファン以外から出ている意見を
柔軟に取り入れる姿勢を示すことは、
批判するかたがたからも、第三者からも、
評価されることに繋がるでしょう。
ただしこのとき気をつけるべきことは、
作品の本質的な魅力が損なわれないよう
加減をするということです。
本質的な魅力が損なわれてしまうのでは、
これまでのファンが遠ざかってしまいます。
しかし今回、
スカートの皺、もっと言えば
公衆の場でセクシャルな表現*3をすることが
果たして作品の本質的な魅力でしょうか?
これは違うと考えています。
むしろ逆で、
ラブライブ!という作品は
一貫してセクシャルな表現を避けてきたことが
作品の良さを作っているのだとさえ思います*4。
もちろん、スマートフォン用ゲームのカード等では
セクシャルさを狙ったと思われる描画もあります。
もしこれらの表現がすべて失われるならば、
作品の質が一定程度変化することを避けられません。
しかし今回のキャンペーンの絵を置き換えることは、
カードからセクシャルな絵をなくすことを意味しません。
このように、
スカートの皺を差し替えることは
批判するかたがたや第三者の評価に繋がり、
スカートの皺「のみを」差し替えることは
ファンに取って不利益となりにくいものと
考えられます。
私はこの作品のファンですので、
応援するということは自明な結論ですが、
その立場から加えて言えば、
作品が色々な意見を吸収して
頑健さを高めるように支持すること*5もまた、
1つの応援の仕方なのではないでしょうか。
続いて
②表現の自由を守りたい。
から考えると、
「公的な目的で」セクシャルな表現を避けることが
やはり適切な選択肢に入ってきます。
ある表現について、特にその過激な部分を
公的な場に出して批判される機会を増やすことは、
その表現にとってかえって不利ではないでしょうか。
過激でない部分を守るには、
過激な部分を批判される場面から除けばよいし、
過激な部分を守るには、
これもまた批判される場面から退くことが得策なのです*6。
表現の自由の立場に立ったとき、
作品とキャンペーン自体を応援する動機は
これもまた自明と言えるでしょう。
ここでいよいよ、
③男女平等を速やかに達成したい。
の視点に立ちます。
フェミニズムという考え方は決して
この一言だけで括れるものではないと
考えられますが、
これはあくまでフェミニストとしての私が
掲げる目標だ、と理解ください。
ここで、今なお問題となっている男女不平等を
おおまかに3つの観点で整理します。
1. 収入や政治的権力に格差がある*7。
2. 先入観で役割分担を決められてしまう。
3. 搾取の対象になる。
今回問題になるのは、
特に 3. の点だと考えられます。
キャラクターの描写なので若干距離はあるものの、
人間を性的な対象として見るような表現を
公の場で行うことには問題があります*8。
「公がそれを認めている」という解釈にもつながり、
非常に危険です。
女性が搾取の対象とされるリスクのある表現を
公式機関であればなおさら注意深く避けるべきで、
やはり、スカートの皺を差し替えるべきという
結論に至ります。
逆に、スカートの皺さえ差し替えれば
それ以上の措置を要求する必要はないでしょう。
作品やキャンペーン自体の撤回を求めることは
性的搾取のリスクを減らすことに
貢献しないと考えられるからです*9。
上で述べたように、
この作品が性的な搾取を再生産しているものだとは
考えにくいところがあります*10。
不用意に攻撃するとなると、
フェミニズムという運動自体が
批判される機会を増やしかねません。
以上の点から、男女平等の達成を目指すとき、
やはりスカートの皺を差し替えるべきで、
しかし差し替え以上の追求をしないべきだ、
このように考えられます。
そしてもしもスカートの置き換えがされたなら、
男女不平等に向けて疑問を投げかけた
アニメの事例として、
評価すべきポイントも出てくるわけです。
これが、応援、とまでいかないまでも、
支持、少なくとも黙認する理由になります。
信じたい物語に気をつけたいということ
このように、あくまでも私の考えでは、
どちらの立場に立ってもやるべきことは1つで、
スカートの皺「のみ」を差し替えるべきだという
唯一の回答に至りました。
では、それでもなお議論が続いているのは
なぜなのでしょうか。
議論される事自体は良いことだと考えています。
表現の自由にせよ、男女平等の実現にせよ、
様々な議論をしていくなかで皆が考え、
それによって少しずつ前に進むものと
考えられるからです。
しかし、
議論というよりは批判が目的であるようなものも
散見され始めており、
それが長く続いています。
これは肯定的なことではありません。
さて、
私がラブライブ!研究において考えたいのは、
作品が社会に与える影響です。
このような研究の立場にたてば、
この記事で書いてきたような
「〜べきだ」を考えることは主な目的ではなく、
「〜である」を考えなければなりません。
今回の件については、
なぜ批判を中核とする議論が続くのか、
その背景にある「〜である」を
少し考えたいと思います。
ひいては、この理解が、
私たちが何を「すべき」か考える上でも
ヒントになるかもしれません。
批判中心の議論における登場人物は、
ざっくり分けて以下の立場のかたがたと思います。
1. 批判そのものを目的とする立場
2. 自分の信じたい物語を見つけた立場
この2つの立場の利害の一致から、
批判的な議論が継続されているのではないか。
言い換えると、批判中心の議論というのは、
「擁護」や男女平等ではなく、
他の目的によって生み出されている。
と考えています。
なお、
事の発端になるツイートをされたかたがたは、
必ずしも 1. や 2. の立場ではないと
考えられます。
もともとは単純な疑問や、
ほんのちょっと不愉快に感じたという言葉が、
議論を広げる出発点だったと理解しています。
話題を戻しましょう。
1. や 2. の立場がなぜ取られるのか。
その動機を考えると、
想像にかたくありません。
1. についていうと、まず批判というのは、
たとえ理不尽であっても、
拡散される場合がよくあります。
拡散されること自体に快感を覚えたいかたなら、
捨て垢を作って批判をする動機が十分にあります。
あるいは、怒りという感情です。
怒りは、自分の主張や権利が脅かされたとき、
それを守るために活用できる、
非常に強い感情です。
しかし強い感情であるがゆえに、ときに、
主張や権利を守る結果に至れなくても、
怒りだけが先走る場合もあります。
これは、今回 1. の立場だったかたに限らず、
私たち誰もに起きうることだと考えています。
1. という人がいる、というわけではなく、
誰かが 1. という状態だった、と考えるのが
妥当でしょう。
ともあれ、1. の立場を取るかたが現れるのには
理由があります。
2. の立場もまた理由を理解することができます。
人は誰しも自分 (たち) の物語を作って生きている、
と考えられます。
しかしここで、物語というものは、
今まであった過去のすべてを
詳細に記述しているものではありません。
印象に残ったことを選抜して、
人は物語を構成している。
このように理解できるわけです。
そこには、一部の際立った事例だけが目立たされ、
真実の物語からズレてしまうリスクがあります。
1. のかたがたが発するメッセージが拡散されるのは、
他の誰かにとって信じたい物語だったから。
このように考えられないでしょうか。
そうすると、 2. の立場を取るかたがたが現れ、
1. の立場を追いかけていくことになるでしょう。
恐らくですが、
人が物語なしで生きていくのは難しいでしょう。
自分の物語は大事なものです。
しかしその大事な物語は、
いつでも外から編纂されるリスクにさらされます。
そう思うと私たちは、
自分の大事な部分が外からの力にさらされ、
制御を失いかねないリスクの中にいるわけです。
その意味で、 2. もまた特定の誰かではなく、
あるタイミングのときの私たち、と
理解するのが妥当でしょう。
逆に言えば、私たちが注意できることは、
外からの物語に制御を奪われない、
ということではないでしょうか。
外からくる物語として例えば、
「私たちの集団 A は、いつも B から
権利の搾取を受けてきた。
今回 B を許せば、また私たち A は
不利な立場に立たされる!」
といったものがよくあると思います。
そのセンテンスすべてが嘘ではなく、
部分的に真実を含んでもいるでしょう。
しかし文全体としてその主張が正しいのか。
あるいは、正しかろうと正しくなかろうと、
その文を信じることで、自分たちの集団 A は
より権利を回復できることになるのか。
このように、その主張やアクティビティが
自分たちの目的にかなっているかについては
よく振り返る必要があるでしょう。
なかなか難しいところではありますし、
考えること自体がストレスになる場合もありますが、
少なくとも真偽やゴールについては
冷静に吟味したいところです。
自分や相手の目指すゴールがなにかを探り当てれば
かえって思考が楽になる場合もあるかもしれません。
最後にくり返して言うと、
結論として主張したいのは、
スカートの皺のみを差し替えること。
そして、ある主張や怒りを信じることが、
自分たち集団にとって有利かどうか、
ゴールにかなっているかどうかということ。
こうしたことを重要だなと思って、
やっていきたいところです。
それでは、
ここまでありがとうございました。
参考文献
*1:複数の事態が混ざり合うような複雑な現場でも、意外とやるべきことが1つだけ、という場合があります。よくあるなぞなぞとして、以下のようなものがあります。ある人食い村で捕まったとき、出口について一度だけ、門番に尋ねるチャンスが訪れた。出口は2つあり、天国への道と地獄への道がある。道には、嘘しか言わない門番と、真実しか言わない門番が立っているが、どちらの道にどちらの門番が立っているかはわからない。一人の門番にしか質問できないし、「はい、いいえ」で答えられる質問でなければならない。このようなとき、例えば「もうひとりの門番は、この道を地獄への道と答えますか?」という質問をしさえすればよいのです。
*2:男性である私がフェミニストを名乗ることについて反論があるかもしれませんので、まだまだ力不足ありますが、行動で示していることを載せます。例えば、同居人がいた頃は、女性のほうが睡眠時間が多く必要だといわれていることから、いつも家事の半分以上を自主的に実施していました。また前職では、個人面談の際に「会社の産休制度を充実させてほしい」と主張していた所、もちろん決して私だけの功績だとは思えませんが、前職は産休と産後の正社員継続を実績として残す会社へと成長しました。
*3:セクシャルさを意図しなければ現れない皺の形状ということを踏まえると、「セクシャルな表現ではない」と主張することは難しいでしょう。
*4:わかりやすい点で言えば、下着が見える描写がないように注意深く作られています。
*5:詳細には立ち入りませんが、システムというものは一般に、対立する立場や意見といった外部からの力を受けて、新しい均衡へと至ることによって、いっそう強いものになる傾向があるでしょう。
*6:「不愉快に感じる人が多い表現なので公の場から除いて欲しい」、というリクエストは、表現の自由にとって理不尽なリクエストでありません。自分がいちばん不愉快に感じる表現が町中に出回ることを想像してみてください。虫の大群が群がっている絵、人体が故意に傷つけられた写真。あるいは自分の推しの人が、自分の最も嫌いな人とともに寝ている写真がもし掲載されたとしたら。これを「表現の自由のためだから掲載させてくれ」と言われたら、こちらのほうが寧ろ理不尽ではないでしょうか?このような越権をしない範囲内で自由に表現することこそが、表現の自由だということを主張したいのです。
*7:ここで問題なのは、結果の平等が達成されていないばかりか、機会の平等が達成されていないという点です。
*8:男性が性的な目で眼差されるような表現もたくさんあるじゃないか、という反論も有りえます。これはこれで批判されるべきかもしれませんが、女性が性的に見られる表現を優先して撤廃することは、「アファーマティブ・アクション」の観点から重要です。すでに現状男女の不平等がある以上、現状維持に近い動き方をするだけでは、価値観の口承伝達や企業倫理がそのまま継続され、不平等の再生産が行われかねません。これを解消するには、不平等を埋め合わせる積極的な対応が求められるのです。
*9:キャンペーンにおいて女性声優さんが起用され、ある種の名誉を持つことができた点では、むしろキャンペーンが女性の味方であると主張することも可能でしょう。しかし一方で、これには慎重な姿勢が必要です。一部の女性だけが特に脚光を浴びるようになっても、すべての女性が不平等な扱いを受けない状態になるとは限らないためです。
*10:女性が強制されるわけでもなければ、「誰かのために」やるわけでもなく、自分たちの努力で、自分たちのために大いなる目標に向かっているというこの作品は、むしろ既存の家父長的なジェンダー感を是正するものである、という考え方も可能です。しかし一方で、アイドルである女性が眼差されるアニメであるという点では一定のリスクははらんでいるため、慎重な見方が必要です。いずれにしても、手放しに「このアニメは男女平等に味方している/敵対している」と明言できるものではないことを御理解いただけることと思います。