黒田杏子の語る「想念を動かす」とは・・
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ある人からこんな質問のメールを頂いた。
先だっての「金子兜太・黒田杏子の道後俳句塾」吟行会での黒田杏子が発した言葉についての質問だ。
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質問です。
黒田さんは、「現場に行ったら感情、想念をよく動かして作る。これが吟行の醍醐味です」と言われたと思います。感情を動かす、というのは何となくわかりますが、想念も動かすのでしょうか。もし、ご記憶や、これまでの黒田さんの言葉でヒントがありましたら教えて頂けないでしょうか。
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師匠である黒田杏子の本意を、どこまで的確に掴んでいるかどうかは分からないが、黒田杏子を師として仰ぐようになってからこのかた、私は(滅多に会う機会のない)師と過ごすささやかな時間において、師がさりげなく口にする短い言葉の意味を、自分なりに噛み砕き解釈しそれを己の栄養とすることを一つの修業としてきた。
質問をしてきた方が、黒田杏子を師と仰ぐ人物であれば「先生のおっしゃる意味をご自分としていろいろに考えてみたらいいと思いますよ」と、お返事したかもしれないが、やや立場を異にする方だったので、私なりの考えを以下のように短くお伝えした。
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黒田杏子は「季語の現場に立つ」ことを創作の基本にしていますし、弟子であるワタシも勿論そうですが、黒田杏子はそこで「五感を使う」ことを勧めます。
「五感」のアンテナを広げて季語の現場に立っていると、勿論さまざまな「感情」も動きますが、何かの音・匂い・動きなどによって、その場には全くないモノや情景がふっとよみがえったり、一瞬のうちに己が虚の世界にワープしていることもあります。
ふくろうに聞け快楽のことならば いつき
この句は、動物園吟行の際、
フクロウの檻の前で一気に作った十数句の中の一句です。これもまた、季語の現場で動いた「想念」から生まれた句だといえるかもしれません。
黒田杏子は、このような句を観念的だとか難解だというふうには切り捨てません。それはきっと、先生自身が季語によって揺り動かされる「想念」からも俳句が生まれることを体で理解しておられるからだろうと思います。
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「夏井さんの句柄は、黒田先生の句柄とは全く違うのに、なぜ師と仰いでいるのですか」などという質問をぶつけられることがある。
私は逆に質問を返す。
「先生の句柄に限りなく似た句を作るような弟子を、先生が喜ぶはずないんじゃないですか?」 ・・ハッとした顔をする人もあれば、怪訝な顔をする人もある。
「先生から何を吸収し、どんな自分を表現するか。それが表現者としての目的であって、それすら出来ないような弟子を育てることに、先生はなんの興味もお持ちではないと思います。少なくとも、私が師の立場にあるとすれば、そんなナサケナイ弟子しか育てられない自分は、人を教える能力に欠けているとの自己評価を下すに違いありません。」
私は黒田杏子の弟子だ。
私は、先生から自分勝手に吸収したものを、「夏井いつき」として表現する。先生はこのワガママ極まりない弟子に対し、時には呆れ、時には爆笑し、時には叱責し、時にはささやかに誉めて下さってもきたが、
どんな場合でも、先生は「良いも悪いも、これが夏井いつきです」と言い切って下さる。良い部分も悪い部分も、これが夏井いつきだと肯定して下さる。だから安心して暴れることが出来る。それが師という存在に対する信頼感なのだと思う。
そして、師を選ぶとはそういうことなのだと思う。
「自分の不出来や不調を師のせいにする」なんてのが愚の骨頂であることは言うまでもないが、「師を持つ」ということは、「表現」という大海に身を漂わせる己にとって、一本の鋼のごとき「錨」を持つことでもあると思う。
そういう意味において、
私は強靱な「錨」を持つ果報者である。
先だっての「金子兜太・黒田杏子の道後俳句塾」吟行会での黒田杏子が発した言葉についての質問だ。
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質問です。
黒田さんは、「現場に行ったら感情、想念をよく動かして作る。これが吟行の醍醐味です」と言われたと思います。感情を動かす、というのは何となくわかりますが、想念も動かすのでしょうか。もし、ご記憶や、これまでの黒田さんの言葉でヒントがありましたら教えて頂けないでしょうか。
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師匠である黒田杏子の本意を、どこまで的確に掴んでいるかどうかは分からないが、黒田杏子を師として仰ぐようになってからこのかた、私は(滅多に会う機会のない)師と過ごすささやかな時間において、師がさりげなく口にする短い言葉の意味を、自分なりに噛み砕き解釈しそれを己の栄養とすることを一つの修業としてきた。
質問をしてきた方が、黒田杏子を師と仰ぐ人物であれば「先生のおっしゃる意味をご自分としていろいろに考えてみたらいいと思いますよ」と、お返事したかもしれないが、やや立場を異にする方だったので、私なりの考えを以下のように短くお伝えした。
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黒田杏子は「季語の現場に立つ」ことを創作の基本にしていますし、弟子であるワタシも勿論そうですが、黒田杏子はそこで「五感を使う」ことを勧めます。
「五感」のアンテナを広げて季語の現場に立っていると、勿論さまざまな「感情」も動きますが、何かの音・匂い・動きなどによって、その場には全くないモノや情景がふっとよみがえったり、一瞬のうちに己が虚の世界にワープしていることもあります。
ふくろうに聞け快楽のことならば いつき
この句は、動物園吟行の際、
フクロウの檻の前で一気に作った十数句の中の一句です。これもまた、季語の現場で動いた「想念」から生まれた句だといえるかもしれません。
黒田杏子は、このような句を観念的だとか難解だというふうには切り捨てません。それはきっと、先生自身が季語によって揺り動かされる「想念」からも俳句が生まれることを体で理解しておられるからだろうと思います。
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「夏井さんの句柄は、黒田先生の句柄とは全く違うのに、なぜ師と仰いでいるのですか」などという質問をぶつけられることがある。
私は逆に質問を返す。
「先生の句柄に限りなく似た句を作るような弟子を、先生が喜ぶはずないんじゃないですか?」 ・・ハッとした顔をする人もあれば、怪訝な顔をする人もある。
「先生から何を吸収し、どんな自分を表現するか。それが表現者としての目的であって、それすら出来ないような弟子を育てることに、先生はなんの興味もお持ちではないと思います。少なくとも、私が師の立場にあるとすれば、そんなナサケナイ弟子しか育てられない自分は、人を教える能力に欠けているとの自己評価を下すに違いありません。」
私は黒田杏子の弟子だ。
私は、先生から自分勝手に吸収したものを、「夏井いつき」として表現する。先生はこのワガママ極まりない弟子に対し、時には呆れ、時には爆笑し、時には叱責し、時にはささやかに誉めて下さってもきたが、
どんな場合でも、先生は「良いも悪いも、これが夏井いつきです」と言い切って下さる。良い部分も悪い部分も、これが夏井いつきだと肯定して下さる。だから安心して暴れることが出来る。それが師という存在に対する信頼感なのだと思う。
そして、師を選ぶとはそういうことなのだと思う。
「自分の不出来や不調を師のせいにする」なんてのが愚の骨頂であることは言うまでもないが、「師を持つ」ということは、「表現」という大海に身を漂わせる己にとって、一本の鋼のごとき「錨」を持つことでもあると思う。
そういう意味において、
私は強靱な「錨」を持つ果報者である。
- 2008.09.22 Monday
- 俳句
- 21:29
- comments(7)
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- by 夏井いつき