日々の日記

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震災の頃8

2011-04-11 00:04:40 | 最近の記事または未分類
 この文章は書いているうちに長くなったが、言いたいことは、人は、言葉を材料にして概念を作り、言葉や概念を材料にして「この世」を作る。それが人とケダモノの違いだ。犬でさえ、人の作った秩序たる「この世」を限定的だが理解しているようだ。その限りにおいて彼らは家族の一員として遇される。しかし人は、みずから作った「この世」の中にずっと留まることは不健康だ。それは守ってくれる砦であると同時にたましいの牢屋でもある。聖俗を分ければ、「この世」は俗そのものだ。聖はその外にあるに違いない。人はそれに触れたい。いや、一般化せずに、単に僕だけのこととして考えよう。僕はそれに触れたい。僕はどうやって「この世」にいながら、その外にある何かと接触しようとしてきたのか、最近ちょっと考える材料があったような気もする。

 僕があるQ&Aのサイトなどを見ていると、ある人が、自分がいちばんかっこいいと思う音楽はこれだ、と言っている人がいた。YouTubeのリンクがあったので、最近の人がかっこいいと思う音楽とはどんな感じなのかな、と思って見ていた。アーチストの名前は聞き覚えがあったが注意したことはなかった。ライブの映像だったが、16ビートで、線は細い感じで、都会的に洗練されていて聞き心地はいいけど、特に印象的というのでもなかった。それはJamiroquaiというアーチストのMain Veinという曲だった。それが、たぶん先々週ぐらいのことだったけれど、どうしてだろうか、このアーチストの音楽をいろいろYouTubeで探してあれから毎日のように聴くようになった。好きになったからというよりは、何かを探るために聴いているという感じだが、ひょっとしたらけっこう気に入っているのかもしれない。
 このバンドは1992年にデビューしているので、ちょうど僕が流行歌の流行を追うことをすっかりやめてしまった時だ。だから僕は、70年代と80年代の流行歌の違いはよく分るのだが、90年代と00年代にはどういう違いがあるのかについてはまったく何の考えもない。だが、時々聞こえてくる音楽も、80年代とそれほど違わないんじゃないかな、もし時代が動いているとしたら、その重要な最先端の動きは流行歌以外のところにあるんじゃないか?それが証拠に日本の去年の流行歌のヒットチャートは年間ベスト10の半分以上がAKB48と嵐の曲で占められているとか。そんな考えでいる。でも最近20年はどんなだろう?というのを、Jamiroquaiの音楽を聴くことで推測しようとしているのかもしれない。このバンドは、アシッドジャズというジャンルに属し、このジャンルでは最も成功したバンドの一つだという。でもアシッドジャズというジャンル自体がどれぐらい人気があるかもよくわからない。でもvirtual insanityという曲のMVはたくさんの賞をもらって、YouTubeにも、それのパロディの動画も何種類もあり、わりと最近、日本のカップヌードルのCMでもこのMVのパロディを使っているようなので、かなり世界的に有名らしい。
 彼らの音楽は、口あたりが良いが、強い印象を与えるものではなく、なぜそんなに人気があるのかな、という感じだが、よく曲を聴くと、「あらまあ、ポップスはこんなふうに進化してるのか・・・」と思った。
 本当は音を具体的に拾って、これがどんなスケールで書かれているのかとか調べると面白いと思うが、そういうことをしてると僕の時間はあっという間に過ぎて寿命が来て死んでしまうので、そう簡単にはできない。でも、びっくりするぐらいジャズをポップにしているような感じだと思った。
 普通、流行歌というのは長調か短調で作られるものだと思う。少なくとも僕が子どもだった頃はそうだったと思う。しかし、長調、短調というのも、いくらでもある音階(スケール)の可能性の中の2つにすぎない。ピアノの鍵盤で、ドから始まって順番に白鍵だけ弾いていくと「ドレミファソラシド」が得られる。それが長調の音階。ラから順番に白鍵だけ弾けば「ラシドレミファソラ」が得られる。これが短調の音階。理屈で考えれば、他にもレから始まる「レミファソラシドラ」や、ミ、ファ、ソ、シ、から始まる音階もある。それらはジャズやブルースという音楽では積極的に使われる。名前もついていて、ドから始まる、我々が「長調」と呼ぶ音階はアイオニアン・スケールと名前がついている。レからの奴はドリアン・スケール。以下、ミからのはフリジアン、ファからのはリディアン、ソからのはミクソリディアン、ラからの奴つまり短調と我々が呼ぶ音階はエオリアン・スケール。そしてたぶん最も変てこな音に響くだろうシから始まる音階はロクリアン・スケールと呼ばれる。普通、というか僕が子どもだった頃の感覚では、この7つのうち、「長調」と「短調」以外は、なんかやだなー、という感じに聞こえるものだ。それが、流行歌の中に入ってきたのは、もともとはアメリカの黒人音楽からだった。具体的なことは僕は知らないが、アフリカの音楽は西洋と違ったので、まだアフリカのルーツを持っていた黒人たちは、西洋の音楽にはないような音階を、ギターやピアノなど西洋の楽器を使って出したんだと思う。それは長調、短調以外のスケールを使うことで、あるいはそもそも安定したスケールを持たないブルーノートと呼ばれるスケールだったり。

 我々の音楽を聴く耳というのは、西洋流の、長調と短調の音楽に慣れていて、これが基本になっている。しかし、これだって我々が人工的に作った秩序だ。これこそが音楽の「この世」であって、保守的な耳には、こういう秩序から外れた音楽は受け入れられないだろう。しかし人間が、自分たちが人工的に作ったにすぎない秩序の中に永遠にとどまることはありえないので、従来の秩序は少しずつ形を崩されていく。いろんな経緯があるだろうけど、僕が意識しているのは、クラシック音楽の、「無調整」という方法。これは、音階自体をなくしてしまう、という考えだ。それから、アメリカの黒人が別の音階を持ち込んだことを機会に、それをどんどん使っていこうという流れで、それを「Jazz」と言うんだと僕は思っている。それは従来の音楽を、黒人音楽という方法で揺さぶって、新たな音を作っていこうという試みからはじまって、今ではどんなエスニック音楽からの揺さぶりも歓迎する、というのがジャズではないだろうか?ジャズも、聴き心地のいいポップスもあるけど、その本質は、新たな音楽の可能性の開発にあるんじゃないか、と僕は思う。ジャズというと、おしゃれで大人の雰囲気を持ったほろ苦い感じの音楽、というふうに位置づける人もあろうが、それはジャズが音楽の可能性の境地を切り開く道中で落とした影みたいなもので、それは本質ではないと思う。
 その黒人の音楽が西洋の流行歌の中に入っていったのは、プレスリーとか、ローリング・ストーンズ、ビートルズなどがきっかけだった。ストーンズとビートルズは同じ時代のイギリスのバンドだが、ストーンズはかなりむき出しの黒人テイストの音楽をやっていて、当時のイギリスの普通の人はそんな音楽は聴き心地が悪いと感じる人がほとんどだったというが、だんだんと慣れたのだろう、そのうち少しずつ受け入れられていったらしい。それに対してビートルズは、従来の音楽と違ったものを取り入れたのに、すごく受け入れられる音だった。長調と短調の音楽を聴きなれている耳にも受け入れられ、それでいてよく聴くと長調でも短調でもない音楽だったりする。僕はこれは酒にたとえると、チューハイのようだと思う。焼酎というのは土着的な味がするのに、それを使いながらチューハイにするとなんかおしゃれになって都会の人の口にもなじむようになる。

 洋楽を聴いていると、やっぱ、新しいことをやろうとすると、口あたりが悪い。ビートルズみたいに、本来口あたりが悪いものをあれだけすんなりとポップにできたのは、稀だと思う。なぜそれができたかというと、たぶん見た目が普通で、健康的な若者がすごく元気に歌ってたからじゃないかなと思う。そうすると、健康そうで、普通の音楽だと思われたんじゃないかなと。

 僕が洋楽を熱心に聴いていた80年代だと、たとえばプリンスという人がいた。この人の音楽も、従来になかった音を作るようなタイプで、口あたりはかなり悪かった。しかし、この人のアルバムの中でたぶん最も人気が出た「パープルレイン」は、やっぱり変だけど、リズムがあって、ものすごく元気に歌っているので、口あたりがよくなった。僕も80年代にこのアルバムだけはすごく夢中になったが、他のプリンスのアルバムは、分りにくくて、理解できるまで我慢しながら聴くという感じだった。しかし何年もたつうちに、なんだかプリンスの音楽みたいなものが増えていくような気がした。当時、プリンスの音は未来を先取りしているという人もいて、何のこっちゃと思ってたけど、たしかに先取りしていたのだ。これはある意味で予言みたいなもので、どうしてこういう先取りができるんだろう?って不思議な気持ちだった。
 Jamiroquaiの音楽は、特に新しい感じもしないけど、じゃあ僕が洋楽を熱心に聴いていた90年代初めまでの音楽と比べるとどうだろう、と考えると、やはり進化してるのかなと思った。80年代にはスタイルカウンシルというやはりイギリスのポップバンドがおしゃれの最先端だと僕は感じていたが、Jamiroquaiはそれと比べてももっと音がすべすべしている。80年代後半ぐらいから、Stingというこれもやはりイギリスのアーチストが、一流のジャズミュージシャンをバックバンドに迎え、すごくジャズテイストのアルバムを作っていた。当時は、ポップでありながら、ジャズの苦い味が香るようでたまらないものがあった。この苦い味、というのは、ジャズの最先端が流行歌にもたらす新味のことだ。これ以上行ったらちょっと一般には受けいられないというギリギリの苦い香りがたまらないものがあった。今これらを聴けば、聴き慣れたせいで、なつかしいなあという感じがする。新しく危ないものに触れたという苦味はすでに空気中に拡散してしまった。
 世の中の感覚が違ってきたなと思うのは、日本でも、aikoみたいに、明らかに長調でも短調でもない音階の歌がヒットするようになったことだ。ネットで調べてみると、年齢が上の人の中にはaikoのブルーノートスケールの歌い方を「音痴だなあ」と思う人がいるというので笑ってしまうが、僕の小学生の姪が、aikoがTVで歌うのに合わせて気持ちよく歌っているのを見て、ああやっぱり音楽の感受性は世代によって違ってきてるなあ、と思う。ネットで「aiko 音痴」で検索してみると、いろいろ引っかかり笑ってしまう。ここに感覚の変化という意味での時代の変化、世代の差があると思う。非常に興味深い。aikoの音楽は、ローリングストーンズとかツェッペリンみたいなおどろおどろしいブルースの仲間だけど、aikoが歌うとまったくそうは感じさせない。かわいい声でぴょんぴょん跳ねながら歌い、話をする時も、あたかもどこにでもいる普通の女の子みたいなとるに足らない話をして笑っているので、音楽に実は革命的というか破壊的なものを含んでいるとは認識されずに、かわりに「音痴」と認識されているのが面白い。
 

 Jamiroquaiの音楽は、僕が80年代に、最先端の音だなと感じていたStingの音よりもさらに進化していて、ブルーノートスケールなのか他のスケールか知らないが、長調でも短調でもない音階の音楽でありながら、ものすごいポップだ。これはビートルズやaikoと一緒で、従来ないものを「この世」にもたらしながら、しかもアレルギーを感じさせずにそのまま受け入れさせてしまったんだと思う。
 このJamiroquaiの音楽も、人も、わざと線の太さを消しているような気がする。ずいぶんと人気のあるポップスターみたいだけど、そういう雰囲気を出していない。僕が思うに、男のミュージシャンが余りにも人気が出ると、女性のアーチストと違って、精神のバランスが狂ってくるんじゃないかなという気がすることがある。男は「俺が見る」という存在であって、女性と違って「見られる」ということに居心地のよさを感じないものではないだろうか。だから、世界一のポップスターのマイケル・ジャクソンも、それから世界で最も長くスターダムに居続けているバンドの一つ、ローリング・ストーンズのミック・ジャガー、偶然かもしれないけどこの二人のスーパースターはどこか面構えが似ているが、二人とも、一般の人とは明らかに違った雰囲気を身につけている。おそらくそういうペルソナを身につけなければ、常に見られるという環境に精神が耐えられないんじゃないかと僕は推測する。しかしJamiroquaiのボーカリストにはそういうのがない。自分を見てくれ、という感じもないし、この人はよくアメリカ先住民を思わせる鳥の羽根がたくさんついたサンバイザーみたいなものをつけているが、これも目だとうというよりは、自分の顔を隠すためにしているような気もする。歌っている時にけっこう器用に踊るが、それはマイケルジャクソンみたいな本格的なものでもないし、ミックジャガーみたいな自分を誇示する感じでもなくて、自然にちょっと踊ってみました、みたいな感じだ。

 僕はネット環境に接続するようになったこの5年ぐらい、YouTubeでいろんな音楽を聴くようになったが、そこで80年代に流行っていたSadeという、これもイギリスのジャズミュージシャンのライブ映像を好んで聴くようになった。僕は80年代はほとんどSadeは聴かなかったが、YouTubeで見るようになって気付いたのは、この人の音楽は、MVよりもかえってライブ演奏のほうが音がいいことだった。普通は、やっぱりスタジオで作った音のほうが、ライブの音よりはいいものだと思う。いくらでも気に入るまで音を、あとから足したり引いたりできるし、部分的な修正も好きなだけできるし。でもライブのほうが音がいいなんてすごいな、と思っていたら、Jamiroquaiも、そうだった。この人がハイドパークで演奏したVirtual Insanityという曲の演奏は、MVよりはるかにいい音だった。これは80年代よりも、ライブの音が良くなるような技術が発達したとしか思えなかった。80年代にも、稀にすごいいい音のライブをするミュージシャンはいた。僕が知ってる限りでは、カシオペアという日本のフュージョングループと、それと安全地帯。でもたいていはライブの音は、スタジオの音よりも劣化するのが普通だと思っていたけど、このJamiroquaiのライブの音は、ものすごいミュージシャンを使ってるということもあるんだろうけど、たぶん音響技術とか、ライブ独特の演奏技術なども80年代よりも発達してるとしか思えなかった。
 Jamiroquaiは、明らかにすごいミュージシャンを使っているのだが、彼らの音楽で顕著なのは、目だったソロパートが一切ないことだった。ボーカルが歌ってないところでは普通、ギターのソロ、サックスのソロなどですごいテクニックが披露されたりするのだが、それが全然ない。ボーカル自身もきっと大変うまいだろうが、彼らの演奏では、トリッキーなテクニックのひけらかしというのが一切ないし、ミュージシャンたちのスタンドプレーも一切ない。一番目立つのがボーカルの人だが、この人も、鳥の羽根や大きな帽子などをかぶって存在をカモフラージュしてる感じで、着るものもジャージみたいなものを着たりして、あんまり注目を一身に浴びるという感じではない。だからJamiroquaiというバンドは、注目すべき太い線というものが存在しない。マイケルジャクソンだったらムーンウォークをするとか、ストーンズだったらキースリチャーズが長くて味のあるギターソロをするとか、そういうのがないようだ。歌詞に味や内容があるかといったら、全然そういうことはない。悪くはないけど、「すごい歌詞だ」というのはどうも一切ないようだ。
 洗練されて、軽くて、口あたりがよくて、よくこんな線の細い音楽をする人たちがここまで人気があるなあ、と思うが、よく聞くと、80年代に僕が最先端だと感じていた音楽よりももっと進んでる、つまり長調と短調の2つだけの世界からどんどん乖離してジャズの世界の深みに進んでる感じがして、しかもそれを誰でも受け入れられるような音楽にしている。というのが僕が持った感想だった。そしてそういう演出を入念にしているんだと思う。たとえばレッドツェッペリンみたいに気難しくて近寄りがたいという雰囲気は一切なくて、跳ねるリズムで、笑いながら踊ってみせたりして、あたかも昔からあるポップスを爽やかに歌ってるだけですよ、という雰囲気を出しているが、ふと注意して聴いてみると、今でもこういう言葉があるかどうか知らないが、プログレッシブ・ロックという前衛的な音楽としか思えないような曲も実はあったりするけど、それに気付かせない。そういう工夫を入念にしているのではないか。
 従来の「この世」に属してなかった音楽を演奏してみせるぐらいなら、誰でもできる。6歳の子どもが無茶苦茶に歌った歌でも、一般に音楽と思われる秩序を有していないという意味で、「この世」の音楽ではない。あるいは従来の作曲法を熟知したプロの作曲家が、あえてその作曲法を排除して作った音楽も「この世」の音楽ではない。そういう音楽ならいくらでもできるが、問題は、それを一般の人たちと、音楽として共有できるかどうかということだ。20世紀に入ってからのクラシックの音楽は、無調整音楽になったおかげで、わけがわからないものになっていった。クラシック音楽のファンという人は、ベートーヴェンとかモーツァルトとかを聞く。マーラーも聞くしドビュッシーも聞くだろうが、「現代音楽は聴かない」という人が多い。なんかこれは、日本人だけが聞かなくて、西洋の人なら普通に現代音楽も聞いてるのかな、と思ったら、やっぱり普通に「現代音楽は聞かない。嫌いだ」って言うし。要するに、現代音楽も、それはやはりすてきなんだろうけど、一般の人たちを完全においてけぼりにしてきちゃった観がある。ポップスの世界でたとえたら、ツェッペリンとか、おどろおどろしたジャズとか、通の人しか聴かないよ、という音楽で満ち溢れているのが今のクラシックの現代音楽の現状ではないだろうか。でも時代というのは、一般の人たちを巻き込まない時代というのはないと思うので、問題だ。だからポップスの世界で、ビートルズやaikoやJamiroquaiみたいな、「この世」の外にあるものを、「この世」の人に受け入れさせて聞かせてるというのは、意味のあることだ。あと10年か20年もすれば、aikoを音痴だという人もかなり減っていくし、彼女に似た音楽をする人もどんどん出てくるはずだ。

 ところで僕は90年代の初めに流行歌を熱心に追うことはやめた。最近はクラシック音楽を聴くほうがはるかに多くなった。どうしてだろう?と考えてみたが、よく分らない。でも、中年や初老の人間が聴く音楽といったら、流行歌よりもクラシックのほうが、歳相応な感じもする。そのほうが、時間の使い方としても有意義な感じもする。

 たとえば、こんな文章がある。

 信仰において、人間は普遍的な実存となる。もはや孤立化した実存ではなく、意味のある絶対的な実存になる。・・・信仰は、今日、神秘的経験と呼ばれているような呼吸法や、バッハの長時間鑑賞によって得られるものではない。信仰とは、絶望・苦難・苦痛をともなう終わりなき戦いによって、初めて得られるものである。(p293「すでに起こった未来」ドラッカー)

 この文章の当否は知らない。しかしここから察せられるのは、世の人には、バッハを長時間聴くと、なんだか精神の高みに昇っていける、みたいなイメージがあるし、そういうのを目的に聴く人もいるのかもしれない、というイメージ。このドラッカーの文章は、神秘体験みたいなものを目指してバッハなどを聞く人を茶化している感じだが、しかしクラシック音楽の権威たちは実際にそういう感じのことをいくらでも言っている。「神の存在を信じたければ教会じゃなくてモーツァルトの音楽を聴くべきだ」みたいな。たしかバーンスタインやショルティみたいな人たちがそういうようなことを言っている。もっと具体的に、交響曲41番4楽章の何小節目からのフーガみたいなところ、これは神のしわざだという人もいるようだし。たぶん、そういう得がたい体験は、モーツァルトで得られうるのだったら、他のクラシック音楽でもそうかな、みたいな連想なのだろう。しかし流行歌にはそれほどの高みはない、という感じなんだろう。だからいい大人はクラシック音楽を聴くのは絵になるけど、若者が聞くような流行歌を聴くのはさまにならないのだろうか。

 僕がここで考えているのは、「この世」から有効に抜け出して、その外と呼吸をすることだ。それによって俗たる「この世」から聖なるものを覗おう、ということだとりあえずは。
 音楽では「この世」にあたるものが長調と短調の世界だとして、それがジャズ的方向に「この世」が拡張している。aikoまで「この世」の領域まで入ってきているというのはすごいことだ。しかし「この世」が拡張したらどうかといえば、別にどうということもないだろう。ただこの世の秩序が分りにくくなるということだけかもしれないし。しかし「この世」が固定してまったく変わらない、というのよりはましである。100年前からずっと同じ演歌を聞かなければいけない世の中というのは地獄だと思う。「この世」が固定して変わらないというのは、恐ろしいことだと思う。だから、音楽が少しでも変わっていく、新曲が出て、その新曲が昔のとはちょっとでも違う、ほんとに新しい、ということは大事なことだ。それが単に目先を変えたというだけでも。いくら納豆が好きでも一週間ずっと納豆はきつい。やはり変化は必要だ。
 しかし「この世」の変化が、単に気分転換だけの問題だとしたら、人生は単なる暇つぶしと言うのと何が変わりがあろう。
 一つは、感性の世界は理屈ではないので、方程式とか理論で新しい展望を見れるというものではなく、それは、感動、という形で来るしかないだろう。感動、あるいは、理屈ではなく心が動かされ、それによって今まで考えたことのない何かを思ったりすること。
 我々は「この世」に住んでいるので、あまりにもそこからはずれたものはまともに感性では捉えられないだろう。でも、「この世」が基盤になっていて、新たな何かが少しテイストとして盛られていたら、新鮮な驚きとして感じられるだろう。この世のものからあまりにもぶっとんでいたら、理屈で「ああこれは今までになかった音階で作られたのか」と分っても、感性に引っかからないだろう。そういうのは前衛音楽かもしれないが、人の感性に引っかかるまでには長い間かかり、それまでは正当な評価は下せないだろう。
 この文章は長くなりすぎたのでここで終わろう。
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