狩野派 ─画壇を制した眼と手
開催期間 2020年2月11日(火・祝)~3月22日(日)
月曜休館(ただし、2月24日は開館)
展示概要
室町時代から江戸時代まで、400年もの長きにわたって画壇の中心に君臨した画家集団・狩野派。彼らが手がける力強く端正な絵画は、その時々の有力者たちの要求を見事に満たし、ある種の規格として、絶えず安定した価値を保ち続けました。
さまざまな画題を、それにふさわしい手法で描くために、狩野派の画家たちが重視したのは、過去に生み出された中国・朝鮮・日本の絵画に広く臨み、それを模倣することで多彩な図様や技法を習得するという実践的な訓練でした。その作業の蓄積によって、狩野派は実作者としての画技を培ってゆくだけでなく、和漢の絵画史に精通した権威ある識者の顔を期待されるようにもなります。作品の評価を望む所有者たちによって、あらゆる古画が木挽町家を中心とする狩野派の当主たちのもとに持ち込まれ、真贋の判断や筆者の比定が重ねられました。みずからの眼に触れたおびただしい数の古画を写しとどめて手元に置き、その記録を活かして作画にあたること、さらにそれを手本にして後世の弟子たちを教育すること―これが、彼らの堅実な絵事を支え、また流派の血脈を確実に継いでゆくためのシステムでした。
この展覧会の主眼は、当館のコレクションを通じて、狩野派の豊かな絵画世界を紹介することに置かれます。そのための試みのひとつとして、狩野派が間近に接した可能性の高い古今の絵画を、彼らの実作品と同じ空間でとらえます。鑑定と模写による眼と手の記憶が、狩野派の活躍を支える大切な要素となったことを、展覧会場で実感していただければ幸いです。
本展のみどころ
01狩野派の「眼」に注目!
狩野家の絵師たちにとって、過去の様々な絵画に接し、画家や主題を判断することは、絵を描くことと並んで重要な仕事でした。本展では、狩野派の眼に触れた可能性の高い絵画が一堂に会します。流派の多彩な絵画制作とその繁栄を支えた膨大な絵画情報の一端を、彼らが残した「外題」や「添帖」(いわゆる鑑定書)とともにご覧いただけます!
02その絵は模倣か、魔法か?
狩野派の絵画制作は、模写に始まり模写に終わると言われます。本展では、狩野派の作品と彼らが接した原本を並べて展示し、徹底比較します。狩野派の模写技術のなんと高度で、精緻なことか! 彼らの作品は、それを模倣と軽んじることがいかに軽薄な態度であるのかを、強く私たちに訴えかけてきます。
03狩野派が紡いだ「もうひとつの美術史」とは?
和漢の絵画史上に燦然と輝く巨匠たち、夏珪、梁楷、牧谿、舜挙、顔輝、さらに雪舟、雪村──。狩野派の画家たちは、作品にこうした作者の名を与えました。これらのなかには、近代以降の美術史学の厳格主義が「真筆ではない」と排除してきたものも少なくありません。しかし本展では、絵画の知識に精通した当時の権威者による絵画史観が反映されたものととらえます。その社会的・文化的な意義とは…?
04初公開の作品をふんだんに!
本展では、じつに14件もの初公開作品がお目見えします。さらに、過去の公開から10年以上が経過している6件を加えれば、全体の半数近くが、多くの鑑賞者にとって未知の作品となるはずです。これは展覧会開催のために、所蔵作品の調査を重ね、従来見過ごされてきた作品たちに新たな価値を見出した結果です。本展は「コレクションに向き合い、その研究成果を展覧会活動に活かす」という当館の基本的な姿勢をあらためて強調するものとなるでしょう。
展覧会の構成
- 第1章
- 模写の先へ ―狩野探幽「臨画帖」と原図
- 第2章
- 正統をめぐって ―江戸狩野と京狩野
- 第3章
- 古画をみる ―期待される権威の眼
- 第4章
- 万能への道 ―やまと絵のレパートリー
- 第5章
- 鑑定の難題 ―現代へと続く問い
各章の解説
第1章 模写の先へ ―狩野探幽「臨画帖」と原図
狩野探幽(たんゆう 1602 - 74)。江戸時代において、狩野派の立場を盤石なものにした絵師の名です。室町時代から続く狩野家の流派様式に革新をもたらしたことが強調されがちな探幽ですが、彼の絵画制作もまた、ほかの同家の絵師と同じように、徹底的な古画の忠実な模写によって支えられています。和漢の巨匠たちの絵画百図を模写した「臨画帖(りんがじょう)」は、探幽による徹底的な熟視と高度な画技の結晶というべき作品です。ここでは、「臨画帖」に収録された絵画と、その典拠となった古画をあわせてご覧いただきます。
第2章 正統をめぐって ─江戸狩野と京狩野
延宝6年(1679)、父・狩野山雪(さんせつ 1590 - 1651)の草稿をもとに狩野永納(えいのう 1631 - 97)が編んだ『本朝画史』は、「狩野探幽によって、同家の画風が一変した」と述べています。これは探幽への賛辞にも聞こえますが、その裏には、京都に根づいた自分たちの画風こそが、狩野家の正統を受け継ぐものだという自負があったことが窺われます。瀟洒淡麗な画趣を打ち出した江戸狩野と、濃密で重厚な表現を墨守した京狩野──。ふたつの画風は明快なコントラストを示しますが、どちらも伝統といかにして向き合うかという、狩野派が直面し続けた重要かつ根本的な問題を、見るものに訴えかけます
第3章 古画をみる ―期待される権威の眼
過去の様々な絵画に臨み、その作者や主題を判断すること。これは、狩野派の画家たちにとって、絵を描くことと並んで重要な仕事でした。ここでは、狩野家のもとに数多く持ち込まれた和漢の絵画を、同家によって発行された外題と添帖(いわゆる鑑定書)とともに紹介します。評価を望む作品の所有者たちからすれば、権威によってその質が保証される一方、狩野家にしてみれば膨大な数の絵画に接しながら、必要に応じてそれを模写し、肥やした画嚢(がのう)をその後の実制作に活かすことができます。相互の実益によって成り立つ関係が、武家を中心とする江戸時代の美術界を支えました。
第4章 万能への道 ―やまと絵のレパートリー
狩野家の本領は、その誕生以来、中国に由来する絵画、すなわち「漢画」について知識を深め、それを実際の絵画制作に活かすことに発揮されてきたといえます。ただし、二代・元信(もとのぶ 1477 - 1559)の頃には、早くもそのレパートリーを「やまと絵」の領域へと広げ、和漢の双方でその存在感を強めてゆきます。そして、この躍進を支えたのもまた過去の絵画をみる眼でした。この国で親しまれてきた物語や自然の豊かさを、流麗な筆致で優美に描き出した狩野派の洞察は、やまと絵の領域にも深く注がれています。
第5章 鑑定の難題─現代へと続く問い
中国・朝鮮・日本の絵画に幅広く触れた狩野派は、鑑定の際それぞれの作品に対してほぼ確実に、特定の筆者の名を与えてゆきました。もちろん、その筆者伝承のなかには、近代美術史学の厳格主義(リゴリズム)が「真筆にあらず」として排除してきたものも少なくありません。ただし、少なくとも江戸時代においては、狩野家こそが完全無欠で万能の鑑定者であったわけです。彼らの「誤解」は、東アジア絵画の、多様で豊かな歴史の一断面を甦らせるひとつの手がかりになります。