なぜいま社会契約なのか:水野祐が考える新しい社会契約〔あるいはそれに変わる何か〕序章

法律や契約とは一見、何の関係もないように思える個別の事象から「社会契約」あるいはそのオルタナティヴを思索する、法律家・水野祐による新連載。その初回では、他者を含む社会を信頼するための基盤からリデザインせよという本連載の(壮大な)射程が提示された。(雑誌『WIRED』日本版Vol.35より転載)

ILLUSTRATION BY HARUNA KAWAI

テクノロジーが分断や対立、格差、ひいては地球規模の環境問題を助長している、あるいはそのように感じられるのは、わたしたちがテクノロジーの進歩に合わせて適切なルールや制度を設計し、それを適切なかたちで社会に実装できていないからである。

「電子国家」として有名なエストニアの大統領ケルスティ・カリユライドは、「デジタル国家はテクノロジーではなく、その周りに丁寧に起案された法体系である」と話したという。

この言葉は、テクノロジーの社会実装には法制度の設計を含むルールメイキングが不可欠であるばかりでなく、ほぼそのものであることを端的に、そして美しく表現している。

2017年、マーク・ザッカーバーグは母校であるハーヴァード大学の卒業式スピーチにおいて、「わたしたちの世代が新しい社会契約のかたちを定義する時が来た」と話した。

そして、人々に公平な機会を与えるために、ユニヴァーサル・ベーシックインカム、育児・ヘルスケア、教育などの諸制度の改革、ローカルコミュニティと地球全体をつなぐ国家間のコミュニティの2つを再構築する必要がある、と述べた。

ザッカーバーグのような億万長者が公平について語ることの欺瞞を差し置いても、彼が社会問題の解決にあたって社会契約に言及したことにあらためて注目したい。フェイスブックこそが分断を助長するツールになっているという糾弾を勘案すれば、なおさらであろう。

例えば、フェイスブックが開発を進めているステーブルコイン「リブラ(Libra)」が、前述のザッカーバーグの発言に呼応していることは明らかであるが、リブラはどのような新しい社会契約を描いているのだろうか。

社会契約とは、わたしたちが生まれながらにして、「この社会を信頼し、社会が決めた制度やルールの下で生きていきますよ」という「契約」にサインすることである(という設定になっている)。

しかし、そもそもどんなルールにサインしているのかわからない、ルールに意見が言えない、貧富により適用されるルールが異なる、すでに時代遅れになったルールにいつまでも拘束される……このような疑念が、近年のルール、制度、そして社会に対する強く深い不信につながっている。

社会契約といえば、「社会契約論」と呼ばれるホッブズ、ヒューム、ロック、ルソーからロールズに連なる難解な哲学的アプローチが繰り拡げられることがほとんどだが、わたしはあえて別のアプローチをとりたい。

それは、わたしたちが日々行なっている法律や契約の設計あるいは解釈といった、多種多様な「法のデザイン」の集積が新しい社会契約を構成するのではないか、という仮説である。

いわば、「小さな契約」から「大きな契約」たる社会契約を、ボトムアップかつ根源的に問い直すアプローチである。法律や契約の設計や解釈というと法律家の専権だと捉えられがちだが、社会契約においてより重要な視点は、日々の生活やビジネスのなかで交わす、法律や契約とは一見関係がないようにみえる非法律家による無数の創造や知的営為のなかにこそ、「小さな契約」の萌芽があるということである。

一方で、ブロックチェーンを含む高度な分散台帳/暗号技術や、自律的な人工知能を前提とした「人間中心主義」の次の時代を射程に入れると、他者を含む社会(制度)を信頼するための説明を「契約」という法的な概念で説明することや、そもそも人間が生み出した人工物たるルールや制度を「信頼」すること自体が、もはや必然ではない。

わたしたちは地球規模の分断や格差が進んだ現代において、いかに社会、国家、地域、企業、コミュニティ、家族、他者、そして自分自身を信頼し、いかなる制度やルールの下で生きるのか。

本連載では、社会契約とは何の関係もないようにみえる個別の事象から、未来を描くための新しい社会契約、あるいはそれに代わる何かについて、本誌の特集と呼応しながら漂考してみたい。

水野 祐|TASUKU MIZUNO
法律家。弁護士(シティライツ法律事務所)。Creative Commons Japan理事。Arts and Law理事。東京大学大学院人文社会系研究科・慶應義塾大学SFC非常勤講師。リーガルデザイン・ラボ主宰。グッドデザイン賞審査員。著作に『法のデザイン -創造性とイノベーションは法によって加速する』など。Twitter:@TasukuMizuno なお、本連載の補遺についてはhttps://note.com/tasukumizunoをご参照されたい。

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映画『パラサイト』が作品賞を受賞しても、アカデミー賞の変革は望めない

2020年のアカデミー賞は、韓国映画『パラサイト 半地下の家族』が作品賞など4部門で受賞した。この勝利は1世紀に及ぶアカデミー賞の“怠慢”に終止符を打つものだが、政治色が濃かった今年の授賞式の様子とその結果からは、アカデミーに真に必要とされている変革は期待できないのではないか──。映画批評家のリチャード・ブロディによるアカデミー賞の総括。

TEXT BY RICHARD BRODY
TRANSLATION BY CHIHIRO OKA

New Yorker

Bong Joon-ho

KEVIN WINTER/GETTY IMAGES

アカデミー賞授賞式のクライマックスから話を始めよう。今年のオスカーでは、韓国映画『パラサイト 半地下の家族』が作品賞を受賞した。外国語の映画が最高の栄誉に輝くのは、1929年にアカデミー賞が始まってから初めてだ。

誰もがそろそろだろうと感じていた動きで、わたし個人としては、昨年にアルフォンソ・キュアロンの『ROMA/ローマ』が作品賞をとるだろうと考えていた。一方で、今年は『1917 命をかけた伝令』が勝つだろうと思っていたので驚いたが、ポン・ジュノ監督の『パラサイト』のほうがはるかに優れた映画なので、予想が外れてうれしい。

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『パラサイト』の勝利は、実に1世紀に及ぶアカデミー賞の怠慢に終止符を打つものだ(例えば、1973年にはイングマール・ベルイマンの『叫びとささやき』が、こともあろうに『スティング』に破れている)。

多様性の欠如と差別

今年の授賞式は冒頭から政治色を帯びていた。ただ、政治的な発言をするプレゼンテーターや受賞者が目立つなかで、わたしが特に強い印象を受けたのはスピーチではなく歌だった。授賞式はジャネール・モネイの歌う教育番組「Mister Rogers’ Neighborhood」の主題歌で幕を開けた。

モネイは番組の司会者だったフレッド・ロジャースのように、ステージに用意されたセットでジャケットを脱いでカーディガンを羽織り、白人ばかりの観客席やテレビで授賞式を見ている人たちに向かって「お隣さんになってくれないかな(Won’t you be my neighbor?)」と歌いかける。

モネイの歌声は、これまで誰も問題にせず、また変革の気配も見られなかった差別という問題を浮き彫りにした。これはアカデミー賞やハリウッドのセレブリティーを越えて、社会全体に広がっている。

続いてステージに立ったスティーヴ・マーティンとクリス・ロックが指摘したように、今年の黒人俳優のノミネートは1人(『ハリエット』のシンシア・エリヴォ)だけ。女性監督にいたっては皆無だった。

ノミネート一覧における多様性の欠如は明白だが、同時にインクルージョンの尊重というわざとらしい努力もあざといほどだった。アントニオ・バンデラスが主演男優賞の候補に入ったことや、マーティン・スコセッシの『アイリッシュマン』が作品賞をはじめ10部門でノミネートされたこと、また『Hair Love』が短編アニメ映画賞を受賞したことなどが、具体例として挙げられるだろう。

スピーチが象徴すること

とんでもない悪政、憎悪の拡散、権力の濫用、富める者による搾取といったことが常態化している状況では、政治に対する怒りが爆発するのは当然だ。そして今年のオスカーで映画芸術科学アカデミーの会員たちは、授賞式で起きた数々のできごととそれがもたらした結果という両面から、米国の悲惨な現状において自分たちが果たしている象徴的な役割という厳しい事実を突きつけられることになった。

助演男優賞を受賞したブラッド・ピットは、スピーチ時間は45秒だと言われたが、大統領の弾劾裁判でジョン・ボルトンが与えられた時間と比べれば45秒も長いと発言し、上院がボルトンの証人喚問を拒否したことを皮肉った。『アメリカン・ファクトリー』で長編ドキュメンタリー映画賞を手にした偉大なる映画人ジュリア・ライカートは、「万国の労働者が団結」しなければ人々の生活は改善しないと述べている。

『ジョジョ・ラビット』を監督したタイカ・ワイティティは、会場のドルビー・シアターが立つ場所にかつて住んでいた先住民たちを称えた。そして、作曲賞のプレゼンターを務めたガル・ガドット、シガニー・ウィーバー、ブリー・ラーソンの3人は、ハリウッドで女性が直面するさまざまな困難について冗談を交えながらも真剣に語っていた。

こうしたなか、最も奇妙だったのは『ジョーカー』で主演男優賞を受賞したホアキン・フェニックスのスピーチだろう。『ジョーカー』を擁護する人たちは、この映画を不公平さと抑圧された階級の怒り、精神の病、そして医療制度を巡る有意義な意見表明として評価している。フェニックスのスピーチは人種差別と性差別、人類が自然を破壊しているという問題提起で始まった。

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続けて環境破壊の話になるのだろうと期待していたが、彼は乳牛がいかに悲惨に扱われているかについて詳細に語ることを選んだ。ヴィーガンのフェニックスにとっては、人種的偏見や男女格差、自らの居場所であるハリウッドだけでなく国全体をもむしばむ権力の濫用よりも、この話題のほうが重要だったようだ。

誠実で情熱的でさえある作品

『パラサイト』の勝利はパラドックスでもある。個人的には、この映画は作品賞にノミネートされた映画の一部(『1917 命をかけた伝令』『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』『ジョジョ・ラビット』)よりは優れているが、特に素晴らしいもの(『アイリッシュマン』『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』『マリッジ・ストーリー』)にはかなわないと思っている。

昨年秋の公開時に観たときには、非常にうまく考えられた構成とわかりやすい美学で視覚化された物語だけでなく、強力でシンプルな社会的および政治的象徴性にうならされた。金持ちと貧乏人の生活の鮮やかな対比は、それを描き出すための理論をはるかに超える非常に強いインパクトをもっていた。この映画は誠実で情熱的でさえあり、その品質は批評家が作品に見出そうとするメッセージと完璧に一致する。

アカデミーの会員たちも、この見方に合意したようだ。映画業界と批評家たちが大筋で互いに同意するのはこれが初めてではなく、例えば3年前には『ムーンライト』の作品賞受賞があった。

ただ『ムーンライト』が今年勝利を手にすることができるかと言えば、それは難しいだろう。この映画の複雑さと、そこで描かれた問題は結局は何も解決しないというあらすじが、受賞の障害になるのではないだろうか。

果たしてこれは真の変革の兆しなのか?

今年のオスカーに関して言えば、善という美徳のために最高の作品が正当に評価されなかった。『アイリッシュマン』は10部門でノミネートされながらも、ふたを開けてみるとすべての部門で受賞を逃している。なお『パラサイト』監督のポン・ジュノは、監督賞受賞のスピーチでスコセッシを憧れの監督であると称え、スコセッシはこれに応えることで会場からスタンディングオベーションを受けた。

スコセッシは『ウルフ・オブ・ウォールストリート』でも5部門でノミネートされたが、やはりひとつも受賞しなかった。彼はすでに“古典”という領域に区分されているようだ。シェークスピアのようなもので、素晴らしいということは誰もが受け入れるが、実際に読もうとする人はほとんどいない。

わたしは『アイリッシュマン』は『パラサイト』よりもラディカルな政治映画だと思う。ただポンの勝利については、これが1回限りの例外ではなく、世界のさまざまな国の作品が幅広く認知されることにつながるよう祈っている。アカデミーにはこの先も、これまでは見落とされていた映画に注目してほしい。

今年は女性が主役の『ストーリー・オブ・マイライフ』と『スキャンダル』がいくつかの部門でノミネートされたが、それぞれ衣裳デザイン賞とメイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞するにとどまった。まるでアカデミーが暗黙の(そして恐らくは無意識の)うちに、女性を中心に据えた映画がどのような点で評価されるべきだと考えているかを語っているかのようだ。

わたしが優れた作品の勝利に満足すると同時に、『パラサイト』の受賞はただのジェスチャーであり、真に必要とされている変革の兆しではないかもしれないという懸念を抱いているのはこのためだ。

リチャード・ブロディ|RICHARD BRODY
映画批評家。1999年から『ニューヨーカー』に映画のレヴューなどを寄稿。特にフランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、ウェス・アンダーソンに詳しい。著書に『Everything Is Cinema: The Working Life of Jean-Luc Godard』など。

※『WIRED』による映画レヴュー記事はこちら

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