帰らなかった日本人兵士

投稿日:2013-10-22 - 投稿者(文責):mumeijin

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10月16日、一人のインドネシア人が首都ジャカルタの病院で九十三年の生を全うした。

男性の名はウマル・ハルトノ、日本名 宮原永治、台湾名 李柏青

大正十一年(1922)、宮原氏は日本統治下時代の台湾に生まれた。軍人であった宮原氏は支那、フィリピンを経て敗戦をインドネシア・ジャワ島で迎えている。多くが祖国に復員するなか、そのままインドネシアに留まった。日本軍が連合国軍に降伏した後、同国を再植民地化するために英軍その後にオランダ軍が戻ってきた。そしてインドネシア独立派は祖国独立を賭けてこれに挑んだ。彼らは武器不足、戦闘経験不足から日本軍を恃みとし、それを見かねた一部の日本軍兵士が軍籍を離脱しインドネシアに残留した。その数二千名ともいわれる。宮原氏はその中の一人であった。

こうしたインドネシア独立戦争日本人義勇兵のひとりで、オランダ軍との戦闘で負傷したラフマットこと小野 盛(おの しげる)氏(九十五歳)はその時の事を次のように語っている。
「独立戦争が始まって日本軍の応援が欲しいというインドネシアの人達が大勢やって来た。日本軍から軍事教練の基礎は受けたが(*1)、実践の経験がない。経験豊富なあなた方に是非にというのです。それで私も勧誘され、インドネシア独立勢力に加わった」

小野氏は戦闘により左腕の肘から先を失ったが、インドネシア独立戦争(*2)で残留日本軍人二千人のうち半数の一千人がオランダ軍との戦闘で戦死したという。

宮原永治氏はインドネシア残留を決意した理由をこう語っている。
「自分がインドネシアに来たのは、インドネシアを独立させるためです。それは自分の責任に於いて最後まで完遂させなければならないと思ったからだ」また「連合軍の反攻を免れたジャワ島では、日本が負けたという実感は無かった。台湾出身の私は、敵として戦った国民党のいる台湾に帰ったら処刑されると思った」とも。大東亜共栄圏の理念をインドネシアで実現しようという理想と、戦犯追及という現実的な惧れを胸に抱いてのインドネシア残留ということだろうか。

今年七月に公開された酒井充子監督『台湾アイデンティティー』のなかで、「何国人として死ぬのですか」という少々不躾にも思える質問に対し、宮原氏は「インドネシア人」と語っていた(1961年、宮原永治氏はインドネシア国籍を取得)。また生まれ故郷の台湾は長期の戒厳令下であったが1974年に一度だけ里帰りを果たすことが出来たという。当時の台湾では日本帰りの台湾人や元日本兵は逮捕、拘束の可能性が有ったうえ、宮原氏によるとビルマで中国国民党軍と交戦していた事もあり、人眼を避けた家族との再会であったという。2005年、インドネシア建国六十周年記念式典においてユドヨノ大統領から建国の英雄勲章を授与されている。

宮原永治(ウマル・ハルトノ)氏の葬儀は17日午前、南ジャカルタのカリバタ英雄墓地で執り行われたという事である。これはインドネシアでは最高の敬意を表すものとされている。

宮原永治氏亡き後のインドネシア元残留日本兵は小野 盛氏唯一人となった。

平成十九年八月二十一日
平成十九年(2007)八月二十一日
インドネシア・インド・マレーシア訪問中の安部総理がカリバタ英雄墓地にて献花を行っている。
中央が宮原永治氏


(*1)日本軍政下インドネシアで設置されたインドネシア人による初の軍事組織「祖国防衛義勇軍(PETA)」を指す。PETA隊員は最終的に三万八千名。独立戦争の主力となり、その後創設されるインドネシア国軍に多くの人材を輩出した。インドネシア共和国第二代大統領スハルトはPETA出身者となる。

(*2)1945年から1949年までのインドネシア独立戦争で、八十万人といわれるインドネシア人が犠牲となっている。そして台湾と同じくインドネシアは東南アジア有数の親日国家であり、世界最大のイスラム教国家である。


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