「ちゃんと」に縛られる日本の研究者たち
私は研究者として日本で数年キャリアを積んだ後、8年程前にアメリカに渡り海外(欧米)でキャリアを築いているが、私自身が研究者として海外にとどまる主な理由の一つもまた日本の「submissive」な部分への違和感にある。
まず、私が違和感を覚える日本の研究業界における代表的な「submissive」な要素の一つが、「同調圧力」である。
例えば、日本の研究業界(自然科学)では、「何をやるか」よりも「ちゃんとしているか」への意識が強く、この点を皆が牽制し合うような空気がある。会議等での研究発表の際にも、研究内容についてではなく発表に出てきた知識を本人が正しく理解しているかを確認するような質問がなされることが多い。
もちろん仕事をする上で「ちゃんとしている」ことは大事である。しかし、「ちゃんとしている」とはどのような状態を指すのか、その解釈は個々によって違っていい。私が窮屈に感じているのは、日本では、「ちゃんとしている人とはこうあるべき」と画一的な理想像が押し付けられてしまう点だ。そしてそんな画一的な「ちゃんと」に縛られ、いかに有意義なアウトプットを出すかといった核心部分がおざなりにされる傾向にある。
「上下関係」における不必要な抑圧
また、日本の「submissive」な文化は「上下関係」においても不必要な抑圧を生んでいる。
経験を積んだ人が自身の経験を若い世代に伝えることはもちろん大切である。しかし日本ではこれを「経験や実績を積んだ人には従わなければならない」と解釈してしまう場合がある。
こういったいわゆる権威主義は、業界全体を古い価値観に縛ってしまう危険がある。研究業界で言えば、例えば、研究費申請などの審査において、申請内容よりも申請者の役職や実績が重視される傾向があり、分野を切り開くような新しい研究が生まれる機会が奪われてしまっている。
このような権威に従う「submissive」な傾向は、研究業界に限った話ではなく、様々な業界においても聞かれる。
私たち家族は現在オーストリアに住んでいるのだが、先日、こちらで活躍する日本人のピアノ技師に「こちらに来たのは音楽に関してオーストリアのレベルが高いからですか?」と聞いたところ、「それもあるけど、師弟関係だったり上下意識が強すぎる日本が嫌で」との答えが返ってきた。
このように「submissive」な文化が行き過ぎると、古い価値観からの脱却が難しくなるばかりでなく、その抑圧から逃れるために日本を離れる決断をする人が増えることにも繋がる。