ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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国連・北朝鮮人権調査委員会の報告書にある全巨里教化所の衝撃的なイラストについて

2014-02-28 23:56:37 | 北朝鮮のもろもろ
 すでに各メディアで報道されているように、昨年8月から北朝鮮の人権状況を調べていた国連人権理事会の調査委員会が、2月17日報告書を公表しました。
 その内容は北朝鮮の人権侵害行為を「人道に対する罪」と断定したもので、さらに罪を裁くため国際刑事裁判所(ICC)に付託するよう国連安全保障理事会に勧告しました。

 その報告書<Report of the Commission of Inquiry on Human Rights in the Democratic People's Republic of Korea>は→コチラからダウンロードすることができます。
 リンク先の最初にある<Report>のリスト上段は36ページの概要版、下段は372ページの詳細報告書です。ただ、前者は英・仏・スペイン・露・中・アラビア語の6ヵ国語、後者は英語だけなので、ふつうの日本人(ヌルボも含む)にとっては読むのがシンドイところです。

 ・・・ということで私ヌルボ、リンク先のページをなんとなくスクロールしていくと、最下段にあったのが8枚のイラスト。
 おぞましい拷問や、収容者の悲惨なようす等が描かれたものです。

 とりあえずは見てみてください。
  ※ハングルが読みづらいので、訳し間違いがあるかもしれません。

   
         비둘기고문(鳩拷問)。

    
        기중기(起重機)、비행기날기(飛行機飛び)、오토마이(オートバイ)        
        この姿勢をずっと続けさせる。苛酷な拷問に耐えかねて、やってもいない「罪」を認めてしまうのです。



   
       구류장 입방(拘留場入房)
       こんな狭い所から蹴り込むのか!? 犬の穴(개구멍)というのがこれ?


   
       굶주림이 뱀 쥐를 잡아먹는다(空腹がヘビ、ネズミを捕って食う)
       収容所では、ヘビやネズミもごちそう(별식)なのだそうです。


   
            펌프 고문(ポンプ拷問)
        앉다가 서다를 수백번 시킨다(座って、立つを数百回やらせる)


   
          시체보관실(屍体保管所)
       시체들는 쥐들이 눈,코,귀,발가락을 먹어취는다(屍体はネズミが目、鼻、耳、足の指を食う)



 
      시체들을 화장터(불망산)으로 가져간다(屍体を火葬場(プルマン山)へ持っていく)
      これだけ死が日常化していると、人が死ぬことをなんとも思わなくなるとか・・・。


   
         독방처벌 독감방에서“쥐”잡이(独房処罰 独監房で“ネズミ”捕り)

 上記の詳細報告書に書かれている説明文を見ると、この絵は会寧保安所拘留場と、全巨里(전거리.チョンゴリ)教化所のようすを描いたもので、描いた人はキム・グァンイル(김광일)さん、・・・かなと思ったのですが、→コチラや→コチラの記事(韓国語)を見るとクォン・ヒョジン(권효진)さんという脱北者の芸術家が描いた絵のようですね。2000年2月~2007年2月の7年間北朝鮮の北東端に位置する会寧市の全巨里教化所に収監されていて、その後脱北し2009年に韓国に来た人です。
 その絵を、同じ教化所に2年半収監されて、やはり脱北して2009年に韓国に入ったキム・グァンイルさんが聞き取り調査の際説明に用いた、と理解するのが正しいようですが・・・。(おって確認してみます。)

 この全巨里教化所については、韓国書を翻訳した「北朝鮮全巨里教化所」という本(下の画像)が北朝鮮難民救援基金から発行されています。(この本については後日記事にするかも・・・。)

       

 全巨里あるいは전거리で画像検索すると、いろいろおぞましい画像がヒットします。(→コチラや→コチラ。)

 また、YouTubeに動画があったので載せておきますが、あまりにショッキングな映像が次々に出てくるので注意してください。

   

 YouTubeにあるYTNの関連番組(22分32秒.韓国語)は→コチラ

 今回の報告書の公表でようやく北朝鮮の人権問題の数々が世界でかなり広く知られるようになりましたが、強制収容所の実態にしても日本人の拉致問題にしても、決して今回初めて明るみに出たわけではありません。むしろ、なぜ今までそんなに大きな問題とされてこなかったのかということを考えると、東アジアの政治的・軍事的安定を優先してきた韓国・中国・日本・アメリカ・ロシア等の責任も決して小さいものではないと思います。
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北朝鮮の地獄のような強制収容所から脱出したシン・ドンヒョクさんの話を聞きに行く

2014-02-11 11:10:49 | 北朝鮮のもろもろ
 1月28日(火)の夜(18:30~19:30)、北朝鮮の強制収容所から脱出した申東赫(シン・ドンヒョク)さんの話を聞くという催しに行ってきました。会場は参議院議員会館です。

 北朝鮮の強制収容所といっても<革命化区域><完全統制区域>の2種類あって、前者は一定期間を経て審査が通れば(ワイロを効かせれば)出所できるのですが、後者は死ぬまで収容される終身収容所です。
 申東赫さんは、その後者の収容所から脱出した唯一の人物です。それも収容所で生まれて、脱出した23歳までの地獄のような生活を経て・・・。
 ※その場所は平安南道价川(ケチョン)の第14号管理所。北朝鮮の強制収容所については、ウィキペディア(→コチラ)にかなり詳しく記されています。

 私ヌルボ、以前彼が書いた「収容所に生まれた僕は愛を知らない」というとても衝撃的な本を読みました。彼とこの本については、過去記事(→コチラや、→コチラ)で書いたことがありますが、彼の想像を絶するような体験は、次の記事に詳細に記されています。

▶<e-Story Post> 「北朝鮮の強制収容所で生まれ育った脱北者が明かす、地獄のような牢獄生活」
▶三浦小太郎(北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会代表) 「政治犯収容所で政治犯として生まれた私 (シン・ドンヒョク)」

 2008年以来2度目という彼の今回の来日は、3月1日から渋谷ユーロスペース等で公開されるフランスのドキュメンタリー映画「北朝鮮強制収容所に生まれて」の紹介・アピールが主目的ですが、25日~29日(かな?)の間明治大学での試写会&トーク等の催しのほか、多くのマスコミの取材があったりという過密スケジュールで、28日夜は相当お疲れのようすでした。

 で、やっとその28日夜の催しの報告です。
 最初の有田芳生参議院議員や北朝鮮難民救援基金の加藤博さんの話も含めて1時間という限られた時間で、申東赫さん自身の話は正味15分くらい。あまり具体的な話はなく、残り15分くらいが質問にあてられました。

 加藤博さんの話では、まず上述のような政治犯収容所の概要や、12号・13号・26号の各管理所(収容所)が秘密が露見したため閉鎖されたこと、咸鏡北道の11号管理所は「金日成の別荘を建てるため閉鎖されたこと等が説明されました。
 管理所はとても広大で、行政区画でいえば道の下の郡が丸々相当するほどとのこと。
 ※後で調べたら、咸鏡北道化成(ファソン)郡の第16号収容所は面積約560km²。ソウル市(605.2km²)や東京23区の面積(621km²)にも迫るほどの広さで、そこに約2万人が収容されているとみられているそうです。(2011年時点)
 14号(价川)や15号(耀徳.ヨドク)等の管理所は山奥の谷間に立地していて、そのさらに奥にはダムがある。そして北朝鮮の体制崩壊というような危機の際は、ダムを破壊して管理所全体を水没させ、証拠を隠滅をするということです。(この話は、一昨年12月の小川晴久先生の著書「北朝鮮いまだ存在する北朝鮮強制収容所」の出版記念講演会の時に<NO FENCE>事務局長の宋允復(ソン・ユンボク)さんから初めて聞きました。)
 また、北朝鮮の人権侵害状況を調べる国連調査委員会は、昨年申東赫さんや安明哲さん等から聞いた証言をもとに今年3月に報告書を提出し、10月に総会にかけられるとのことでした。(この件についての関連情報は→コチラ。)

 申東赫さんは、今回の来日で横田さん夫妻と会って、日本にも拉致された人が大勢いることを知ったと語りました。韓国の拉致被害者家族に対して韓国政府は無関心で、支援もないことと比べると、日本の政府や世論は国際社会にアピールしていますが、そのような努力ににもかかわらず解決されないまま迷路にはまっているようなので、もっと強い力をかけていかなければ・・・とも。
 「強制収容所の収容者も拉致被害者も、北朝鮮の独裁者によって受けた苦痛はまったく同じなので、思いを共有することができる」という彼の言葉には、私ヌルボももちろん深く共感しました。
 ただ、「北朝鮮の政権は、対話を通じて問題を解決できるようなものではありません。国際社会は無駄に時間を浪費しているようで、いらだちを覚えます」という発言については、たとえば韓国の進歩陣営や日本の人権派の中では「あくまでも対話重視」という人が多いと思います。(私ヌルボも人権派のはずなんですけど・・・。)

 集会参加者は主催者・関係者等含めて約40人。その会場からの質問で個人的にウンザリしたのは、「収容所でどんな拷問を受けたのですか?」とか「どのようにして脱出したのですか?」というような、本を読まなくても事前にちょっとネット検索をすればわかるような基本事項を質問した人がいたこと。(どちらの質問も同じ人。) それまでの取材の新聞記者の中にもそんな人がいたそうですけど・・・。またその中で「疲れさせるような質問」(母や兄の処刑に関する質問だったようです。)をする人もいたようです。
 ドキュメンタリー映画や、申東赫さんの本の韓国での反応は?・・・という質問の答えは、案の定一言でいえば「無関心」といったものでした。
 今回の映画は韓国では上映されず、前記の著書「収容所に生まれた僕は愛を知らない」日本では1万部売れたそうですが、韓国では3000部印刷して売れたのがわずか500部だったとは!
 その後2012年にアメリカ人ジャーナリストのブレイン・ハーデン氏が彼のインタビューをもとにを刊行した「ESCAPE FROM CAMP 14」(もちろん英語)は25ヵ国で読まれ、大きな反響があって、表彰されたりもしたそうです。
 ※昨年5月の<VOA>の記事(→コチラ.韓国語)によると、スイス・ジュネーブにある国際国連監視機構のUN WATCHから<2013年MORAL COURAGE AWARD>(モラルの勇気賞)を受賞しています。

 「将来の希望は?」という質問に対して、彼の答えは「収容所の地も自然だけは美しかった。星も美しかった。その場所で静かに暮らしたい」というもの。また自ら「(血液型A型のとおりに?)もともと用心深く気が小さい」と語る性格のとおりに、穏やかな感じの、ふつうにどこでもよく見かけるような青年で、私ヌルボとしてはなんとなく少し救われたような気持ちになりました。
 ※「強制収容所で生まれたシン・ドンヒョクさん、自由や家族という言葉は最近まで知らなかった」と題した<シネマトゥデイ>の1月27日の記事(→コチラ)でも同様のことが記されていました。また次のようなことも・・・。

 脱走後、もっとも衝撃を受けたのは、収容所の外の北朝鮮の普通の人たちの暮らしを見たときだったという。「収容所のすぐ外に、好きなものを食べ自由に語り合い、警察に恐怖を感じない世界があった、ということが信じられなかった」とシンさん。

 1月28日の集会については以上ですが、その後「ESCAPE FROM CAMP 14」の日本語訳「14号管理所からの脱出」を読んでみました。
 管理所での体験の部分は「収容所に生まれた僕は愛を知らない」とほぼ同じですが、母と兄の処刑に至る経緯については、ハーデン氏が彼から直接聞いた驚くべき「新事実」が書かれています。
 また、とくにこの本で興味深いのは、収容所を脱出した後がいろいろ書かれていること。北朝鮮領内から中国への脱出、中国での生活、偶然に上海領事館を経て韓国へ、韓国社会での違和感と適応の困難、アメリカでの生活まで。
 すでに2万人を超える韓国内の脱北者が北で受けてきた教育や、そこでの常識といったものがほとんど南では役に立たないどころか障害になり、またそれが感情面や人間関係においても問題を生じることも具体例があげられています。まして彼の場合は北の中でも「特殊」な所だからなおさらです。

     
  【500部しか売れなかったという申東赫の韓国版の著書「世の中の外に出て来る 北韓政治犯収容所 完全統制区域】

※脱出後して韓国に来てからの彼について、韓国紙「中央日報」(日本語版)に詳しい記事がありました。
 →北朝鮮収容所、肉体的拷問より残酷な「表彰結婚」(2012年2月29日)
 →“北朝鮮の政治収容所生まれ”シン・ドンヒョク氏の半生を綴った本が25カ国で出版(2013年5月3日)

※<残虐な人権侵害-決して見逃さない>というブログに、韓国での状況や国連の対応等が記されています。
 → “北朝鮮の政治収容所生まれ”シン・ドンヒョク氏が嘆く 韓国での北朝鮮人権問題の関心の低さ(2013年5月4日)
 →北朝鮮の人権問題の突破口になるか “北朝鮮の政治収容所生まれ”シン・ドンヒョク氏が期待する国連事実調査委員会(2013年5月15日)
 →当事国である韓国の北朝鮮人権問題の世論の関心の低さに国連北朝鮮人権委員会委員長が怒りを表す(2013年8月27日)

※加藤博さんのテーブル上に「北韓人権白書2010」の日本語版が置かれていました。
 「北韓人権白書」は韓国の統一研究院が毎年出しているもので、最新版(韓国語.2013年版)は→コチラで直接ダウンロードできます。英語版は→コチラから。
 ただ、日本語版は2010年版以降は出ていません。しかし、大きくは変わっていないようです。
 この「北韓人権白書2010」は、<北朝鮮難民救援基金>(→公式サイト)中の→コチラのページ(の右上)
からPDFファイルでダウンロードすることができます。(E-bookとして読むこともできる。)
    
        【「北韓人権白書2010」(日本語版)の目次】

    
  【「北韓人権白書2010」(日本語版)中の公開処刑に関する記事。あまりのひどさに言葉を失う。】

※2月4日(火)「産経新聞」<きょうの人>に、申東赫さんがとりあげられていました。→コチラ

☆<アムネスティ>のサイトから ・映画「北朝鮮強制収容所に生まれて」の紹介記事は→コチラ
 ・「朝鮮民主主義人民共和国で、不当に拘禁されている人びとを救う!」ハガキ書きアクション等については→コチラ
 ・「朝鮮民主主義人民共和国:衛星画像が語る収容所の抑圧」→コチラ
 ・「衛星画像が示す抑圧施設の拡大(2013年12月.アムネスティ・インターナショナル報告書)」(PDF)→コチラ
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北朝鮮の体制を真っ向から批判したモンゴルのエルベグドルジ大統領の講演に注目

2013-12-16 17:49:04 | 北朝鮮のもろもろ
 10月31日、平壌の金日成総合大学の講義室で、モンゴルのエルベグドルジ大統領が平壌の金日成総合大学で注目すべき特別講演を行ったことは、11月16日の韓国の各メディアで報道され、また日本でも伝えられました。
 その内容というのが、北朝鮮の体制や核問題について真っ向から批判するものでした。

 私ヌルボ、この情報を知ったのが遅かったので今までブログには載せませんでしたが、その後北朝鮮での張成沢処刑事件等々が伝えられる中で、やはりこのエルベグドルジ大統領の講演の意義を再確認しよう、という意味で関係記事を整理する形でまとめてみました。

 韓国メディアでこのニュースを詳しく伝えているのは「中央日報(日本語版)」(→コチラ)と「朝鮮日報(日本語版)」(→コチラコチラ)です。

 講演の具体的内容について北朝鮮のメディアは報道しませんでしたが、半月後の11月15日講演の動画と英語の講演内容全文がモンゴル大統領室のホームページで公開(英文)され、報道されるに至ったということです。
 ※大統領室によると、外国国家元首が金日成大で講演したのは初めてとのことです。

 以下、主に「中央日報」と「朝鮮日報」の記事を照らし合わせ、エルベグドルジ大統領の発言を紹介します。

○「自由」の意義について
 ・全ての人は自由な暮らしを熱望し、これは永遠の力である。
 ・人々は自らに解決策を見いだすが、自由がない人々は外部に自分たちの苦痛の根源を探す。
 ・自由は、全ての個人が発展のチャンスを発見・実現できるようにするもので、これは人間社会を進歩と繁栄に導く。モンゴルは表現の自由、結社の自由を尊重し、法治主義を支持し、開放政策を追求する。
 ・モンゴル人は「いくら甘くても、他人の選択に従って生きるよりは、つらくても自分の思い通りに生きる方がまし」と言う。自由社会とは、達成すべき目標というより、生きていくための道だといえる。
 ・暴政は永遠には続かない。


○核問題について
 ・モンゴルは21年前に自ら非核地帯であることを宣言し、国連安保理の常任理事国5カ国は、モンゴルの非核国の地位を文書で認めた。
 ・モンゴルは政治・外交的そして経済的な方法で国家の安保を確保する道を選んだ。


○死刑制度
 ・2009年にモンゴルは死刑制度を廃止した。
 ・我々は死刑制度の完全な廃止を支持する。


 ・・・北朝鮮を訪れた人のほとんどは多かれ少なかれ「迎合的」な発言をするのが常ですが、大統領とはいえこのような歯に衣着せぬ講演をするとは実に気骨ある人です。
 「朝鮮日報」等によると、彼は次のような経歴の人物です。

 旧ソ連のリボフ軍事政治大学に留学しジャーナリズムを専攻。その後人民軍機関紙「赤い星」の記者を経て、1990年にモンゴル初の非政府系の新聞「アルドチラル(民主主義)」を創刊。同年共産党の独裁を終わらせたモンゴル民主化運動でリーダー役を務め、国会議員を4期務めた後、2009年5月にモンゴルの第5代大統領に選ばれ、今年6月に再選された。

 次に、この講演の反応とその後について。
・質問はなかったが、教授や学生など聴衆は大統領が立ち去るまで拍手喝采した。 
・北朝鮮はエルベグドルジ大統領の金日成大訪問を伝えたが、講演内容などは具体的に報道しなかった。
・大統領は北朝鮮の要求で「民主主義」「市場経済」という言葉は使わなかったという。(「自由」という言葉を禁じなかったのが北朝鮮当局の失敗だった、と見方があるのは当然ですね。)
・(韓国の)金日成大ソウル同門会長のキム・グァンジン国家安保戦略研究所研究委員は「驚くような内容であり、学生はその真意を看破しただろう」とし「北当局が収拾レベルで該当教授・学生に対し、外部に話すなと緘口令を敷いたはず」と話した。
・エルベグドルジ大統領は(名目上)第2人者の金永南(キム・ヨンナム)最高人民会議常任委員長と会見したが、金正恩第1書記とは首脳会談を行わなかった。(この講演内容が問題とされたのがその理由、との推定もある。)


 さて、日本のメディアはとみると、「産経新聞」(→コチラ)と「東京新聞」(→コチラ)の<左右両端>両紙が報道。どちらも軽くしか書いてない感じ。

 新聞ではありませんが、私ヌルボが興味深く読んだのが<現代コリア>(→コチラ)の記事。
 北朝鮮批判の講演ということで単純に持ち上げたりせず、次のように冷静に記している部分にはとくに注目しました。

 エルベクドルジ大統領は勇気ある人と言ってもいいかもしれない。ただ、これが北朝鮮に影響を及ぼすかとなると、ほとんど希望は持てない。また、北朝鮮が核を放棄する可能性はほとんどない。もし、北朝鮮の「改革・開放」への先導者にならんとしてのことなら、蛮勇の持ち主ということになるが。 
 おそらく、滞在中の大統領の日程を組み、演説を提案した当局者は強制労働所か。また、この日の聴衆だった教授や学生は演説批判の学習を強いられるに違いない。ただ、口コミの発達している北朝鮮のことだ。演説の内容が全く漏れないということはあり得ない。何らかの波紋が広がることを期待したい。


 講演が行われたのが10月30日。そして張成沢の処刑が12月12日。少なくとも金正恩に対してはこの講演が歯止めにはならなかったというわけです。あーあ・・・。
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2人の脱北者とその家族たちの映画以上にドラマチックな人生

2013-07-27 15:22:48 | 北朝鮮のもろもろ
 ふつうに学校を卒業し、就職して、何十年か働いた後引退して・・・という「平凡な人生」を歩んでいる人は日本人の何割くらいなんでしょうか? とても自叙伝を書いてもおもしろくなりようがないそんな人生が、思えば十分すぎるほど幸せな人生なのかもしれません。

 これまで、多くの脱北者の手記を読んできました。そのどれもが、日本人の考える「平凡な人生」の対極にあるような波乱に満ちた、文字通り命がけの人生記録です。
 1つ前の記事で紹介した、今中国の公安に拘束されているキム・グァンホさん家族もまさにその「命がけの人生」の真っただ中に立たされている人たちです。
 そして今回紹介する脱北者たちも同様です。

 7月15日付の韓国メディアで、韓国在住の脱北者の男が北朝鮮機関と相通じて、中国にいた脱北者たちをだまして北朝鮮側に送り込んだかどで起訴された、というニュースが伝えられました。
 そのニュース記事に書かれた脱北者のチェ容疑者と、彼を告発したやはり脱北者の女性Aさんのこれまで歩んできた人生もまた苛烈としか言いようのないものです。

 以下「韓国経済」(いずれも韓国語)と「Nocutnews」の記事を照合しつつリライトしました。
※「産経新聞」(7月15日)にもやや簡略な記事が掲載されていました。(→コチラ。)

 チェ容疑者は2001年から北朝鮮保衛部の工作員に選抜され、中国で脱北者を探し出す任務を遂行していたが、2003年7月中国を行き来して密貿易をした事実が発覚、処罰を免れるために脱北し、韓国国籍を取得して韓国に定着した。  
 しかし、2004年9月から脱北ブローカーの活動と北朝鮮産骨董品の密貿易のためチェ氏は中国を行き来していた間、北朝鮮に残っている家族の保護に協力してもらおうと北朝鮮の保衛部の幹部に連絡を取り、北朝鮮側に再び取り込まれた。

 北朝鮮側の指令を受けたチェ容疑者は、韓国入国を期して中国の図們に隠れていた脱北家族3人の兵士2人脱北者たちに接近し、「他の脱北者1人と共にモンゴルを経てソウルに送ってやる」とだまして04年12月15日豆満江の岸に誘い出し、待機していた北朝鮮保衛部の工作員4人に引き渡した。
 チェ容疑者は、この脱北一家拉致事件で中国公安に調査を受けた後、韓国に追放された。
中国公安から脱北者拉致事件で追放された、その後06年に、チェ容疑者は、中国へ戻れとの指令を受けたが、ビザの発給が拒否されて失敗したことが確認されている。

 北朝鮮に送られた脱北者5人中、兵士2人は2005年に銃殺され、Aさん(34歳女)の夫は06年に政治犯収容所で死刑に処された。当時生後7ヵ月だったAさんの息子は養子に出された。
Aさんは懲役6年を宣告され、政治犯収容所に収監されて重労働や殴打や飢餓に苦しみ、で自殺まで試みたという。11年7月から満期出所した。
 2012年2月Aさんは再び脱北を試みて捕まったが、賄賂を渡して北朝鮮穏城郡の集結所(拘置所)から釈放された。

 その後脱北に成功したAさんは、中国、ラオス、タイを経て韓国に入国し、チェ容疑者とその家族が脱北して韓国で暮らしていることを知って、彼の犯行を捜査機関に申告した。
申告を受けた検察は、国家情報院、警察などと協力捜査してチェ容疑者を検挙した。
 Aさんは「チェ氏を見つけて殺そうと思ったが、殺してもすっきりしない」と陳述した。彼女は現在先に入国した母親が自分の脱北資金を負担して、共に借金に苦しんでいると伝えられる。
チェ容疑者は、妻と息子、娘などを脱北させて韓国に連れてきた後、日雇い労働をしてきたことがわかった。
 「これまで脱北一家を拉致させたことをいつも気に病んでいた。罪を素直に償う」とチェ氏は述べた。
 検察は、脱北後に再び北朝鮮に取り込まれたり、偽装脱北した事例がまだあると見て捜査を拡大する方針だ。


 Aさんという女性、34歳の若さでこんなにも酷いことの連続とは・・・。
 そしてチェ容疑者にしてみれば、自分が死地へと追いやった1人がまさか9年後の韓国で自分を告発することになるとは思わなかったでしょう。
 映画のように、いや、それ以上にドラマチックなことがあるものです。
 しかし、北朝鮮の工作者のように「公務」で脱北者を探索し拉致したり、(たぶん)それでも暮らしていけないから密輸をやったりというのも元をただせば北朝鮮の体制に起因することです。家族が一緒に安定した生活をするというのも基本的な願いです。もちろん、だからといって他の人たちの人生をめちゃくちゃにしてしまうことに弁護の余地はありませんが・・・。
 金日成が朝鮮戦争を始めたことや、その後の独裁体制のために一体どれだけ大勢の人たちの命が奪われ、あるいは悲惨な人生を送ったのか・・・。そしてそんな状況が今も続いていることを思うと暗澹とした気持ちにならざるをえません。
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2度目の脱北を試みるも、中国の公安に捕まった「再入北」家族 どこまで「国家」に苛め抜かれるのか?

2013-07-25 23:45:45 | 北朝鮮のもろもろ
 6月末に脱北したキム・グァンホさん等の家族5人が7月14日中国の延辺地域で中国の公安に捕まりました。
 うちキムさん夫婦(とその娘)は、以前にも脱北して2010年韓国に入国・定住していたのですが、12年末北朝鮮に帰り、13年1月平壌の記者会見の場で「南朝鮮は本当に汚れた世界だった」と韓国を非難した発言をしたことが北朝鮮メディアにより伝えられ、衝撃を与えました。
 つまり、いわゆる「再入北」者です。

 今回の逮捕後、韓国外交省報道官は16日「必要な措置を取っている」と述べ、韓国籍を有する彼らの釈放を中国側に求めていることを示唆しました。一方北朝鮮の保衛部も中国延吉当局に引き続き協力を要請しています。
 はたして中国当局がどのような判断を下すか、非常に注目されるところです。
※私ヌルボのみるところでは、中国自身の得失を考えると韓国側が少し有利ではないかと思うのですが・・・。(韓国得意の(?)ロビー活動もやってるだろうし(?)・・・。) もし北朝鮮に送られたとしても、これだけ報道されている中で、いくら北朝鮮といえども処刑はできないのでは?

 この出来事を伝えている日本のメディアは、ネット検索したところ「産経新聞」(7月15日.共同)「読売新聞」(7月17日)くらいのようです。

 その他の新聞等が報道しないのは、この出来事が彼ら5人の生命や人権に関わることであっても、日本人ではなく、日本とも直接関係がなく(ホント?)、北朝鮮や中国の現状からみて意外なことでもなく、したがってニュースバリューに欠けるという判断でしょうか?

 しかし「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という文言が日本国憲法前文(!)にもあるわけだし、「護憲」を旗印にしている新聞こそ大きく取り上げてほしいものです。(逆に「読売」や「産経」にこの種の記事が多いのは考えようによっては奇妙。韓国内と同様に、左派が反人権国家・北朝鮮に甘いという残念な現実の表れか・・・。)

 この件に対する私のヌルボの関心は、南北朝鮮や中国という国家間のせめぎあいよりも、焦点となっているこの家族についてです。

 彼らが今までたどった道筋について、韓国各メディア、<DailyNK日本版><アジアプレス・ネットワーク>等の記事を参考にまとめてみました。
※<DailyNK>(→ウィキペディア)は韓国の市民団体・北朝鮮民主化ネットワークが発行するインターネット新聞。

・咸鏡北道で農場員として働いていたキム・グァンホさんは、1990年代後半の「苦難の行軍」の時期に、金儲けのため中国に何度も越境し、法的制裁も受けてきた。しかし2009年8月婚約者のキム・オクシルさんとともに再び中国へと脱北した。  
・2010年4月(?)、キムさん夫婦と10ヵ月になる娘は韓国の木浦市に定着。
・2012年末、「残った家族を脱北させるため」と北朝鮮に戻ったが捕まった。

※「中央日報(日本語版)」の記事(→コチラ)によると、これは「北朝鮮保衛部のおとり捜査による拉致だった」とのこと。「北朝鮮を脱出したいという妻の母と兄弟の連絡を受けて中国に行ったキムさんが会寧市保衛部に拉致された」という。
・2013年1月24日平壌で記者会見し「南朝鮮は本当に汚れた世界だった」と非難したことが朝鮮中央放送で報じられた。
※<アジアプレス・ネットワーク>の記事(→コチラ)によると「北朝鮮当局が準備した原稿を2ヵ月にわたり暗記したもの」とのこと。
・その後「韓国ではサムギョプサルやサムゲタンなど美味しい食事を食べられる」と韓国の宣伝を行ったかどで収監された。(恵山鉱山で思想改造のために強制的に働かされている、との未確認情報も・・・。)  
・6月26日キムさん夫妻が娘及びオクシルさんの妹キム・ソネさんと義弟(?)キム・ソンイルさん(夫妻?)を連れて脱北。
・7月14日中国に留まっていたキムさんの家族5人が延辺地域(延吉?)で中国の公安に捕まった。

※<DailyNK日本語版>(→コチラ)によると、再脱北したキム・グァンホさんがブローカー費用を節約しようと多方面に工面する過程で、彼に関する情報が公安にまで流れた、とのこと。
また消息筋によると、今回の事件で北朝鮮内部は非常事態となっていて、再度脱北したキムさんの家族の噂は知らない者はなく、だまされて脱北し韓国に懲りて北朝鮮に戻ってきたものと信じていた住民らは、彼が再入北から程なく家族とともに再び脱北を試みたと聞き、酷く動揺しているとのことです。

 この件について注目すべきこと、私ヌルボが考えたこと等を以下に列記します。

①「再入北」の事例が増えているという点。彼らが南北の「宣伝戦」の材料にされている。その背後に執拗な「工作(脅し・懐柔等)」が・・・。

 最近の韓国にいた脱北者の再入北は、昨年6月・11月に続きキム・グァンホが3度目です。
 いずれも公開記者会見の場で北朝鮮のメディアを通じて韓国を非難しています。この記者会見についての詳細は、「朝鮮新報」(1月29日)の2つの記事(→コチラコチラ)
の記事で知ることができます。(「統一新報」は朝鮮総聯系。) それによると、キムさん夫婦は、自分たちを南朝鮮に連れて行ったブローカーに契約金を払えなかったことが原因で裁判を起こされ、住まいを失ったうえ膨大な裁判費用まで支払うことになり、これ以上南朝鮮で生きてはいけないと痛感して北に戻ってきた、と話したそうです。
 その記事の見出しに<「脱北者」の大多数は被害者 組織化された南の誘引策>とあるように、彼らを「裏切り者」「犯罪者」ではなく韓国による「被害者」としている点が北朝鮮としては「新機軸」です。
 この記者会見の場で、キムさん夫婦とともに証言したコ・ギョンヒさんも「2011年6月に南朝鮮に連れて行かれたが、昨年末に共和国(北朝鮮)に帰ってきた」という女性。「完全に騙されて韓国に連れて行かれた」と証言しましたが、彼女もまた6月に再び脱北を試みたものの、<DailyNK>の記事によると、「コさんも脱出に成功した後、息子と娘を脱北させるために恵山市と真向かいの中国長白で通話を試みたが位置を追跡され、北朝鮮保衛部に逮捕された」とのことです。また「コさんは当局が準備した恵山市内の高級住宅を拒否し・・・恵山市で生活していた。その時から中国と連絡を取りながら脱北を準備していた」とも・・・。
 この<DailyNK>の記事によると、北朝鮮保衛部が昨年から脱北者らの知人を通して北朝鮮へ戻らせるための懐柔工作を積極的に展開してきた、とのことです。すでに韓国国内に定着した脱北者に対し、「戻ってきても処罰を受けない」等の働きかけをしたり、一方では<アジアプレス>の伝えるように、やはり昨年6月に再入北後の記者会見を行ったパク・ジョンスク氏のように、「北朝鮮に戻ってこなければ(北朝鮮に残された)息子に害が及ぶ」と脅迫したり・・・。
※今韓国では、長年韓国で家庭を持ち生活する北朝鮮のスパイが主人公の金英夏の小説「光の帝国」(訳書あり)が刊行されたり、韓国で一般庶民として生活しながら任務を遂行する北朝鮮スパイを描いた漫画が原作の映画「隠密に偉大に」がヒットしたりしています。これらの背景に、実際にスパイや工作員が摘発されるといった現実がある、ということです。
※1月の北朝鮮での記者会見報道の後、関連の韓国・聯合通信の記事の中で、「コ氏は保衛部の情報員である可能性がある(!)との主張が提起されている」とあるのは、この頃の脱北者をめぐる複雑な状況を示しています。

②「再入北」問題のもう一つの側面は、韓国内での脱北者の困難な生活状況

 先の聯合通信の記事によると、キムさん夫婦と親しい知人らは「同会見内容(ブローカーに契約金を払えなかった等々)について部分的には事実関係を認めたとのことです。それについては「東亜日報」に詳しい記事(韓国語)がありました。ブローカーに多額の金を支払うため、国から支給された定着金も少ししか残らないとか・・・。
 彼らの場合に限らず、韓国で暮らす脱北者の困難な生活実態の例は映画「ムサン日記~白い犬」等々、枚挙に暇がないほどです。

 「再入北」の事例は、あまり知られていませんが日本でも2例あります。
 在日朝鮮人の夫とともに北朝鮮に渡り2003年に日本に帰国した日本人妻・平島筆子さん(→ウィキペディア)と、母親が日本人、父親が在日朝鮮人で日本国籍の石川一二三さんの2人で、いずれも北京の北朝鮮大使館で記者会見をしていて、「悪い人間にだまされ(日本に)誘拐された」「日本は氷のように冷たかった」等と発言しています。背後の「事情」はいろいろ考えられますが、「日本は氷のように冷たかった」というのは当たっているでしょう。(参考記事→コチラコチラ。) 石川さんのケースの後、辺真一氏が「現在日本で暮らしている脱北者が北朝鮮に戻らないで済むような精神的、物理的ケアーを施すことです」とコメントしていますが、私ヌルボもこれには賛成で、同様のことは韓国についてもいえます。
 一方、脱北者の側の問題も指摘されています。「支援金に頼って真面目に働かない」「平気で嘘をつく」「助けてあげても礼を言わない」等々。以前NHKの「クローズアップ現代」でもそのことを取り上げていたそうです。(参考→コチラコチラ。)
 勤勉に働くことが収入増や生活の向上に直結しない北朝鮮でのサボリの実態は本ブログの過去記事(→コチラ)
でも書きました。嘘についても、正直に本心を語ることが身の危険に直結する独裁国家に生まれ育った人間ならさもありなんと思います。もちろん、だから許されるというものではありません。それだけミゾは深く、新しい社会に定着することはむずかしいということです。

③国家間の問題以前に、個人の人権問題として捉えよう。

 最初の方で「私のヌルボの関心は、南北朝鮮や中国という国家間のせめぎあいよりも、焦点となっているこの家族についてです」と記しました。
 いろいろ上述したように、キム・グァンホさんたちのこれまでの足跡をたどってみると、とてもふつうの日本人(と言っていいのかな?)からは想像もつかない苦労の連続です。
 生まれた国が北朝鮮であったばかりにこのような人生を歩まなければならない・・・というのは彼ら家族だけでなく約2千万(?)ほどの全人民についてもいえるわけですが、とくに彼らのような脱北者の場合は、まさに今の複雑な東アジアの国家間のせめぎあいの中で翻弄され、1つの外交カードとして利用されるという現状があります。
 しかし少なくとも一市民としては、自国の得失を最初に考える「国益本位の思考」ではなく、冒頭で引用した「日本国憲法」の前文の文言のように、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」を最優先すべきだと思います。
 また上記のように脱北の手引きが多くの場合ブローカーの儲け仕事になっているのも大きな問題だし、キリスト教団体がかなり関わっている点にも個人的には少し引っかかる点があります。もっと国際的に多くの人の関心を集めて、それが現実を変える大きな力になっていくことを願っているのですが・・・。

★現在、アムネスティ韓国支部では、キム・グァンホさんたちの北朝鮮強制送還を阻止するための呼びかけ(署名等)をしています。(→コチラ。)
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脱北者の大学生リ・ハナさん(仮名)がブログ記事をまとめた本を出す

2013-04-01 20:20:46 | 北朝鮮のもろもろ
 脱北者の女子学生リ・ハナさん(仮名)がアジアプレスのサイトに掲載していたブログ記事は、私ヌルボも愛読してきましたが、最近本にまとめられて刊行されました。

 「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」(アジアプレス出版部)がその本です。

        

 見出しで「大学生」と書きましたが、彼女は、ついこの前(3月18日)関西学院大学を卒業しました。(袴姿で、です。)

 彼女が生まれたのは1983年頃。場所は北朝鮮の最北西部の都市・新義州。鴨緑江を挟んで対岸は中国の丹東です。

 父親は1950年代長崎県生まれの在日2世。済州島出身の祖父母は1940年代(戦後まもなく?)に長崎の五島に渡って漁業を営んでいました。
 一家が北朝鮮に渡ったのは1970年代。当時はもう北朝鮮帰国事業で北に帰国する在日は少なくなっていたし、帰国者のその後の厳しい生活についての噂なども流されていたにもかかわらず、またそれなりの財産がありながら、なぜか祖父が帰国を決定し、それにしたがったのだそうです。
 大学まで通い、恋人が日本にいたという父親は、本当は北朝鮮帰国を望んでいなかったにもかかわらず、見送りに行った新潟で北朝鮮行きの船に乗せられてしまいました。(父親はその後医科大学を出て医者として誠実に務めますが、体を壊してしまい、希望を失って、たばこを吸いお酒を浴びるように飲んで、結局不遇のうちに亡くなります。

 一家が商業都市新義州に住居を割り当てられたのは、相当の寄付・上納の類によるものでしょう。
 しかし、その後の生活は、大略これまでの脱北帰国者の手記・証言等と同じ。
 果てはやはり在日日本人だった母親から「親類の1人がしでかした不始末で農村に戸籍を移されることになった」と聞かされ、その母の発案で命懸けで鴨緑江を越えて中国に逃れます。それが18歳の時。(前近代的な連座制はいつまで続くのか?)
 中国では親切な朝鮮族の人たちの助けも得て働きながら5年間暮らし続けますが、中国の官憲の目を避けて転々とするうちに家族とも別々になり、お金をだまし取られたり・・・。
 そんな窮迫した状況の中で、詳しくは描かれていませんが、日本人が関わっている脱北者支援組織と接触し、日本に来ることになったということです。

 2005年11月に関西国際空港に降り立った、というから、その時すでに23歳くらい。北朝鮮での高卒の資格など認められるわけもなく、信頼をおく日本人女性から日本語を教わりながら夜間中学に通い、「高認」試験にパスして2009年に関西学院大学入学。(来日して3年5ヵ月とは、速い!)

 この本の刊行はメディアでも注目されているようで、MBSラジオ3月1日(金)放送の<報道するラジオ>で、「脱北女性が語る北朝鮮」と題してリ・ハナさんを招いていろんな話を聞きだしています。
 1時間近い番組ですが、まるごとYouTubeにupされていましたので、ぜひ聴いてみてください。

   

 新聞では、「産経新聞」3月2日「北朝鮮から来た女子大生リ・ハナさんの日常「私って何者?」」等各紙で紹介されました。

 本書中、私ヌルボが興味深く読んだ点をいくつかあげてみます。

・彼女は、北朝鮮で「二十四の瞳」を読んだことがあるが、その時の感想は、「国のために自己を犠牲にして戦っている人たちがいる」という、軍国主義日本に対する共感(!)だったとのこと。日本にきて再読して、反戦小説であることに気づいた。
・1998年、人工衛星光明星1号打ち上げのニュースを聞いて、「充分に食べることもできない中で耐えてきた甲斐があった」とナットクし喜ぶ。町中に活気が戻ったようにも思えた、という。
・「私は地図が読めない」と彼女は書いています。実例もいくつか。その理由の1つは、旅行等、移動の自由が制限されている北朝鮮では、日常生活で地図は必要がないから・・・。

 ところで、この本の刊行後~現在のことで、私ヌルボがウンザリしていることがあります。
 アジアプレスの石丸次郎氏はツイッターで次のようなことを書いていました。

Ishimaru Jiro ‏@ishimarujiro
3月6日 日本軍慰安婦、朝鮮学校、脱北者などのコリア関連の記事をヤフーニュースに配信すると、差別排外コメントがすぐさま投稿される。程度の低さ・幼稚さ・無邪気さはさておき、その裾野の広がり方は要検証だ。リ・ハナ記事への悪罵の山を一度見てほしい。→http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130228-00000001-asiap-soci

 ・・・で、リンク先を見ると、たしかにこれがもうすごい「悪罵の山」。
 1例だけあげると、
 「苦労したのは分かった。でも南朝鮮に帰りなさい。日本に朝鮮は不要なんだよ。」 
 これには「私もそう思う7,015点 私はそう思わない148点」

 無国籍であることの意味とか、国籍を得ることがどんなに大変なことかとか、彼女自身「北朝鮮、日本、韓国、自分はどこの国の人間なんだろう?」と自問し、悩んでいること等々すべて捨象して「出て行け」と言い切れる日本人がこんなにも多いとは。日本を自ら美しくない国にしている日本人がナサケナイです。

 他にも、北朝鮮政府と同一視して北の住民(あるいはハナさん)に拉致被害者の件等で厳しい言葉を投げつけたり・・・。拉致被害者や、帰国できない多くの日本人妻と同じように、北の住民も独裁国家に人権を否定されている人たちなのに・・・。

 またamazonの読者レビューを見ると、ここには「疑わしい」という表題で次のようなことが書かれているものがありました。
 「この本の目的が事実の伝達でなく、読者に同情を与える事に置かれているのではないかと思いました。そうすることで日本の人たちの北朝鮮に対する心象をよくしようとする工作の意図が感じ取れます。・・・著者が住んでいるのは大阪ですが、大阪は中国韓国朝鮮人の生活保護斡旋ビジネスが盛んな都市です。悲劇を隠れ蓑にして、こういう言葉は悪いですが、糞のようなビジネスの温床を作ろうとしているという見方も出来ます。」
 ・・・いろんな読み方をする人がいるものだなあ、と感心(?)してしまいます。

 「北朝鮮をよく見せようとしている」という人もいれば、その逆もあります。北朝鮮の立場を代弁している(?)あるブログでは「リ・ハナにしゃべらせる原稿を書いてるのはどこの馬鹿だ!」と題した記事で、これは「アジアプレス内の誰か」が用意した原稿のままに「バーチャルアイドル」みたいなリ・ハナが棒読みしたものだと「分析」しています。
 このブログ主さんはなかなか知識は豊富で、「北朝鮮では、恋愛をテーマにした歌は禁じられていたが、リさんが替え歌や海外の歌をギターで歌い、次第に路上に人が集まったこともあった」という「毎日新聞」の記事を具体例をあげて批判しています。南でもよく知られた「口笛(휘파람)」という恋愛をテーマにした歌があるではないか、というわけです。
 しかし、これは「毎日新聞」の見出しの批判にはなっていても、リ・ハナさんに対してはまったくの見当違いです。本書の文中にも、「口笛」について書かれているのです。彼女のいた「学校では」禁止されたと・・・。
 このブログ主さん、「一番の馬脚は「北朝鮮では、恋愛をテーマにした歌は禁じられていた」という部分でしょう」と書いていますが、逆にこの一文でちゃんと本書を読んでいないことが明らかになってしまいました。

 冒頭にリ・ハナ(仮名)としたように、彼女の名前は仮名です。日本に300人(?)いるという脱北者たちが仮名で暮らさざるをえない理由の第一は、北朝鮮側に知られると北朝鮮に残っている家族に危険が及ぶからです。何らかの「工作」の対象とされる可能性もあります。本書その他に載っている写真でも、顔がわからないように撮られているのも同じ理由からです。
 ところが、それだけでもないようです。せっかく日本に来ても自分の過去を「カミングアウト」することは大変な勇気を要することなのですね。上述のように、日本人の間には北朝鮮についてさまざまな見方があるから・・・。つまり、北朝鮮から以外にも懸念されることがいろいろあるわけです。

 生まれた時代や所(国・家庭等)によって人の幸不幸は大きく左右されます。彼女の場合も、これまで経てきた厳しい人生で、自身が責を追わなければならないことがどれだけあるでしょうか?
 脱北までの生活や中国での5年間の苦労に加えて、日本でさらに重荷を背負わせてしまうことのないことを希うばかりです。

※リ・ハナさんのtwitterは→コチラ
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金正恩第一書記の「新年の辞」の動画が北朝鮮公式サイトで見られます

2013-01-01 17:24:37 | 北朝鮮のもろもろ
 北朝鮮のテレビが今日、金正恩第一書記の新年の演説を放送したことが、各メディアで伝えられました。北朝鮮の最高指導者が新年の演説を行うのは、金日成主席の時代以来19年ぶりとのことです。

 動画がアップされているのでは、と探してみたところ、本家本元の北朝鮮総合サイト<ウリミンジョクキリ(우리 민족끼리.わが民族同士)>にさっそくアップされていることがわかりました。
 音声の翻訳は(私ヌルボの能力の問題で)すぐにはできませんが、とりあえずリンクを張っておきます。長さは00:24:49です。
 →コチラ
 Google自動翻訳→コチラ
 ※ただし、自動翻訳の場合、「タイトル」の文中に「敬愛する金正恩様」というケシカラン文言があります。これは原文の「원수님(ウォンスニム)」=「元帥様」が、「怨讐様」と同音(!)であることによる間違いなので、誤解なきように。
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12月15日に小川晴久「北朝鮮 いまだ存在する強制収容所」出版記念講演

2012-12-13 23:42:36 | 北朝鮮のもろもろ
 まだ先のことと思っていたら、今週土曜日に迫っていました。
なにかというと、小川晴久二松学舎大学教授の新著「北朝鮮 いまだ存在する強制収容所: 廃絶のために何をなすべきか」(草思社)の出版記念講演。
 北朝鮮強制収容所をなくす運動を進めている市民運動組織NO FENCEの主催で、12月15日午後13時~16時30分、港区芝大門の人権ライブラリーで開かれます。
 内容は、小川先生の講演の他、第22号管理所の警備をしていた脱北者・安明哲氏による「会寧22号収容所『閉鎖』の真相に迫る」と題した話等。詳細は、NO FENCEのサイト(→コチラ)参照。

 小川晴久先生については、本ブログでも6月29日の記事<小川晴久教授の6ヵ国協議批判、今も正論かも・・・>で紹介しました。
 学者としての専門は東アジア思想史、とくに朝鮮実学で、これも洪大容について書かれた「本ばかり読むバカ」についての過去記事でも小川先生の著書に少しふれました。

 リベラルな思想の持ち主であると同時に親北朝鮮だったというのが往時の日本の知識人の代表的な1タイプで、小川先生もその1人でした。しかし1994年北朝鮮の強制収容所のことを知って、以後
北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会の結成に関わって代表となる等、その廃絶運動を続けてきました。
 今回の講演について、その北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会のサイト(→コチラ)でもその案内とともに、現代表の三浦小太郎氏が小川先生について紹介と新著の推薦文を書いています。
 「正直、私はいくつかの点、特に北朝鮮の歴史についての評価については著者と意見を異にしています」と政治的・思想的立場の違いも表明しながらも、好意に満ちた内容です。
 北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会は、「右翼的な団体」と見る向きもあろうと思います。そのメンバーに、政治的に私ヌルボとは相容れない考え方の人もいないではなく、機関誌「かるめぎ」や理論誌「光射せ!」にもヌルボの見解とは異なる内容(朝鮮学校補助金問題等)も載っていますが、基本的には最大公約数でつながっている開かれた団体であると認識しています。
 また、アムネスティもこの催しには注目しています。人権、それも生存権をめぐる問題は、左右の政治的思想的立場以前の問題。これが私ヌルボの基本的認識です。
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韓国電力社員が描いた漫画「出張先は北朝鮮」で垣間見る北朝鮮の人々と社会(その3)

2012-08-25 02:09:30 | 北朝鮮のもろもろ
 2つ前の記事、および1つ前の記事の続きです。

 呉英進「出張先は北朝鮮」(作品社)は、類書が(ほとんど?)ないにもかかわらず、日本では注目されてこなかったようで残念です。金王朝関係の本は同工異曲ゴマンと刊行され、図書館の開架の棚にもずらっと並んでいるのに・・・。
 もしかして、翻訳者(西山秀昭氏)の自費出版? 軽水炉が軽水になっている箇所がいくつもあるように、全体的に校正が甘い感じだし、宣伝もなされてないようで、私ヌルボも最近やっと知ったところ。もっと多くの人に読んでほしいものです。

 韓国ではそれなりに注目されたようで、漫画賞を受賞したり、呉英進さんのインタビューも動画になっています。(→コチラ。)

   [D] 北朝鮮の人々のくらし

①精一杯生きている。

▶山は禿山だらけ。金日成の現地指導で造成された鬱蒼とした松林で、カリカリという音が聞こえてきた。それは子どもとおばあさんが松葉をかき集める音だった。(燃料用)▶北の労働者には昼飯は提供されないので弁当を持ってくる。キムチと豆モヤシ、雑穀まじりのご飯、蒸しジャガ、油で揚げた餅のようなもの。木の枝で作った箸。勧められて飲んだ酒がものすごく強い。
▶労働党創建55周年。大勢の人が歩いて楊花へ。手に手に赤い旗と造花を持って。夕方両手にいっぱいの贈り物をさげて帰る人々。55の生活必需品が配られたとか。
▶北のバーではサッポロの缶ビールも売っている。が賞味期限切れ。しかし「缶の中の酒が変わるわけありません」と気にしない。
▶牛の糞を踏んでも、踏んだ感じがしない。べったり粘りつかない。食糧事情が悪いのは牛も同じ。


 ・・・食料や燃料が乏しい中で、人々は懸命に生きています。

②厳しい生活の中に楽しみも・・・。

▶杉苗を植える緑化事業に動員された北の人たち。男女にわかれ、車座になり手拍子を取りながら歌を歌う。男たちの間では主牌(チュペー)というカードゲームが盛ん。 
▶韓国人社員相手に食堂と飲み屋が設けられていて、奉仕員(接待員)とよばれる女性従業員がいる。平壌出身の大卒女性が多い。酒のお返しは絶対に受けないが、歌はなかなかのもの。「人生って何なのかと聞かれたら私は答えるでしょう~♪」


      
 【北朝鮮の奉仕員が歌った歌「생이란 무엇인가(生とは何か)」。きれいな曲です。背景の白頭山・天池も美しい。】

③人々の情はどこも共通。

▶酷寒の日、雪道を4㎞歩いて娘が父の弁当を持ってきて、一緒に食べる光景を呉さんは見て心を動かされる。 
▶工事現場を見物に来た人たちの中で、誰かが置いていった包みを開けると、差し入れの食べ物が!
▶亡くなった人は桐製の棺か、リンゴ箱等の板切れをつなぎあわせた棺に収める。男が近づいてきて啜り泣きを始め、棺を自転車の荷台に載せて家を出た・・・。


 ・・・人間関係はむしろ濃密といっていいようです。

④韓国との違い

▶ムノ(大きいタコ)を持った釣り帰りの人にそのムノこの海で採れたのか訊いたら「このナクチ(小さいタコ)ですか?」。その後食堂でナクチを頼んだらイカ(オジンオ)が出てきた。「みんなナクチなんだな」
▶「ケサニが食べたタマゴ」という民話の本。「ケサニってなんだ?」と訊くと「先生、本当にケサニも知らないんですか? ケサニはケサニですよ」。呉さんがそのリ・ソンピル「게사니가 먹은 구슬알(ケサニが食べた玉子)」(1993.金城青年出版社)という本を買って読むと、「ケサニ(게사니)とはコウィ(거위)つまりガチョウのことだった。


 ・・・言葉の違いはいっぱいありそう。「게사니」はNAVER辞典には北韓語として出てました。

▶北の人は本貫を知らない。戦後間もなく廃止されたとか。

 ・・・もちろん、この他いっぱいあるでしょう。

   [E]豊かな自然は残っているが、山は禿山

▶自然は豊か。空気はおいしく、海の水と白い砂浜がきれい。潜るとどこを掘っても貝だらけ。しかかし、上記のように山は禿山。燃料用に人々が伐ってゆく。▶国の保護鳥キジはよく見かける。車のフロントガラスに激突することもめずらしくはないようだ。
▶呉さんが初めて北韓に行ったのは1999年が最初。出張を命じられ、蔚山から船で。NLL(北方限界線)にさしかかると、灯の見えない漆黒の世界に。2日後(正確には46時間目)に咸興南道楊花港へ。北の案内船は塗装が剥がれ真っ黒に錆びついていて、真紅のスローガンの色と対照的。空気が気持ちがいいのが印象的で、北の地に降り立つと「まるで「미래소년 코난(未来少年コナン)」の1シーンのようだった」とのこと。


 ・・・私ヌルボが1991年初めて北朝鮮の地(元山)を見た時の第一印象は、「なんだ、この時間が止まっているような前近代的光景は!」というオドロキでした。

   [F]韓国に何年くらい遅れをとっているか?

○現地の韓国人社員の間で議論。北の現実は・・・

▶A(40代か?)「ここの現実をみると韓国の70年代末とよく似ているよ」
 B(30代後半?)「70年代末なら韓国の方がずっとよかった。車も多かったし建物も・・・」
 C(30代前半)「平壌は地下鉄もあるしアパートも多いし」
 D(50歳以上?)「いや! 平壌は例外だ。あそこは特別だよ!」
 E(50歳以上?)「ここの人たちの服装は60年代の半ばくらいだよ」
 D「沖の帆船を観ていると韓国の50年代後半くらいにしかならんよ!」
 A「50年代はあんまりでしょう。電話もあるしカラーテレビもあるし」
 C「ここの田畑を見るとよく整理されているし70年代初めくらいにはなるでしょうよ」
 D「昔はそうかも知れんけど、今はそれから10年後退しているよ! 山に木がないのを見なよ。全部燃料として伐ったんだ。オレたちの子供時代と同じだ! 君はまだ若いから知らんだろうが・・・」
 C「エーイ、本当に!」
 A「何怒ってんだ」
 C(テポドンの切手を見せて)「自力で人工衛星を発射しているのに、ここがなんで50年代なんだ!」


 ・・・なかなか興味深い会話です。

       
  【呉英進さんが1年半すごした琴湖の軽水炉建設地。2005年建設事業は打ち切られた。】

 しかし、これだけの費用(韓国&日本の)と労力を費やして推進されていたKEDOの軽水炉建設事業とは、一体なんだったのでしょうか?
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韓国電力社員が描いた漫画「出張先は北朝鮮」で垣間見る北朝鮮の人々と社会(その2)

2012-08-24 15:11:10 | 北朝鮮のもろもろ
 1つ前の記事の続きです。

 下の画像は、原書の表紙です。

          
  【「북한체류기(北韓滞留記)」上巻(左)が「남쪽 손님(南側のお客さん)」、下巻が「빗장열기(カンヌキを開ける)」。表紙は日本版の方がよさそう。】

   [B] 北朝鮮の体制いろいろ

①できうるかぎり情報を統制する。

▶車を運転していた呉英進さん、背中に赤ちゃんを負い、両手に荷物を持った女性が歩いていたので乗せてあげたいと思った・・・が、南北の議定書では「韓国の車に北の住民を乗せてはならない」と規定されているし、女性も車が眼中にないように歩いていくので、そのまま。

 ・・・極力北の一般人との接触をさせないという方針。また北の人が韓国人の車に乗せてもらったりすると、生活総和の場で反省を迫られます。

▶武器・爆発物・劇薬以外で北朝鮮が搬入を禁止しているものには、高倍率の望遠鏡や双眼鏡・強力なズーム付のカメラやビデオカメラ・無線通信機器・新聞・雑誌・フィルムやビデオがある。 
▶工事現場の工程写真を撮る時には、北の労働者は身を隠す。北当局は、対北宣伝に利用するかもしれないという理由で労働者の撮影を禁じている。
▶北の電信柱は韓国より低く、倒れそうに見える。北では、道端に建てた韓国の電信柱をなぜか黒く塗りたてている。(韓国製であることをわからせないため?)
▶将軍様のお名前や革命スローガンを損なうような写真は持ち出し禁止。将軍様の銅像をバックにピースサインで撮った記念写真はダメ。


 ・・・国内の状況を伝える映像等が外に漏出したり、外国の情報がチェックもなく入ってくることを警戒している。将軍様は絶対不可侵。

▶理髪店には「労働新聞」、グラビア誌、文芸誌、革命小説等を常備。それらを読んで呉英進さんが気づいたことは「北朝鮮の歴史には金日成時代以前がない」。
▶「将軍様の写真が載った新聞は折りたたんではいけない」ということは、外の世界でもかなり知られるようになった。
▶「労働新聞」には北の新聞は社会面がない。つまり、事件や事故の記事が全然ない。スポーツ・芸能面、広告も。「黒羊の乳で豆腐をこしらえた」とか、「咸鏡道の女子小学生がウサギ2匹を10数匹に増やして党から表彰された」という、韓国では子ども新聞で見るような記事が載っている。
▶グラビアには80年代半ば、水害で被害を蒙った韓国に支援の米をした時の写真が。
▶スペイン・セビリアの世界陸上の女子マラソンで鄭成玉選手が優勝。北のメディアは数日後に報道。


 ・・・北朝鮮で「正しい」報道とは、体制をきちんと維持するためのものであり、言論・報道の自由についての考え方が国際通念とは根本的に違います。

②北朝鮮の体制ならではのシステム、ルールがいろいろ。

▶線路の枕木交換作業を見ると、女性もツルハシを持って重労働。「共和国は男女平等ですから」。 
▶田植え期間になると、「総進軍 田植え戦闘へ!」と書かれた赤い旗を立てて開始。
▶村と村の境界線には検問所があり、木のバーが渡してあるだけだが、通行証や訪問証がないと越えられない。そこは村人たちの物々交換の場所でもあり、親戚や友人が会う場所でもある。
▶呉英進さんのように、訪朝者の中で平壌以外の所に行くのは稀である。訪問先が平壌の場合は、宿舎(ホテル)に行く前に万寿台の金日成銅像をまわって献花と黙禱をすることになる。北の住民が外国出張から帰国した時の規定のコースである。


 ・・・こうした北での「常識」の中で暮らした人が脱北して韓国で生活するとなると、非常な困難があるのも当然。

   [C] 北朝鮮の人たちとの会話

①神聖にして侵すべからず

▶1対1の個人的な会話でも「敬愛する指導者同志のご配慮で・・・」という枕詞がちょくちょく付く。
▶韓国に国際郵便を出すため琴湖国際通信所(郵便局)に行った呉さん、「この金正日のもの(切手)いくら?」と言って女性局員に激怒される。
▶クリスマスイブの日、食堂で酒を飲みながら、奉仕員(接待員)の女性に「今日は何の日かわかる?」と訊くと、「抗日女性英雄の金正淑同志の誕生日ですよ!!」
▶革命歌謡の流れるバーで接待員に「金正日委員長のお子さんは何人いるの?」と訊くと「ここではあんまり多くのことを知ろうとしてはいけません。先生様、いま南朝鮮では「知ろうとするな! 怪我するよ」という言葉が流行ってるってね」


 ・・・昔の日本臣民は、陰では天皇について語る場面もありましたが・・・。

②教育の成果

▶タラタラしてる労働者を叱ると、軽水炉事業についての議論に。核査察を口にすると、米帝こそ査察を受けるべき、とか。「いろんな国から金を集めて発電所を作っているのをありがたく思わなきゃ!」というと「その言いぐさは何ですか!! 軽水炉事業はどこまでも我が偉大な将軍様がクリントンの首を締めつけて勝ち取ったものです!」 
▶南朝鮮(韓国)の車を道で見ると、子どもたち硬い表情で目を背ける。


 ・・・教育の力が大きいのはどこの国も共通。韓国の「独島はわれらが地」も。教育というより教化。

③プライドは高い

▶「配給はきちんと出てるか?」とか「飢えている人はいないのか?」と訊ねると「一体何が知りたいんですか!」と語気を強める。デリケートな話は避けるようになる。 
▶北の労働者「われわれ人民には不足なものは1つもありませんよ」
 南の労働者「じゃ家に冷蔵庫あるか?」
 北「冷蔵庫? ア! 冷凍機のことか! そんなの!ありますよ!」
 南「そうだよ。上に冷凍庫がついているやつさ」
 北「オレはそんなの知りませんよ! うちのオンマがみんな管理しているからオレの知ったことじゃないんだ!」


 ・・・プライド(自尊心)の高さは南北共通かも。\t

④ふとホンネが・・・

▶並んで座ってタバコを吸いながら北の班長が呟く。「それでも首領様の時代はよかったですね」

 ・・・このホンネは北の人たちに共通なようで、いろんな本で見ましたね。

 あと1回続きます。
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韓国電力社員が描いた漫画「出張先は北朝鮮」で垣間見る北朝鮮の人々と社会(その1)

2012-08-23 23:47:08 | 北朝鮮のもろもろ
              

 呉英進「出張先は北朝鮮①&②」(作品社.2004年)を読みました。
 異色のマンガ北朝鮮訪問記です。それも短期間の訪問ではなく、548日間滞在した記録。

 呉英進(オ・ヨンジン)さんは1970年生まれ。95年に明知大を出て韓国電力に入社しましたが、2000年3月KEDOのプロジェクトで軽水炉建設のため北朝鮮・咸鏡南道琴湖(クモorクムホ)原子力建設本部に派遣され01年8月帰国しました。
 2009年の「週刊京郷」の記事によると、彼は大学で建築工学を専攻。一方、漫画サークルで活動を続け、「華麗なるキャッツビー」の作者カン・ドハ等とムック誌「漫画実験ブーム」を作るほど漫画どっぷりの生活でしたが、卒業をひかえて漫画では暮らしていけないと選んだ職場が韓国電力。
 そして上記のように北朝鮮軽水炉建設現場で約1年半の間建設監督を任された際、実際の経験をもとに描いた漫画が「북한체류기(北韓滞留記)」全2巻で、この「出張先は北朝鮮①&②」はその翻訳本です。

 玄武岩「統一コリア」(光文社新書.2007)に書かれているように、近年北朝鮮に行く韓国人がずいぶん増えているそうで、開城工団で働いている人のブログも見たりしたことがありますが、(a)比較的長い期間、(b)平壌以外の所で、(c)直接北の人たちと接して過ごした体験を、(d)漫画本にした、というのは類書がなく、とても興味深く読みました。

           
 【呉英進さんの赴任先は日本海側の琴湖。2005年に軽水炉建設事業は廃止されたので今はどうなっているか?】

 以下、数テーマに分けて、注目した内容を整理して紹介します。
 10年ちょっと前のことなので、必ずしも今も同じとはいえないことは念頭におく必要があります。

   [A] さまざまな物品や技術のレベルの低さについて

①交通・運輸関係のインフラが整っていない。

 ▶北京空港から平壌へ行くのだが、高麗航空機はちっぽけなロシア製で、第一印象は「鼻をつくようなすえた臭いと古臭いインテリア」。座席は自由席でシートレバーはない。
 エアコンはほとんど役に立たず、シートバッグの網にウチワが入っているが、離陸が遅れている間、暑さに耐えられず一乗客が非常扉を開ける。と、飛行機は整備中だった。(出発の遅れを「平壌の天候不順のため」と説明していたのはウソ。)
▶平壌順安空港から小さな双発機に乗り換えて咸興宣徳空港へ。咸興宣徳空港は軍用で、滑走路にはところどころへこみが・・・。軍用機は第二次大戦時のような年代物。
▶咸興からミニバスで新浦へ。「咸興は北朝鮮随一の工業都市だが、とても古びて見えた」。
 未舗装の道を砂ぼこりを立ててミニバスが行く、その真っ暗な道を大勢の人が歩いている。咸興を抜けるとデコボコはさらにひどくなる。途中停車して、運転手は積んでいたガソリンタンクを取り出して燃料補充。客たちは外で立ちション。山道はガードレールなしで、一部は土砂崩れを起こしたまま。危険を知らせるため絶壁の側には石が並べられている。咸興から新浦まで100km余で5時間もかかり、やっと軽水炉事業・韓国人労働者宿舎へ。「金浦から飛行機で1時間なのに」。
▶工事現場付近を走る列車はいつも満員。乗客は身を乗り出すようにして北では見慣れない工事現場に注目していた。石炭車にも身をすくめて乗っている人たちもいたが、その後統制したのか見かけなくなった。列車はディーゼルではなく電気機関車で、停電事故の場合はその場で止まる。停止が長引くと、乗客は降りてきても焚火で体を暖めながらおしゃべりしている。


 ・・・暗い道を大勢の人が歩いている、という場面は、いろんな本で読みました。交通手段が発達していないので、長い距離を大きな包みを持って歩くというのは、ごくふつうのようです。一方、列車やトラックの荷台は、人を満載しています。

②生活必需品が不足しているようだ。ガラスやビニールのような原料素材も、日用品も。

▶高麗航空機の窓から外を眺めようとしたら、ガラスではなくアクリル製で、傷がたくさんついていて見られない。
▶上記の列車もよく見ると、客車に窓ガラスがない。
▶北の民家に接近することは禁じられているので、車で通過する時一瞥する程度だが、道沿いには造りかけで中断した奇怪な泥煉瓦の家が多い。人の住む気配はするが、戸や窓はガラスではなくビニール。
▶ビニールが高価なのでビニールハウスはない。かわりに縄で編んだ柵の中で苗床を育ててから田植え戦闘へ。所々にトイレも設置する。


 ・・・1991年に私ヌルボが北朝鮮に行った時に、窓ガラス越しに見る景色が歪んでいることに気づきました。ガラスが波打っているのです。そんなガラスでもまだマシなんでしょうか?

▶税関で箱を開けていたら税関員はペンチに強い関心を示す。呉さんが「よかったらあげますよ」と言うが早いか、ポケットに瞬く間に入れる。彼の顔に笑みがかすかに広がる。その後検査がスムーズになった。検査中もポケットの上から触りながらペンチを確かめ、また笑みを浮かべた・・・。 
▶浜辺でこっそり貝を取ってる北の男に、貝を分けてもらおうとバケツを差し出すと、男はバケツを欲しいというので翌日たくさんあげたらすごく喜んだ。


 ・・・ペンチやバケツのような日用小物も貴重品なのでしょうか。

③品質の悪さ、能率の低さは社会体制と密接に関連している。

▶脚立に乗って天井に石膏ボードを張っていた韓国人班長がネジを落としたので、下にいる労働者に「そこのネジ拾ってよ」と言うと「僕の仕事はボード運びです。ネジは拾えません」。 
▶軽水炉現場で働く北の労働者の賃金はすべて党に納めるため、個人に提供されるのは温かい昼飯だけといっていいくらい。ご飯の盛り方がすごい。食べ終えると眠気のため労働者は無気力になる。仕事をせかしても動かない。
▶呉さん「こんな仕事面白くないでしょう」 
 北の労働者「先生、仕事は面白くてやるんですか」 
 呉さん「面白いことやってれば幸福でしょう」
 北の労働者「ボクたちは幸福ですよ」
▶共同農場のトウモロコシは春先雨が降らずほとんど死にかけに。大量に動員された人たちが水を入れる作業。(呉さん「揚水機1台あればいいのに・・・」。) 一方、庭先の個人所有の畑のトウモロコシは立派に育っている


 ・・・つまり、労働者を仕事に駆り立てる動機が欠けている。これで生きていければ、過酷なまでに仕事に追われている資本主義国の生活よりいいかも、という見方は否定できませんが・・・。 

▶現場では、北の人間が車にいつも同乗する。交替の運転手でも整備士でもない。彼の任務は「運転手トンムが不健全な南の放送を聞かないかと見張っているんですよ」。 
▶北の労働者が仕事を覚えて少し力がつき、韓国の人と親しくなる気配がすると、すぐに配置換え。作業効率に問題をきたした。
▶韓国の力で港へ向かう道をアスファルト舗装したら、動員された北の人びとがその入口にコンクリートで何かを作り始める。10日ほどで塔が姿を現し、さらに何日かかけて「敬愛する将軍様万歳」「偉大な主体思想万歳」の字が刻まれた。韓国人の反応は「こんなことやる暇があったら畑でも耕せばいいのに」。


 ・・・体制維持のためのムダな仕事が多い。南の人間や文物、考え方等を非常に警戒しています。そのためのムダも厭わない。

▶セメント煉瓦の品質試験で、3個のサンプルに圧力を加えるとどれも崩れて不合格。山積みの煉瓦を「すべて壊せ」と言うと北朝鮮人の班長、「不合格の3個だけ捨てればいいじゃない。もったいないでしょ」。

 ・・・いい加減な仕事をしても責任を問われないことが多い。また、労働者が工事現場からセメント等をこっそり自宅に持ち去っている、という状況があります。

▶労働党員は90年代で300~400万人。成人の3分の1以上で、党員=支配者層・富裕層ということではないが、作業班長は党員しかなれない。

 ・・・能力があっても、埋もれてしまう人は多いでしょう。

▶最近、南北交流が活発化し、韓国製の田植え機が初めて北にもたらされた。密植に慣れた北の農民たちはそれを遣おうとしなかったが、秋になって田植え機で間隔を置いて植えた方がかえって収穫が多いのを見て、韓国の農機に信頼を持ったという。 
▶韓国から来ているの労働者宿舎完成すると、北の労働者は「湯が出る!」「(水洗トイレを見て)ウンチはどこに流れるのですか?」等々。部屋の暖房にもびっくり。


 ・・・これらの点が北の指導者層にとっては南北交流における悩みのタネなんでしょう。

       

       
     【この折り畳み蒸し器はウチにもあるぞ。たしかに通信機材に見えなくもない?】

 あれま、「フリーサイズ蒸し器でUSB接続の無線LANアダプタを強化する」なんてブログ記事があったぞ。→コチラ

 あと2回続きます。
 続きは→コチラです。
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斉藤博子「北朝鮮に嫁いで四十年-ある脱北日本人妻の手記」を読む

2012-07-29 23:52:52 | 北朝鮮のもろもろ
          

 ほんのちょっとした偶然が運命を大きく左右する事例は、身近な人たちの間にもいくつもあります。恋愛結婚で互いが知り合ったきっかけを聞くと、たまたまそこに居合わせたという偶然の機縁はめずらしくもなんともないですね。
 しかし、それらの分岐点で別の道を歩んでいたとしても、おおかたは将棋でいうところの「一局の将棋」となるのではないでしょうか。

 しかし、1941年に生まれで、中卒後地元の東洋レーヨンに勤めていた鯖江市の斉藤博子さんの場合は、1958年11月15日同僚の男性に連れられてダンスホールに行ったことが、その後の彼女の運命を大きく決定づけてしまう結果となりました。それがどんなに大きな人生の岐路だったか、その時点でわかるわけはありませんでした。 
 そのダンスホールで、たまたま一男性と知り合います。そして彼がたまたま在日朝鮮人だったことが、より直接的な運命の分岐点でした。彼に気に入られ、斉藤さんは翌59年結婚します。おりしも北朝鮮への帰国事業が始まった年で、婚家も北朝鮮に行くことを決め、斉藤さんも迷いもありましたが、夫は「首に縄をかけてもお前を連れて行く」と言い、自分も生まれて間もない娘と別れることはできない、と考えて北朝鮮に渡ることを決意します。

 斉藤さんの体験記北朝鮮に嫁いで四十年」(草思社.2010)には、以下1961年6月16日一家10人が新潟から乗船して北朝鮮の清津港についてからの斉藤さんの生活が具体的に書かれています。
 おおよそはこれまで読んだ北朝鮮本に書かれている通りですが、その関係の本を読んだことのない人には衝撃的な内容だと思います。
 とくにこれはと思ってメモした部分を列挙します。

 清津入港の瞬間から、帰国者たちはたぶん皆、「騙された」という衝撃に襲われます。「朝鮮の子どもたちは下は裸で、肌は汚れて黒い」し、空腹の自分たちに支給されたものは「ご飯でなく食べられそうもないお菓子」等々。
 一家が中国との国境の町恵山(ヘサン)に着いたのが6月30日。以後の生活はというと、日本とはかけ離れすぎていて、そのひどい状況も実感がわかないほどです。
 食糧は乏しく、電気も水道も満足にこない。娯楽もない。公開処刑を見せられたことも数回。(最初は3人が政治犯で2人が泥棒だった。)
 夫はメガネ工場の社長になったり、実家からの送金もあったりで、100%悲惨だったわけではないにしても・・・。
 実家からの送金(20万円)は朝鮮では1600ウォン相当。450ウォンでサンヨーテレビを買ったら、毎日近所の人が大勢見にきます。(かつて日本にもそういう時代はあったが。) しかし帰る時に、前にある農民大学寄宿舎の大学生が服や靴を盗んで行ったとか・・・。

 90年代に入り、斉藤さんの生活は一段と苦しくなります。
 1993年に実家の父が亡くなって送金は途絶え、翌94年は夫が死亡し配給もなくなります。
 1994年7月8日の金日成死去の時は、「行かないと悪者になる」ということで翌朝早く銅像に拝みに行きますが、そのために遠い山に供える花を探しに行ったりします。(15日間も!)
 90年代半ば以降の<苦難の行軍>の頃の悲惨な状況は、いくつもの本で伝えられていますが、本書でも、街などで目にした行き倒れの人の遺体や、浜辺で多くの餓死者が埋葬されるようすが記されています。

 この本でも、困難な中で生き抜く人たちの姿が描かれています。とくに女性。斉藤さんも、次女や3女とともにアカ(銅線)や煙草の密売をやったりもします。
 この本を読んだ人のブログ記事の多くで取り上げている衝撃的なエピソードを、私ヌルボも紹介します。
 ある日、汽車の中で警察によるヤミ商売の摘発に遭い、斉藤さんは帰国者ということで「もういいです」と言われてことなきを得ますが、赤ちゃんを連れた別の若い女性がいて、車内で何時間も泣かなかったその赤ちゃんは実は死んでいたのです。警官の指示で服を脱がせると、赤ちゃんのおなかに穴が開いていて、そこに銅線が隠されていたとか・・・。

 その時期の、生きていくための知恵と精神力、体力は言葉では表すことができません。
 夜1時間半歩いた所にある田んぼの稲穂を、用意したハサミで切ってリュックに入れ、チョグという鉄製の道具で搗く。その米でのり巻きを作り1本10ウォンで市場で売る、とか、
 そんな米泥棒だけでなくトウモロコシ泥棒もやったり、パンを作って売ったり、海でハマグリを拾ったり、ドングリで酒を造ったり等々。
 なんか、前近代的な社会というか、市場経済の黎明期といった感じです。
 当時、斉藤さんとアパートの同じ階の女性が赤ちゃんを口減らしのため洗面器の水につけて殺してしまったのも目撃します。(斉藤さんは「隠蔽」に力を貸します。「朝鮮ではこんなことが沢山あるらしいが、自分がこんな経験をするとは思ってもいませんでした。」) 江戸時代の「間引き」(何といやな言葉か)を思い起こします。

 北朝鮮の人たちにとって、山はいろいろなものが得られる場所のようです。ジャガイモをふかして売るには薪をたくさん使いますが、市場で薪を買うと儲けにならないので山で薪を集めます。すると山は禿山にならざるを得ず、それで根を掘って燃料にするとか・・・。国境の向こうの中国側の緑の山や青々とした畑はうらやましく眺めるばかりです。
 前近代といえば、次男とともに山に畑を作る話。次男が「いい場所を見つけたよ」ということで、行って2人してしるしをつけるのです。自分の畑にするには「角々の草を刈って」しるしをつけておくと「誰も手をつけられない」というわけです。この国の土地の耕作権等はどうなっているのでしょうか?

 生き抜くための苦労を強いられたのは斉藤さんの2人の息子と4人の娘たちももちろん同様です。上述の次女はヤミ商売の摘発に遭って3年間収容所で服役します。(人間よりいい豚のエサからトウモロコシの粒をくすねた食べたとか。) 三女が栄養失調で死亡したこと、中朝国境を行き来していた長女も捕まって獄中死したことは日本帰国後に知ることになります。

 結局斉藤さんは脱北ブローカーの手引きで北朝鮮から中国に脱出します。彼女としては、国外に出て日本の実家に電話で連絡し、送金してもらうという心づもりだったのです。それが「日本に行ける」と聞いてそのまま2001年日本に戻ることになるのですが、その際ブローカーたちの求めに応じてその仲間の女性を娘と偽って入国させたこと等が後に発覚して2009年に逮捕されます。裁判の判決は懲役1年執行猶予3年。
 しかし、斉藤さんの置かれた状況を考えてみれば、そんな体制の北朝鮮から脱出して日本に戻ろうとすると、たとえば中国内の日本公館がどれだけ力になってくれるというのでしょうか? そんな厳しい状況だからこそ金銭や違法出入国めあてのブローカーがはびこるわけだし・・・。

 以上、1つ1つをとってもふつうの日本人の生活からは想像もつかないような斉藤さんの体験を紹介しました。これでも本書に書かれていることの一部なのです。
 もう1つだけ、私ヌルボが読んでいて心痛んだのが夫による凄まじい嫉妬(猜疑心)と暴力。朝斉藤さんと同じ会社の男性が一緒に行こうと言って来ただけで仲を疑い、ロープで縛って木からつるし、殴りつけて「白状しろ」と迫るとは常軌を逸しています。しかし義父も義母に同様の暴力を振るっていたので遺伝なのかとも思ったりするのです。梁石日が「血と骨」で描いたような暴力的な父親像はかなり一般的なものだったようです。

 帰国事業に際して「何ひとつ不自由なものはない」と喧伝された北朝鮮社会の実態は、まったく逆の「不自由でないものはない」社会でした。
 しかし、この本を読んで驚くのは、斉藤さんの記述に、体制や指導者への、あるいは自身の運命への恨みつらみがほとんど見られないことです。
 いつも目の前の所与の状況の中で、自分ができることをやっていく。そんな順応性が、彼女を生き延びさせたのかも、と思いました。過去の日本での生活や価値観に執着していたら、スパイ容疑等で処刑されたり収容所送りになったかもしれないし、また前近代的な経済社会で、食べ物や小金を得る現実的な才覚がなければ餓死していたでしょうし・・・。
 斉藤さんの帰国後の生活もとても気になります。約200人ほどという日本で暮らす脱北者の人たちに対する継続的な支援体制はどこまで大丈夫なのでしょうか?

 斉藤さんのような帰国日本人妻の証言が貴重なことはいうまでもありません。日本人だけでなく、韓国の人たちや国際社会にとっても。(毎度思うことですが、慰安婦問題のせめて半分でも関心を持ってほしいものです。) 民間団体だけでなく、国やマスメディアももっと目を向けるべきだと思います。

※YouTubeで、斉藤さんご自身の証言がupされていました。(→コチラ。3回に分けられています。)
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小川晴久教授の6ヵ国協議批判、今も正論かも・・・ (北朝鮮の人権問題を最重要視する観点で)

2012-06-29 23:56:54 | 北朝鮮のもろもろ
 1つ前の記事で、18世紀後期の実学者洪大容について、朝鮮実学の研究者・小川晴久二松学舎大教授の本を引用しました。

 その記事でも少しふれましたが、小川晴久先生は20年近く前から北朝鮮の人権問題に取り組み、活動を続けてきた人です。

 私ヌルボが小川先生のことを知ったのは、ミネソタ弁護士会国際人権委員会・アジアウォッチ((編集「北朝鮮の人権―世界人権宣言に照らして」(連合出版.2004)の翻訳者としてです。(川人博弁護士との共訳。)
 この本の巻末に、小川先生の14ページに及ぶ解説が付いています。その最後の方に、北朝鮮の人権問題に対する世界の認識について、次のような記述がありました。

 日本の認識の遅れをよく示すのは、政府を中心に六ヶ国協議が大事だとする声が大きいことである。方法としては包括的に諸問題を解決していくというやり方で、人権問題も諸問題の一つという位置づけである。 
 六ヶ国協議で危険なのは核問題で北朝鮮が要求する「体制の保障」をのんでしまうことである。金正日の体制を保障してしまったら、北朝鮮の人権状況の改善は二〇年も遅れてしまう。北朝鮮の民衆の苦難を二〇年も放置することになる。東アジアの平和確保が先決だとか、難民の大量流入は困るとか、いずれも自分の国のことしか考えない周辺国のエゴである。北朝鮮民衆を犠牲にする六か国協議は断じて許されない。戦争の防止は人権の保障である。北朝鮮の山の中の強制収容所を根幹とする人権抑圧状況こそ是正されていかねばならない。本書は何よりもそれを雄弁に語っている。本書を読まれた人ならば包括的解決方式が正しいか人権改善でいくべきかは、自ら明らかであろう。
 今国内では、否東アジア世界では、北朝鮮に対する態度をめぐって、六ヶ国協議派と人権改善派とが真向うから対立している。小泉首相は二年以内に日朝国交を実現しようとしているが、とんでもないまちがいである。人権問題の解決なくして国交正常化はあり得ない。


 このくだりを読んで、ヌルボは驚きました。心打たれた、といった方がいいかもしれません。
 このようにはっきりと人権問題を最優先課題とする主張を目にしたのは初めてでした。とくに平和を追求する話し合いみたいでイメージ的にはよさそうに見える6ヵ国協議を批判するとは!
 また、いわゆる「保守派」「右翼」等のように拉致問題をはじめ日本人の問題のみを突出して訴えたり、政治的観点から論ずるのではなく、世界人権宣言を拠り所により普遍的な観点から論を展開している点に共感を覚えました。

 概して、韓国でも日本でも「進歩陣営」の人たちには平和的な交渉を積み上げていくことの大切さを主張する人が多いようです。
 ヌルボも、「一般論としては」それが正しいとは思いますが、これまでの6ヵ国協議等で核問題は大きく取り扱われても、人権問題については重視されてきませんでした。むしろ、本ブログでも2011年8月25日の記事「北朝鮮の強制収容所についてのアムネスティのアクション(上)」の中で書いたように、「北朝鮮・韓国・中国・ロシア・アメリカ、そして日本の6ヵ国政府は、どこも政治的・軍事的な観点から現状維持を望んでいるようです。その中で多数の北朝鮮住民が犠牲になっています」という状態がずっと続いています。

 ところが韓国の進歩陣営では、「北朝鮮人権問題の悪化原因には様々な要因が複合的に組み合わさっている」という(北朝鮮政府を弁護しているような)見方や、「国内外保守派(韓国の保守政権やアメリカ等)が北朝鮮人権問題を北朝鮮体制の崩壊のための手段としている」と韓国やアメリカでの北朝鮮人権法に異を唱え、小川先生が批判している「包括的解決方式」を追求する声が今に至るまで一般的なようです。

 そんな「包括的解決方式」に立脚した本の1例として、玄武岩(ヒョン・ムアム)北大准教授の「統一コリア」(光文社新書)があります。およそ韓国の進歩陣営の立場に立った内容だと思いました。その中で、とくに人権問題について疑問に思った箇所を引用します。

 「脱北者」を難民とみなして自国への亡命を認める、米国で制定された北朝鮮人権法(North Korea Human Right Act)は、かえって南北関係をこじらせる結果を招くとして憂慮されている。同法が結局は人権を名目にして北朝鮮の崩壊をもくろんでいることで、脱北支援活動が活発化されることが予想されるからであった。また「北朝鮮の住民は韓国の憲法によって享受する法的な権利によって、米国における難民地位や亡命資格の獲得に妨げられることはない」とする項目も、北朝鮮との和解・協力を重視する韓国政府(盧武鉉政権)を困惑させた。

 人権問題の追及をすべて「名目」と捉えるのですか? また、人権よりも体制維持の方が優先されるのですか?

 たんなる思想であれば、社会主義は韓国内での急進的な運動として花を咲かすことなく摘み取られた革新運動となんら変わりはない。しかし、全国民が不動産投機に走り、新自由主義的なグローバル化へのシンクロが進む韓国的な状況から照らし合わせてみても、破たんしたとはいえ一度は理想に向かって現実化した北朝鮮の住民と共存するなかで、そこから救い上げられるものはけっして少なくないはずである。また、その共存は、同胞たちが嘗めてきた多大な苦痛を理解し尊重するための課程(ママ)でもある。 
 それによってとっくに半世紀を超えてしまった分断の経験を無意味にすることなく、それぞれの時代の財産と教訓にして、「過程としての統一」に生かすことができるのである。


 社会主義が北朝鮮で「一度は理想に向かって現実化した」と捉えていますが、政治学者として、かつてのスターリニズムの現実とそのたどった過程をどう理解しているのでしょうか? また北朝鮮の人々が政治的意見を持った市民で、またその意見が反映されるような社会だと思っているわけではないでしょうね!? ヌルボも昔から理想を語ったりもしてきましたが、ここまであまくはないですよ。

※玄武岩「統一コリア」については、→コチラのブログ記事で手厳しく批判されています。
 彼の先生の姜尚中氏については、さるブログに次のような興味深い記事がありました。
 「2003年8月16日の、佐高さんが客員教授を勤める東北公益文科大学での姜、佐高対談(角川文庫「日本論」に収録)で、対談後の質疑応答の時間に、ある学生さんが「姜教授は拉致問題の解決は6カ国間の協議で解決すべきだと言われるが、私はもっと国際的な手続きを重視べきだと思うがどうか」というような質問をしたところ、姜教授は「極端な話だが正義よりも平和を尊ぶべきだ」という答えを出されました。このことに川人弁護士は疑問を呈したのがそもそもの姜教授批判のきっかけとなったのですが、そのとき対談者の佐高信さんは特に反応しなかったということがありました。」
 姜尚中氏は川人博氏の他、鄭大均・三浦小太郎両氏の著作でも名指しで批判されたりもしていますが、ここらでしっかりとした説得力ある反論、北朝鮮論を期待したいところです。(皮肉に非ず。)
 また「日朝関係の克服」(集英社新書)等で一般読者からも厳しいコメントを書かれていますが(→コチラ)、やはり師弟とも北朝鮮認識は基本的に共通していますね。

※玄武岩「統一コリア」には、開城工団等韓国と北朝鮮の間の人的交流の拡大についても(とても肯定的に)書かれていましたが、これについてはいずれ別記事にします。

 最初の小川先生の「6ヵ国協議批判」に戻ります。
 人権問題を最重点課題とすると、北朝鮮に対して厳しくならざるを得ません。だからといって、それは軍事的圧力や経済制裁に直接つながるものではない、というのがヌルボの意見。
 北朝鮮の人権の実態を伝える日本書や韓国書を各国語に翻訳したりして国際社会に広くアピールすること自体が力になるでしょう。脱北者も積極的に支援する。北朝鮮への食糧支援はすべきだとは思いますが、北朝鮮政府はの分配監視条件付き支援を拒否しちゃってるからなー・・・。(関連ニュース→コチラ。)

 小川先生の文中でもうひとつ気になる言葉が、北朝鮮が要求する体制の保障(証?)」。これはどういうことか、ちゃんとした説明は少し探しても見つかりませんでしたが、たとえば①アメリカや韓国等が軍事力を行使して北朝鮮の体制を倒したりはしないという保障、②北朝鮮の現体制が崩壊しないように支える(??)・・・の、①の意味なのか、それとも②まで含むものなのか?
 小川先生の文章では「体制の保障」=「金正日の体制の保障」=「人権状況改善の20年遅滞」と捉えている、ということは②まで含むということのようですね。
 それで間違いないとすると、「体制の保障」を北朝鮮政府が求めるとはなんと面妖な、と思わざるをえないのですが・・・。人権問題のような、現代では国のワクを越えた普遍性を持つと思われるような問題についてさえ「内政干渉だ」と反発するのに、国の体制のような、まさにその国の主権に関わる重要な事柄について他国が保障するといったものでもないでしょうに・・・。崩壊の瀬戸際に立たされている政権を他国が支えるとなると、それこそゆゆしき内政干渉でしょう。・・・よくわからん。
 <アジアプレス>のサイト掲載の日本で暮らす脱北者女子学生の手記「リ・ハナの一歩一歩」の2009年の記事中に次のような内容の一文がありました。
 米韓両政府が北朝鮮に対して「核の廃棄と引き換えに金正日体制、現体制の存続を保証する案を検討中」という新聞記事を読んで「今の北朝鮮の体制―金正日総書記、若しくはその子孫たちが君臨し続ける体制の存続を認めるというのは如何なものなんだろうか。その体制の下で苦しみ続ける庶民たちに対する何らかの保証はあるんでしょうか」ということが気にかかる、というものです。
 こうした心配が的外れでないとすると、ヌルボも「体制保証」には当然反対です。

 たまたま「本ばかり読むバカ」というジュニア向け歴史小説を読んだことが契機となって、小川晴久先生の北朝鮮関係の本もひもとくことになりました。
 開明的な知識人としてはごくふつうに北朝鮮にプラスイメージを持っていた小川先生が北朝鮮の人権状況に目を開かされたのは、1993年に在日朝鮮人帰国者家族の証言を聞いたのが契機だったそうです。その後の先生の熱意と行動力には頭が下がります。
 しかし、その時からもう20年近く経ってしまいました。
 「北朝鮮の人権」の共訳者・川人博弁護士は、あとがきで「「北朝鮮はひどい国だ」ということについてはほぼ世論は一致している。ただ、だからと言って、北朝鮮の人権状況を改善しようとする活動が発展しているとは必ずしも言えない」と書いています。
 そして今、状況はどのくらい変わっているのでしょうか?  
 韓国と、世界は近ごろそれなりに(不十分ながら)変わってきたかな、とヌルボには感じられます。ところが、総体としては北朝鮮や日本を筆頭にたいして変わっていないのではないでしょうか?
 北朝鮮の人々の置かれた状況についての直接の責任は北朝鮮の支配者にあるにせよ、「6ヵ国」を構成する1国である日本国民にも、もしかしたら、いや、たしかに責任の一端はあると思いますよ。
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76年前の「その国」と現在の「この国」

2012-05-11 20:06:18 | 北朝鮮のもろもろ
 崇高な理念を掲げて樹立された<この国>
 <作家>は、「ユートピアが現実のものとなりつつある国」との熱い共感を<この国>に抱いていました。
 一方、<この国>に対する非難は非常に激しく、それは「破廉恥きわまりないほど」と彼は書いています。
 <作家>は、旧知の間柄だったこの国の作家が病の床にあると聞き、見舞いの目的でこの国を訪れます。重病の作家は到着の翌日会えないままに亡くなりますが、<作家>は当地の作家同盟の賓客として、この国の各地を約2ヵ月間見てまわります。

 帰国後、<作家><この国>の旅行記を出版します。
 以下は、その内容の一部を略述したものです。

[A]
 公園等ではアコーディオンの伴奏で歌を歌っている人たちやバレーボールをやっている人たちがいる。楽しそうな雰囲気である。少し離れたところに室内競技場もあって、人々は将棋やゲーム等を楽しんでいる。野外劇場では、多くの人が演劇を鑑賞している。
 みな身なりはきちんとしているし、誠実さや礼儀が感じられる。


 ・・・大多数の国で、ふつうにあるような光景でしょう。予告しておくと、このような「ふつうの(orそれ以上に好ましい)」記述があることに注目!なのです。

[B] 
 若者たちによる整然とした行進は何時間も続いた。「私はこんなに目覚ましい光景を想像だにしなかった。・・・これらの若者をつくりだすことのできる国と制度にどうして感心しないでいられようか。」

 
 ・・・このような好意的・肯定的な記述だけではなく、批判的な感想が後になるにつれ多くなっていきます。

[C] 
 商店の前で、開店を待つ人たちが長い列をつくっている。
 しかし、品物はほとんどがっかりさせるような粗悪なものである。しかし選択の余地はないのである。ちっとも未練を感じさせないあの過去は別としても、他に比較するものをもたない彼らは、与えられたものに満足しなくてはならない。要は、人々に可能な範囲において幸福であると信じ込ませることである。他のどこの国の人間よりも・・・。こうしたことは、細心に外部とのあらゆる接触を妨げることによってはじめてできるのである。いわば、彼らの幸福は希望と信頼と無知によってつくられているのである。 

[D]
 異常な画一というか一致というか、そんなものが民衆の服装にまで現れている。と同様に、もしも人々の精神を見通すことができれば、そこにもひとしく画一的なものが潜んでいるのじゃないかと、ふと考えさせられたほどである。
 住宅も同様である。同じように粗末な家具、同じように指導者の肖像があるが、他のものは完全に何もない。

[E]
 人々は、すべてのことに一定の意見しかもてない。だが人々は皆非常によく訓練された精神の持ち主となっているので、こうした画一主義も平気なものとすらなっている。しかもこのような精神の鍛練は、ずっと幼い子どもの時代から始められる

[F]
 批評精神はほとんど完全に喪失している。批評は、告発や忠告(食堂のスープはよく煮えていないとか・・・)以外には、またこれこれのことは「基準にかなう」ものかを問うこと以外には存在しない。論議しているのは、基準そのものについてではなく、この作品やあの身振り等がこの神聖な基準に一致するものであるか否かを知ることである。基準の範囲を一歩でものりだした批評は許されないのである。

[G]
 彼らにとっては、この国以外の国々はすべて、夜の闇につつまれているのである。つまり若干の破廉恥な資本家を除くと、あとのすべての人間は闇の中でもがいているように考えられているのである。

[H]
 歓迎会等では、指導者のための乾杯がくり返される。彼の肖像はいたる所にみられる。どんなに惨めなむさ苦しい部屋にも。工場の事務室にある大きな絵の真ん中には演説をしている彼の姿が描かれている。両側には政府の幹部たちがずらりと並んで拍手している。

[I]
 「今日この国で要求されているものは、すべてを受諾する精神であり、順応主義(コンフォルミスム)である。そして人々に要求されているものは、この国でなされているすべてのものに対する賛同である。のみならず、為政者たちが獲得しようとして努めているものは、この賛同が諦めによって得られた受動的なものではなく、自発的で真摯なものであり、さらにそれが熱狂的なもののように望まれているのである。そして、何よりも脅威に値することは、この要求が達せられていることである。
 また他方、ほんのわずかな抗議や批判さへも最悪の懲罰を受けているし、それに、すぐに窒息させられているのである。
 私は思う。今日いかなる国においても、たとえヒットラーのドイツにおいてすら、人間がこのようにまで圧迫され、恐怖におびえて、従属させられている国があるだろうか。」

[J]
 作家は、優遇に対する感謝のメッセージを指導者に送ろうとして郵便局に立ち寄る。「私はここから貴方に心から・・・」と書き始めると、翻訳者は「貴方」だけでは不十分で、前に「労働者の先導者」とか「民衆の主である・・・」というような言葉をつけることを提言した。「こんな馬鹿馬鹿しい話はないと思った私は、指導者はそのような阿諛追従を軽蔑する人に違いないと抗弁した。が、いくら言い争っても問題にならない。」(結局、作家は我を折ってしまう。「電文に関するかぎり一切の責任は負えないと声明して。」

[K]
 「あれだけの努力を尽くし、あれだけの年月を経たからには、彼ら民衆も少しは頭をもたげてきたことだろう、とわれわれは期待していた。-だが、彼らの頭はいまだかつてこれほどまでに低くかがめられたことはないのである。」


 ・・・冒頭でわざと書きませんでしたが、<この国>とはソヴィエトで、<作家>アンドレ・ジイドです。(近年の表記はジッドがふつう。) そして彼の旧知の作家とはゴーリキーのことです。

            
   【1937年発行の岩波文庫版では「ソヴエト旅行記」と表記されています。】
 
 このジイドのソヴィエト訪問は1936年夏。帰国後著した「ソヴィエト旅行記」は大きな反響をよびました。
 とくに左翼系の人々は彼をさまざまに批判しました。「一部しか見ていない」「敵を利する」「変わりつつある社会を、長い目で見るべし」等々。
 これらの批判に対して、ジイドは続けて「ソヴィエト旅行記修正」を発表します。「修正」といっても、内容は反省や自己批判ではなく、さらに具体的な資料もあげた上でソヴィエトの体制批判を記したものです。
 その内容を一部抜粋して略述します。

[L] 
 批判者の示す資料は彼らに与えられた数字。その旅行も、相手が見せようとしたものだけに過ぎない。

[M]
 「出世の秘訣は犯罪の密告だ。・・・やがて人はあらゆるもの、あらゆる人に、心を許さなくなる。無邪気な子供の言葉が君を破滅させることも出来るのだ。」

[N]
 「ソヴエト連邦内を仔細に歩き廻った人たちは、・・・一歩大都会を去って、普通ツーリストが旅行する経路から離れたら、たちまち幻滅したはずだと言っている。」

[O]
 「ソヴエト連邦で僕等が見るものすべて陽気なのは、この国では陽気でないものがさっそく、胡散くさく思われるおそれがあるからであり、寂しそうなようすをしたり、さびしさを外に出したりすることが、非常に危険だからだ。」

[P]
 「今日、ソヴエト連邦で、「反対派」と呼ばれているものは、実は、自由批判と、自由思想でしかないのだ。スターリンは、賞讃だけしかうけつけない。彼は喝采しない者を、すべて敵だと認める。」

[Q]
 「仏領赤道アフリカを旅行したとき、誰かに「案内されて」いる間は、すべてがほとんど素晴らしく目に映った、といったことを私はすでに書いたことがある。私がはっきり事物の姿を見はじめたのは、総督が回してくれる自動車におさらばして、単身徒歩で、この国を歩き回り、半年の時日をかけて、原住民たちに直接接触しようと思ったそのときからである。」


 ・・・ジイドが仏領アフリカに赴いて植民地支配を厳しく批判した「コンゴ紀行」を出版したのが1927年。その時は右翼の側から「植民統治の恩恵」や「ジイドの非政治的虚論」を持ち出した非難が多かったそうです。そしてこの時は左翼の側から同じような非難が・・・。ジイドとしては、プロパガンダの文を期待する(強く求める)政治権力の誘いを厳しく拒否する姿勢に変わりはありません。
 そして最後の文章が次の[R]です。

[R] 
 「ソヴエト連邦は、僕等が期待したもの、彼自身が約束したもの、彼自身がまだ斯くありと見せかけようとしているものでは、既になくなってしまった。彼はあらゆる僕等の希望を裏切った。僕らが若し、希望を失いたくないと思ったら、余所へその希望を移すより他に仕方がない。
 然し、僕等はお前から眼をそむけはしない、光栄ある、そして痛ましいロシアよ、最初、お前は僕等のために模範になってくれることが出来たが、今や悲しいかな、お前は僕等に見せてくれるのだ、革命といふものが、どんな砂の中に填(はま)り込んでしまひ得るものかを。」


 ここまで「ソヴィエト旅行記」と「ソヴィエト旅行記修正」の内容をいろいろ紹介しました。
 その意図がどこにあるかというと、本ブログの趣旨からきっとお察しのように、76年前の「その国」ソビエトと、現在の北朝鮮があまりにも似ている、ということです。
 今個別には書きませんが、上記の各文の下線を付けた部分は、北朝鮮にもそのままあてはまることです。
 北朝鮮の体制が、<スターリニズム>と、戦前日本の<天皇制ファシズム>と、朝鮮の伝統的な<儒教による支配体制>の混合であるとはしばしば指摘されている(?)ことですが、今「ソヴィエト旅行記」を読み返して、ここまで共通点があるとは思いませんでした。
 そして1936年のソヴィエトと現在の北朝鮮という両者を隔てた年数の差を考えると、言葉を失うほどです。人々は、あるいはわれわれは、あるいはとくに政治に理想を求めてきた(主に「左翼」の)人々は、一体歴史から何を学んできたのか・・・?

 私ヌルボが、以前1度読んだことはあるものの、詳細は覚えていなかった「ソヴエト旅行記」を読み直し、さらに今はレア本で横浜市立図書館では館内閲覧のみになっている「ソヴィエト旅行記修正」にも目を通したきっかけになったのは、柳美里「ピョンヤンの夏休み」(講談社)を読んだからです。
 その中に、牡丹峰(モランボン)や大同江を散策した時の、平和で和やかな人々のようすが描かれています。そして柳さんは、彼ら市民が「サクラ」であるはずがない、と記しています。
 この箇所を読んで、私ヌルボが思い出したのがジイドの「ソヴィエト旅行記」だった、ということです。具体的には、先にあげた[A]に書かれている部分です。

 [A]にみるような平和で健康的で、幸せそうな光景と、[B]、あるいはとくに[C]以下のような国家体制とは決して相容れないものではないようです。
 このブログ記事で、ヌルボがまず記しておきたい点がそのことです。(2番目が、上述の70年以上隔てた2国の体制の相似、いや酷似。)

 この問題は、最近4月15日の「太陽節(金日成誕生日)」を期して北朝鮮に取材に出向いた多くのジャーナリストの報道姿勢や、その報告記事の内容にも関係しています。
 その件については、別記事にします。(たぶん。)

※柳美里の作品は、感性とか情念といったものを拠り所としたものなので、それを政治的・社会的なモノサシをもって非難しようという気は毛頭ありません。

※宮本百合子は1937年「文藝春秋」2月号で「ジイドとそのソヴェト旅行記」を発表し、ジイドを批判しています。全文は、青空文庫で読めます。→コチラ
 作家ジイドの生涯を貫く最も著しい特質、純粋な誠実を自他に求める情熱への自覚的献身の欲求が、今度のソヴェト旅行では、かえってジイドの現実的理解を制約する力となっていることは、実に意義深い我々への教訓であると思う。(中略) ところが、一方に告白されているような政治的、経済的無識が彼の現実を見る目を支配しているのであるから、ジイドは基本的なところで先ず自己撞着に陥り、観念の中で、心象の中で、把握している新社会の存在が、その本質に於て、違った土台の上に建っている経済的・政治的・文化的現実であることが、具体的にわからなかったように見える。ジイドは、自分がコンゴーを観た観かた、どこでも、何にも目を奪われず、常に絶対に誠実であろうとする自己の主観的な常套にのみ固執し、それに意識を奪われて大局を見誤っている。
 ・・・大局を正確に把握することがいかにむずかしいかを物語っている文章です。
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石丸次郎氏の講演(2) 「国際社会が人権問題に関心を持つことが北朝鮮へのプレッシャーになる」

2012-04-20 22:42:18 | 北朝鮮のもろもろ
 1つ前の記事の続きです。

 この講演会の場では、2年前の講演会の時にも来られた脱北者の李さんがご自身の体験を話されました。高校2年の時家族で北朝鮮に渡り、46年ぶりに日本に帰還したという彼は、「これまでの苦労は一晩どころか1年しゃべっても語りきれない」と前置きしながらも語ったことを以下略述します。

・高卒後、志願して炭鉱に行き、そこで4年間働いた。志願理由は、食料の配給が一般は700gだったが炭鉱だと900gでたくさん食べられるから。しかし炭鉱労働者は(金日成は称えてくれたが)毎日事故で死者がでるほどで、「坑夫と漁師には嫁に行くな」と言われたりした。炭坑夫の出身は地元の人が4割。そして、かつて徴用とかで慶尚道や全羅道から来た人。また平壌や沙里院から来た昔の地主や、朝鮮戦争の時南に行った人の家族(つまり「成分がよくない人」)など・・・。

・(石丸氏の「周囲に政治犯はいましたか?」の問いに)しました。同じアパートの3階に住んでいた音楽家の一家で、朝5時半頃朝食の直前に保衛部の人間が来て・・・。泣きながらトラックに乗せられて行きました。ピアノも・・・。

・87年、労働党員の突撃隊員(分隊長)の時、近く(咸鏡北道鏡城(キョンソン))の11号管理所の解体作業をやった。驚いたのは罪人(=政治犯)の1人用の「ねぐら」。長さは2mくらい、高さは約90㎝で、地下80㎝ほど掘り下げた、犬小屋ほどの大きさで、上に木の葉を乗せビニールをかぶせる。そこに横たわって寝るのである。その「ねぐら」の前に豚小屋があるが(これも防寒のため地下を掘って作る)、見分けがつきにくい。1年に1人が100㎏のブタを飼うことが義務づけられていて、ブタにやるトウモロコシを自分が食べてしまうと叩かれる。
 政治犯の家族の住まいは別にある。収容所には、酒・レンガ・瓦・テーブルやたんす等を作る工場がある。

・つらかったことは、1に食料問題。それから、言葉ひとつ間違っても大変なことになるので、うかつなことが言えないこと。
 また、地位によって権力の差が格段に異なること。たとえば警官が市場で「Marlboroをよこせ」と強要するのに対して、拒否したら殴る蹴るの仕打ちを受け、反抗できない。

・配給が停止したのは1993年。ソ連・東欧諸国の崩壊で・・・。95~97年は、あちこち石ころみたいに死体が転がっていた。腐った強烈な臭いが漂っていた。中国に渡って、日本にいる姉宛てに手紙を投函し、その後30万円送られてきたが、それを受け取りに平壌まで行かなければならなかった。東京~広島間くらいの距離で、1週間かかった。食べる時は(臭いを避けて)風上で食べた。「阿鼻叫喚の生き地獄」だった。耳に虫がわいている人、ネズミにかじられて目玉が無い人等・・・。子どもに水を盗まれたが、放っておいた。値打ちのある骨董品等がすごく安い値段で売りに出されたりしていた。「買っておけばずいぶん儲かったかもしれません(笑)」。

・(石丸氏「改善のために、外の人間はどうすべきだと思いますか?」)6者協議等では北朝鮮はびくともしません。アメリカがもう1歩前に出て、北朝鮮と中国に強く対してほしい。人権問題を解決しようと思ったら、独裁体制を倒すしかありません。


 私ヌルボ、「苦難の行軍」の時期の飢餓の実情や、管理所の「ねぐら」の話は、前回の講演会では出なかった話で、興味深く聞きました。
 最後に彼が述べた「強硬論」には、石丸氏、ややとまどったようすでしたが・・・。

     
   【石丸次郎氏。彼も「レッツノート」を使ってましたねー。「脱北者の李さんの写真は撮らないで」と主催者側から。当然ですが、このこと自体がこの問題の状況を物語る一例。】

 石丸氏が最後に強調したのは、「国際社会が人権問題に関心を持つことが北朝鮮政府へのプレッシャーになる」ということ。一昨年の講演会でも語っていたことですが、96~98年当時は、多くの脱北者に「人権(인권.インクォン)」について質問しても、その言葉を知らないで「それは何の<券(권.クォン)>のことか?」という誤解もあったのが、3~4年後には通じるようになったそうです。その間、国際世論の高まりの中で、北朝鮮内でも「人権査察が入るとまずいから・・・」ということで取り調べの際の暴力が減ったそうです。

※石丸氏の話では、韓国から北朝鮮に送還された非転向長期囚(ヌルボの注.34年間獄中にあった李仁模(イ・インモ)?)が、北朝鮮の収容所を見て回って、「南朝鮮の刑務所はこんなにひどくはなかった」と金正日に改善を提言した、という「うわさ」が広まっているそうです。
※ヌルボのネット検索によると、関連で、諸サイトに次のような考えようによっては悲しい、皮肉っぽい笑い話が載っています。(例→コチラ。)
 北朝鮮では、30年以上の収監生活は常識では考えられないことである。とてもそんなに長く生きられるはずがない。韓国の監獄では1日3度の食事を多様なメニューで提供するが、李仁模老人のようにそれを食べないでハンストまでするなどは想像もできないことで、ある脱北者は「それは監獄ではなくて天国だと思った」と感想を述べた、ということです。

 石丸氏は、国際社会からの批判に対して朝鮮中央通信が「人権に名を借りた内政干渉である」とか、「日本は(あるいはアメリカ、韓国は)どうだ? (差別等の)人権問題があるではないか!」と反駁しているのは「国際社会の評判を気にしている証拠」だと見ています。

 まだまだ石丸氏としては話し足りない、聞く側も聞き足りない雰囲気でしたが、すぐに大阪に帰らなければならないとのことで、最後に会場からのいくつかの質問に答え、2時間の講演を終えました。
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