今年1月に『時間はどこから来て、なぜ流れるのか?』(講談社ブルーバックス)という時間論の著書を上梓したが、その執筆中に痛感したのが、「常識」を覆すことの難しさである。
ここで言う常識とは、多くの人が当たり前だと信じる知識というより、当たり前すぎて疑うことを思いつきもしない思考の枠組みである。時間に関しては、「現在しか存在しない」と思ってしまうことが、そうした常識に相当する。
日常的な実感として、「現在」という瞬間が唯一のリアルな時刻であることは、疑問を差し挟む余地のない当たり前の事実に思えるかもしれない。だが、現代科学は、この常識を根底から覆した。
「現在」と呼び得るリアルな瞬間を特定することは、科学的な手法を用いる限り不可能である。時間は「現在」のような特別な時刻が存在しない拡がりであり、同じような拡がりである空間と併せて「時空」を形作るというのが、現代科学の基本的な世界観なのである。
問題は、この科学的には自明な主張を、どのようにして一般の人に伝えるかである。
「現在」を特定することの難しさは、「現在の時刻を測定できるか」と問い直してみるとわかりやすいだろう。時間を連続的に計測するためのアナログ時計は、どの時刻でも同じように動作するので、それだけを使って「針がどの位置に来たときが現在か」を決めることはできない。
それでは、時計を見る人がいれば現在の時刻がわかるのか? 私が時計を見ると、針が3時を指していたとしよう。そのときの私にとって、現在は3時である。
しかし、10分前の私にとっては3時10分前が現在であり、10分後の私にとっては3時10分が現在である。「そんなの、当たり前じゃない」と思うかもしれない。しかし、ならばどこかに「真の現在」が存在するのかを改めて考えれば、事態がそれほど当たり前でないとわかるはずである。
自分という観測者によって現在の時刻がわかるという考えは、誰しも陥りがちな錯覚に根ざしている。人間は、往々にして、自分が時間から切り離された実体であり、この実体が時間の流れとともにさまざまな体験を重ねると考えがちである。
だが、この考えは、仏教で謂うところの「我執(がしゅう)」が生み出した虚妄に過ぎない。時計を見て3時だった場合、「現在という特別な瞬間が存在し、それは3時である」と考えるのは、まさに我執にとらわれた見方である。
現代物理学における解釈は、ずっと単純である。