先週末以来、体調がよろしくない。定期的な治療を受ける身になってみると、投薬のタイミングやら検査のあれこれでカラダのコンディションが変わりやすくなる。と、その変化に呼応して、気分や人生観がわりとカジュアルに変わってしまう。これはもう、どうすることもできない。
そんなわけで、病を得てからこっち、自分が、思考の主体である前に、まず生き物であるという事実に直面している次第だ。
生き物である限りにおいて、ものの考え方や感じ方は、外的な客観状況よりは、ほかならぬ自分自身の健康状態や体調に、より端的に左右される。そういう意味で、いま私がとらわれている憂悶は、あまりマトモに取り合うべきではないのだろうとも思っている。
とはいえ、本人にしてみれば、アタマで思うことよりはカラダで感じることのほうが切実でもあれば現実的でもあるわけで、ということはつまり、うんざりした気分の時に、啓発的な原稿を書くみたいなうさんくさい仕事ぶりは、技術的に困難である以上に、作業として胸糞が悪いので、取り組む気持ちになれない。
週に一遍やってくる原稿執筆の機会を、私は、客観的であることよりは正直であることに重心を置きつつ、粛々とこなしていきたいと考えている。ありていに言えば、気分次第で書きっぷりが変わってしまうことを、自分の側からコントロールするつもりはないということだ。
コラムニストは、エビデンスやファクトを材料に思考を積み上げて行くタイプの書き手ではない。
別の言い方をすれば、私の文章は、私の思想や信条よりも、より多く気分や感情を反映しているということでもある。読者には、ぜひそこのところを勘案してほしいと思っている。
「ああ、オダジマは機嫌が良くないのだな」
と思ってもらえれば半分は真意が伝わったことになる。
残りの半分はどうでもよいといえばどうでもよろしい。蛇足の残余のおまけの付け足しに過ぎない。
先週末にまず私を失望させたのは、7月に開幕する東京オリンピック・パラリンピックの開閉会式の演出を委ねられている狂言師の野村萬斎氏が、五輪の開会式にアイヌ民族の伝統舞踏を採用しない旨を発表したニュースだった。
思うに、これは、単に演出上の制約からアイヌの伝統舞踏をプログラムに組み入れることができなかったという筋のお話ではない。
そもそも、アイヌの踊りを開会式の舞台に推す声は、インスタ映えや演出効果とは別次元の要望だ。
アイヌ舞踏の開会式プログラムへの編入は、朝日新聞が3月3日に配信した記事(「五輪開会式でアイヌの踊りを『オリパラ精神にかなう』」で紹介している通り、
《リオデジャネイロやシドニー、バンクーバーなど過去の五輪では先住民が開会式に登場した。》
というこれまでの国際社会の取り組みを踏まえた、先住民としての自覚の反映だったといってよい。
コメント67件
おか
フリーランス
今年の夏は資格試験があるためオリパラどころではなく、昨年末からテレビも処分して日経ビジネス以外のマスメディアとは縁を切っています。とても楽ですよ。
山川草木
小田嶋さんの意に反して啓蒙的な内容だったと思う。オリンピック問題は人類的問題ではあるんだろう。
私の理解では狩猟採集的縄文人を農耕的弥生人が排除融合しつつ一定の文化圏を作ってきたのが日本のこれまでの歴史だが、近代国家の建前でいえば内部の
多種多様な文化を尊重する義務はあるだろう。
...続きを読む狂言も元は猿楽である。なぜ、サルか。私の仮説だが、異形の者をバカにしてサルだといって笑うのが猿楽だったのではないか。異形の者とは狩猟採集の野蛮な輩である縄文人であったとは想像される。
体制側からみて排除の論理によって成り立っているのが狂言であるとすれば、歴史的経緯からみて狂言にとってアイヌが「はまらない」のは当然のことだろう。
狂言をやるような人々も元ははぐれもので排除される側だった可能性がある。体制に媚びることで立場を確保してきたことを思えば、さらに下を差別する差別連鎖の構図は根深く、まして民主的なユニバーサルな視点に立つのは難しかろう。
とはいえ、長らく農耕文化中心だった日本もすでに農業従事者は全体の数%にすぎないのが現状だ。農耕マインドが現代社会に適応的か疑問である。最近はノマドとか遊牧的な生き方が持て囃されたりもしている。むしろ狩猟採集的な生き方の方が合理的ではあるまいかとすら思える。少なくとも現代にマッチした個人や集団のあり方を構築し直す必要に迫られてはいる。
そんな中でオリンピック。
古代オリンピックというのはポリス同士の、一種の民族間の競いあいだっただろう。それをクーベルタンが民族から個人へといった理想を掲げて始めたのが近代オリンピックということなのだろう。
実際は国家間のナショナリズムの発露でもあり、クーベルタンの理想は斜陽の大英帝国的ユニバーサリズムだった可能性も高そうだ。
私個人としては「個人尊重」に与したい方だが、野村萬斎のように民族的な多様性を基本に考える人がいても不思議はないと思う。
そもそもオリンピックがナショナリズムとユニバーサリズムという矛盾を孕んだものであり、資本主義的欲得が絡んでモンスター化しているのが現状、これはなかなか度し難い。
我々の自衛策としては、個人、民族、国家、世界と多層的な思考法でも訓練しておくしかないのではないか。
佐藤
上記は1ページだけ読んでの感想だが、最後まで読んだら少し違った。
こんな原稿を書くような気分でいる小田嶋さんに、早く良くなってほしいと心から思います。
下鴨トレーダー
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コラムに反対意見の人もこの様に考えれば納得すると思う。
民主党政権のときにオリンピックが誘致され、津田大介芸術監督が作った開会式がトリエンナーレのようだった...
(ジョークです。すぐに消される?)
ちゃた
そもそもアイヌを絡めるのはIOCの命令なのかな。
そんな事ないですよね。
小田嶋さんだってアートは何でもありで人々がどう思おうが表現者の自由だ、と過去に書いてますよ。
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