アメリカ先住民の教訓
On Extinction of an Indigenous
Cultures, unlearning of indigenous people as ecologically harmonious
people
この2年[1991-92年当時]ほど,私は私立大学で文化人類学の講義を担当している。学生たちが, なるべく退屈しないようにと劇場用映画を資料に使う。昨年[1991年]の講義のなかで学生たちにその要望を取ると,一番人気が高かったのは,ケビン・コ スナー監督・主演の『ダンス・ウイズ・ウルブス』だった。
これは,1863年ごろの平原インディアン(=北米の先住民、近年ではネイティブ・アメリカンということが多い)の有力なグループで あったダコタ※の人たち(通称スー族)と南 北戦争下の北軍から任地をフロンティア に求めたすこし変わり者の中尉ダンバーとの交流を中心に,追いつめられゆくインディアンの生活を大自然のなかで描いたものだ。
※原作は、マイケル・ブレイクの小説で、その中での先住民族はコマンチの人たちであり、 ダコタへの変更は、あくまでもロケ地の都合によるものらしい。
映画のなかの19世紀中頃のダコタ(あるいはラコタ)の人たちは,馬を駆使して勇壮に野牛を狩っていた が,もともと彼らは野生の米やトウモロコシを栽培する農耕民であったといわれている。
1880年頃のラコタのキャンプ
他方16世紀以来,新大陸の植民者であるスペイン人たちがメキシコに馬を導入した。彼らは現在のアリゾ ナやニューメキシコに植民地を築き,その土地のインディアン——総じてプエブロ・インディアンと呼ばれている——をカトリックに改宗しようと企てていた。
しかしながら17世紀の終わりにプエブロ・インディアンたちは反乱を起こし,一時的ではあるが支配権を 取り戻した。その際に,スペイン人たちの騎馬の習慣がインディアンたちにもたらされ,馬を飼育することをはじめた——もともと新大陸には馬はおらず、騎馬 の習慣も無かったのである。馬を利用して狩猟する方法は,18世紀を通して平原インディアンのあいだに、瞬く間に広がったのである。
周辺の部族と同じようにダコタの人たちも馬を野牛の狩猟に使うようになるが,18世紀末にはそれが本格 化する。さらに彼らの一部は,それに先立つ17世紀にフランス人と接触しており,ビーバーの毛皮などの交易を通して,銃を手に入れていたのである。彼ら は,それまで徒歩で野牛を狩り,獲物を木をV字型に組んだ犬のソリで運搬していたのであるから,馬と銃を使った狩猟の効率の改善は驚くべきものであったこ とは想像に難くない。
狩猟効率が上がること,それはすなわち彼らの食糧事情が改善することを意味した。その結果ダコタの人た ちの人口は19世紀の前半に飛躍的に増加したのである。
ダコタ・インディアンの人口の増加は周辺の他の平原インディアンの脅威になり,なわばりをめぐって実際 に数多くの抗争が繰り広げられた。もっともインディアンのグループどうしの抗争とは,19世紀後半に頻発した白人がインディアンとの間で仕掛けた戦闘のよ うに平定を目的としたもの——その結果多くの殺戮が生じた——ではなく,相手のグループに脅威を与えれば十分といったものであった。しかしながら,長期に わたるこのような抗争において,劣勢の集団には他の地域への移動を余儀なくされたり,また和睦による不利な調停に屈しなければならなかったことは事実のよ うである。
白人との長期にわたる接触の結果,インディアンのそれぞれの部族の関係が変化し,19世紀初頭にみられ るような彼らの生活様式が徐々に形成されていったのである。
白人たちは19世紀中頃からインディアンたちが狩猟を続けていた土地で野牛を大量にそして不用意に殺戮 したことも、インディアンの白人に対する憎悪を高めた——白人が野牛を食用に使ってもそれは野牛の舌だけであった。高まったダコタの人口を確保するための 食物資源が,まさにそのとき枯渇の危機に曝されたのである。
1862年には白人開拓者が数百名も殺され,その2年後には無抵抗のシャイアン・インディアン約200 名が虐殺される事態にも発展していたのである。そして,映画はそのころのダコタの人びとに焦点が当てられている。
白人とダコタの人たちの葛藤はさらにエスカレートする。その十数年後にはカスター将軍の第七騎兵隊が, ダコタとシャイアンのインディアン連合によって全滅させられる。しかしながら,白人の優勢は抑え難く,インディアンたちは不毛で食糧供給もままならない居 留地に囲い込まれてゆく。
インディアン間の抗争においても居住地を変えて行くことはしばしば行なわれたが,居留地への定住を押し つけられたことは,彼らに取り戻せないほどのダメージを与えた。
遊動生活を行なっていた彼らは,野牛の皮で作ったティピと呼ばれる円錘型のテントに住んでいた。テント そのものは簡素なものであったが,その内部は男女の領域が厳密に決まられており,またテントを含む彼らの住処には東西南北・上下の空間にさまざまな神話的 な意味が豊かに付与されていたのである。
しかしながら,居留地の“四角い灰色”の家に定住を強制されるようになってその事態は一変した。ダコタ のある聖者は,自分たちの周りには線が引かれ,その中に閉じこめられてしまい,花が咲いていた宇宙の中心すら失われたと述懐している。まさに,土地を失 い,居住の形態が変わることは,何ものにも代え難い精神的な支柱を失うことを意味することになった。
悲劇はさらに続く。1889年から90年にかけて,ダコタの人びとの間に“大いなる霊”の啓示の噂がひ ろがった。聖者の教えるゴースト・ダンス(幽霊踊り)を行なうと,大いなる霊はインディアンたちを救済し,ワシチューと呼ばれていた白人たちを消し去り, 死んでしまった野牛とインディアンを生き返らせるというものであった。彼らは熱狂して踊り続けた。政府はこれを禁止したが,やめるものはいなかった。そし て,1890年の暮れも押し迫った12月29日サウスダコタのウーンデッド・ニーにおいて騎兵隊がこれを急襲し,女性や子供を含めた300名近くのイン ディアンが殺された。
この年,合衆国政府はこの国のフロンティアは消滅したと国勢報告書の中で宣言している。
地球環境問題が声高に叫ばれているが,この映画がエコロジー映画として人びとの賞賛を受けたのも納得で きるものがある(ただし映画の中のダコタ・インディアンの描き方には問題があると、当事者であるダコタの人 たちが後に指摘し、ダコタの人たちからみた映画が制作されたと聞く*/**)。インディアンたちの生活を破壊し続けてきた白人(ワシ チュー)の文化とは,実は工業化文明社会のそれに他ならないからである。そして,皮肉にも,その社会が生んだ商業芸術を通して,私たちは自分たちの文明を 反省しようとしている。
北米のインディアンたちに襲いかかったものと似かよった状況は,現在においてもアマゾンやアジアの熱帯 雨林でも報告されている。インディアンの悲劇は,歴史の一物語ではなく,現在の私たち自身の問題なのである。
多くの先住民族の画像が見ることができる。米国議会図書館がこれらの映像を「アメリカの記憶」としていることは、さまざまな政治的 議論を呼んでいることであろうし、また議論のテーマになるだろう。
謝辞:改訂版における加筆箇所(赤字の部分)におきましては、サリフ・ケイダさん(日本名:慶田勝彦さん)の ご支援を賜りましたので、 記して感謝いたします。
■クレジット:いのちの民族学、第3号:インディアンの教訓あるいは、先住民表象とアイデンティティについて
このコーナーでは、「いのち」に関する世界のさまざまな民族や社会でみられる興味深い慣習や 信条を紹介します。そのねらいは、周囲から消え去ってゆく「変わった習慣」を面白がったり、懐かしむことではありません。むしろ「いのち」の多様なあり方 について読者の皆さんとともに考えたいのです。いろいろなテーマについて多角的に取りあげますので、皆さんからのご意見をお待ちしております。
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