http://fubar.hatenablog.com/entry/2020/02/10/023450
まずはじめにFubarさんへお返事しますが、基本私は対立する意見の人とネット上で議論をする事にあまり意味を見いだせないので議論はしない立場です。
私自身はあくまで同意見の人たちあるいはそれを見ている中立的な立場の人たちへ私の意見が伝われば十分満足という理解です。
よって、Fubarさんが自分が議論を仕掛けられたと思っているならそれは端的に誤解なのですが、翻って自分の書き込みを読み返すと字数制限のためとはいえ色々省略して書いたため誤解されてもしかたないかな?と思ったのでわざわざ記事を書いて頂いた点に敬意を表しお返事させていただきます。
まずその前に、私を「ツイフェミ」だと勘違いしているようですが、私はフェミニストだと自認していませんしフェミニストだと主張したこともありません。
よって端的にいって私は「ツイフェミ」ではありません。無論広義に例えば「男女平等は目指すべき理想であり女性への差別は解消されるべきである」と考えているくらいの意味でしたら、Fubarさんも「ツイフェミ」になるなと言うのが私の感想です。
もちろんFubarさんが男女差別は当然、平等なんてもっての他、と言う立場なら違いますが、あくまで「平等」や「差別」を具体的にどう解釈するか?の点で意見の相違があるだけですよね?
で私はTwitterもやってますが、はてなの方が長くTwitter民であると言うよりはてな村村民であると解釈してるのでどうしてもというなら「はてフェミ」かと思います。
そして、実際のネット上の用例だと「ツイフェミ」を蔑称か侮蔑の意図で使っている例が多々見受けられます。Fubarさんはそのようなことは思いも寄らないのでしょうが、例えば「Japan」や「Japanese」の純然たる略称に過ぎなかった「Jap」が蔑称になっているように短縮形の言葉はそのような誤解を受けることがあります。近い例ではネットをやっている右翼を指す「ネット右翼」の略称「ネトウヨ」を自称する方もいますが、蔑称だとする人も多々います。
もちろんFubarさんが相手のアイデンティティなど気にせず、議論の相手を蔑称で呼ぶような人間であると誤認されてもいいと言うなら、私自身は「ツイフェミ」と言われようが特にどとも思わないのでそのままお使い頂いても構いません。
さて、前置きがいささか長くなりましたが、もうおわかりいただけたかと思いますが私は議論において言葉の定義とその論理にこだわります。それらを欠いた議論は有意義ではないと考えるからです。Fubarさんがそういうものよりノリと勢いが議論においては重要と考えるなら無理に付き合わなくても大丈夫ですよ。
まずFubarさんは私が何かを誤解していると誤解しているようです。
さてまともな企業で人を教える立場になった人なら「誰かに物を教えてちゃんと理解できないのは教えた人間が100%悪い」みたいな事を聞いたことがあるかと思います。
今回は別に物を教えているわけではありませんが、コミニュケーションにおいて誤解が生じるのは端的に
の3種に分類できると思います。そしてそれらを俯瞰的にコントロールできるのは伝える方です。
その点で考えるとFubarさんと私で前提となる知識や理解が共有されてないのが誤解の原因と思われます。
その点を共有している私と同じ立場に立つ方々は特に私が誤解しているとも感じてないようですし、「ツイフェミ」はこういうのが多いとFubarさんが感じるのはまさにそれが原因だからかもしれません。
私のように対立する人間とは議論しないまで割り切ってなくても、相手が自分の事を理解してくれるまで食い下がる人の方が少ないでしょう。
よって私が現時点でこの宇崎ちゃん日赤問題をどう理解しているかを説明します。
擁護派は宇崎ちゃん第一弾の際はられたポスターを問題ないとする立場の人、批判派は問題あるとする立場の人です。
まず10月宇崎ちゃんのポスターをきっかけに議論が発生しました。
この点で私にとって「社会的によいこと」は日赤が今後この様な問題のある広報活動をしないこと。
でそのためにはまず日赤に問題があると主張している人がいる事を伝えなければなりません。
まあ、流石に身も蓋もない表現なので、整えると「賛否を問わず活発な議論を喚起し世間の耳目を集める」でしょうか。
その点で考えると太田弁護士はすごいですね。正直イデオローグとしては平均的なフェミニストの域をでず、理論的に雑だと感じる事もありますし「先生!言い方!言い方!!」と思うことも度々ありますが、そういう点も含めてアンチフェミニストには鎖の弱い部分だと思われてるのか、なにかあると嬉々として「太田弁護士がこんなことを言っている」と拡散してくれます。確か私がこの件をしったのもアンチ側のまとめたトゲッターだったかと思います。
あ、でもアンチフェミニストから突撃されアカウントを閉じたりする例がありましたが、そういうのに強固さは手放しで称賛します。
で、擁護派の意識しない協力もあり、マスコミにも取り上げられました。
擁護派の方は何か勘違いをしているかもしれませんが私にとっては対立しているのは日赤と批判者であくまで擁護派の人たちは第三者です。あくまで第三者と議論を交わすのは世論を喚起するためというのがどうも理解されてないように思えます。
第一報は「貴重なご意見承りました」という実質何もしませんよという感じでした。
失望せざるをえない結果ですが、ウィッチーズが現場の担当では「パンツじゃないからOK」みたいな反応だったのが本省の知る所になり即座に撤回されたという事例もあり、可能性はまだあると議論は続けます。
で、10月末の朝日報道で、日赤が批判派の意見を「真摯に受け止める」と発表し、私にとっての「社会的によいこと」は達成されました。
無論知名度など皆無の私がはてな村の片隅やツイッターで囀っていたことなど寄与度は万分の一どころか100万分の一もないでしょうが。
そしてせいぜい今後は批判派から批判されないような物になる感じかと思っていたら、ガイドラインを作成という100点満点中150点の対応で、実際宇崎ちゃんの第二弾は批判すべき点もないものだったので大満足。といった感じです。
擁護派の方たちは10月とくらべ批判側の議論が低調に感じられるかもしれませんが、所定の目標は達成しているので、擁護派を説得できるあるいは議論自体に意味を見出してる人以外は積極的に議論に加わらないのではないでしょうか?
で擁護派にとっては私が考える「社会的によいこと」は良いどころか害悪なんでしょうが、そちらの立場で「社会的によいこと」を追求するなら「フェミニストの不当な主張を受け入れたとは誤りで、ガイドライン撤廃しろ」と日赤を、今度は擁護派が当事者になって批判しないといけないのに、なぜだか批判派を批判するだけで一向に日赤を批判しないなー。不思議に思っています。
これが私が今回の件に対する現状認識です。もちろん批判者達あるいはフェミニストを代表する立場でもない私自身の個人的な理解です。
「不必要に露出度の高い格好や不自然に体の線が出ている、または胸や尻などを強調している」が私の判断基準です。
あれ?過度かどうかは?とか社会的にどう判断されるかは?みたいな意見もあるかもしれません。
まず前提として人をもした徴表は程度の差こそあれ性的な要素を含みます。自動車や銃とかにも性的な魅力を感じる人もいるかと思いますが、今回はスルーします。よって「性的だが問題ない」と「性的でもないし問題もない」の違いはその人が何を性的と認識するかの閾値を示すだけで今回の議論では区別する実益はありません。性的とはその状況において許容されないくらい性的であるといういみです。
また、性的な要素をどう評価し個人的に問題と感じるかと社会的にどう判断されるかは無関係ではなですが、あくまで別の概念です。そして、個人的にどう思うかではなくあくまで社会的評価が問題とされるため、わざわざ社会的と付ける実益もない。ということです。そこあたり批判派擁護派問わずあまり厳密に区別してない人も多そうですが。
そして、その基準を宇崎ちゃんの第一弾に当てはめれば、胸がカップつきあるいは立体裁断かつ漫画的デフォルメであることを考慮してもサイドやアンダーまで胸の形が如実にわかります、そしてモデルのポーズはあからさまに胸を強調しています。よって性的と判断しました。
第二弾はあくまで胸の大きいが服を着ているだけで胸の形が如実に出たりはしていません。そして全体として胸をお尻を強調してもいないので性的ではないと判断しました。
もちろんこの基準は私のもので他の人はどうかしりませんが、同じ用な基準で判断してるかと思います。
常にこう明快に判断を下せるわけではなく例えば艦これの2020年の摩耶様鳥海のやつは微妙かな?と思いつつ「あくまで胸の大きい女の子が海で水着を来て遊んでるだけで健全」「むしろこれを性的と思うのは百合に割り込みたがる悪い文明」と補助線を引き性的ではないと判斷します。
世には表現をする団体は各種ありそれぞれ内部でガイドラインはあるでしょう。
例えば、アニメにはいわゆる「謎の光線」で胸やお尻などが隠されることはアニメファンならご存知かと思います。
この前やっていた「神田川JET GIRLS」もその例にもれないのですが、胸はまあ乳首隠しかなと分かるのですが、お尻に関してはちょっと基準が謎です。
同じ格好なのにアングルなどが変わると光線が消えたりついたりします。ビキニタイプのみならずハーフパンツでも同様に光っており、単純な画面内における面積ではなくたぶん「くいこんでエロい感じ」だと光線登場なのかな?と私は判斷しています。
でこれに関して「基準が分からない!言語化せよ!」と言われても角川なりに聞いてくれという感じなので、私がなぜ説明しないのか一向に分からないのです。
脅迫罪に関して、火事見舞いのはがきが脅迫に該当するという話は聞いたことがあるかもしれませんし、元検事の弁護士が脅迫罪に問われたこともあるでしょうし具体的な文面を弁護士に示しても「判例実務上は脅迫罪にまず該当しない」等絶対に大丈夫とは請け負ってくれないでしょう。
また刑法175条に関しても、戦後すぐはチャタレー夫人の恋人という小説が問われたり、ヌード写真も陰毛の有無が争点になり90年代半ばに陰毛ならオーケーと落ち着いたかんじです(少女ヌードはまた別ですが割愛)。二次元に関しても性器の処理は時代によってオーケーの範囲はかなりかわってますし、同じ漫画でも電子書籍では電子書籍の会社によって違うこともあります。
私としては批判者の基準を日赤が受け入れた時点でもう話は終わってます。もちろんそれは私の勘違いで、日赤が今後問題のある表現をしたらまた批判するだけです。
さらに言えば性的かどうかは個人レベルでも種々多用なのは言うまでもないでしょうが、社会的に性的とされる基準も個々人で多種多様でしょう。
そしてそれはイデオロギー、まあイデオロギーという言葉嫌いなら、性に関する規範意識を含めた様々個人の価値観に由来するでしょう。
だから究極的には「基準が分からない!言語化せよ!」は「私の価値観を変更させてみろ!」と同義です。
それをわかってるのか批判者側では「どこから大丈夫か分からない。言語化せよ!」などと主張する人は見かけませんが、なぜか擁護派の人には多いですよね。
価値観なんて様々な影響を受けつつ自分で作りあげていくものなんでそれを他者に求める意味がわかりません。まあ燕の子安貝を求めているだけなんでしょうが。
「「事態に重きを置くべきは既にそこに無い」新たに作られたガイドラインに基づいて日赤が今後活動するので、外野としては駄目だと思うならその点を言語化して批判すればいい。ただそれだけ。世は並べて事もなし」
なぜかFubarさんはこれについて言及していませんが、ここまで読んでもらえたらリゼロのロズワールの発言を引用して示したいのは「言語化せよといのは既に論点ではないのでそんなお話には付き合いませんよ」という事です。だから日赤のガイドラインだろうが一般的にある状況において問題とされる程度に性的かどうかの基準を改めて示す意味などないと主張してるのです。これが理解できていないためにFubarさん私の主張をうまく理解できなかったのでしょう。
また刑法175条に批判的で有ることと表現の自由戦士に批判的であることが論理的に一貫性がないとおっしゃってますが、逆にいったいどんな論理があればそれが当然につながるのか理解できません。
まず宇崎ちゃん日赤問題は「表現の自由」の問題でもないし「性的かどうかは十分明確に区別できる」という立場です。
そして私が刑法175条を否定するのは明確性も問題ですが、それ以上にそもそも国家が表現をわいせつかどうか判斷し国民に触れることを許さないのは不当な表現の自由への弾圧だと解釈しています。
批判派で私のように刑法175条も撤廃すべしという人はいるでしょうが、それが論理的に繋がりがあるわけではありません。
逆に擁護派は「表現の自由」の問題で「性的かどうか区別できない」と言う立場をとるなら、自主的に作成された諸ガイドラインなんかより、全てに国民に強制される175条は当然撤廃すべしとなるかと思います。
擁護派が擁護派の一部が主張するようにマジョリティなら擁護派が175条撤廃に動けば世論は変わりますし、正直わたしの見立てでは擁護派批判派ともどもしょせんノイジーマイノリティーにすぎないと思ってますが、それでも動くきっかけにはなるかと。「保育園落ちた、日本死ね」は記憶にあたらしいかとおもます。それは擁護派にとって「社会的によいこと」なのではないでしょうか?
ですから、私が主張したいのは宇崎ちゃん日赤の批判派を批判するくらいなら、同じくらいの労力でトゲッターまとめやはてぶで175条撤廃を主張してみてはいかがでしょうか?ということです。
これでFubarさんの誤解はすべて解消されたでしょうか?