なにも神体扱いできていない。と知ったとき | 心のままに気まぐれに”わたし”の好きを生きる

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御神体=ご身体

 

 

ここ最近「自分ビジネス」を生み出した八木さやさんや講師のかたのブログを読んだりしてどっぷり自分ビジネスの世界観にはまっている。とりこになっている。そんな世界があるのかと自分にもできるだろうかとできることを少しずつやりながら不安と期待のなかで「わたし」新しいページをめくった。期待の方が大きい。こんな状況のわたしがきいても何度聞いてもその言葉から文章から伝わってくるものは「大丈夫」。あなたでも大丈夫、どんな状況からでも大丈夫、どんな状態でも大丈夫

いままでの常識正しいと良しとされていたものを気持ちいいくらいにぶった切ってくれる。そしてそれぞれの真実と豊かさをわたし以上に信じている。もうそれはわたしが見せた。八木さやさんという媒体を使ってわたしが見せている。そして顕在意識のわたしがとらえている。むしろその媒体は潜在意識だ。潜在意識やわたしの深いところの願いや希望が目に見えるきこえる形で可能性をみせてくれている。そうでないなら出会わないし現れることはないだろうこのタイミングで。

 

 

わたしはじぶんを大切にしていない。

御神体どころか・・。大切にしていると思っていたけれど大切にしようとしていたけど、それは心の部分で思いの部分で感情の部分で、身体とか物とか目に見えるものとしてはぞんざいに扱っていた。

ぜんぜん大切にできていなかった。八木さやさんのお家や部屋、好きなもので埋め尽くされた室内をみると圧倒された。家が大好きだ。住まう部屋が大好きだ。あんな風に好きなもので埋め尽くされた部屋はもう雰囲気からちがう。エネルギーというと見える人みたいだけど見えない、でも伝わるキラキラしたものが。

 

 

 

わたしが憧れた一片は居る場所、住まう場所であり滞在する場所。

こんなにも自由に好きに彩ることができるんだと、そこまで好きを並べていいんだと、海里村上に毎日のように通いおいしいものと美しいものに囲まれ好きな人たちだけと過ごす。

そして払いたい人に好きなだけ払うという支払いへの愛と自由にも憧れた。

 

 

というのは、その大好きな居場所をつくれていないんだ

好きなようにつくれていない。40歳すぎて27,000円の低所得者層の集まるアパートに住んでいてその家賃すら支払いが遅れている現状。

好みではないアパートに払うのが嫌なのか、いつも後回しになる。

洗濯機は共用、洗濯にいくと暗くてだれが使ってるのかわからない洗濯機を使わないといけない気持ちが引きぎみにおよび腰になる。

だから洗濯をケチる。だから朝使ったバスタオルを夜にも使ったりする。

洗濯を干すベランダも、元々古い建物なのであまりきれいではなく狭い。

 

 

わたしはお布団をバサッと干せるバルコニーが好きだ。

洗濯物を天日干しできるスペースが好き。

南向きにバルコニーや部屋がある家が好き。南向きに窓がないなんてなにを考えてるんだ?と思う。

 

 

そんなところに住んでいる。

ある知り合いは値段にしてはまあまあの物件じゃない?悪くないよ。というが、わたしには泣きさけびたいくらいの嫌なんだ。

今まで何人の人にも相談し、嫌なところから逃げなさい体を守りなさいと言われてきた。でも金銭的に困窮している状態では家を探そうとすると家賃をみたたけで幻滅し探すのがおっくうになってしまう。

今の家賃すら払えないのにそれ以外のところが払えるものかと。

それを住めてるだけでもありがたいとなだめてきた。

 

 

でもね、じぶんビジネスの話をきいてると、わたしはわたしの可能性をあきらめているんだな憧れを憧れとし、叶えようとはしていないんだということを知る。ものすごく自分のことを過少評価しているし、お金を生み出せる可能性は皆無としていた。

夢見る箇条書きと、現状からみた未来はずっと平行線だった。

そんなわたしでも「可能性はあるんだよ」というリアリティを見せてくれて説明してくれたのが「自分ビジネス」であり八木さやイズムだった。

わたしへの可能性と、辛かったと認めることのできた現状への思いに泣く。八木さやイズムの言葉にふれて泣き、文章みて泣き、力強い声音の振動に胸を打つ。

ああぁやっとでられるんだ。まるで高い塔に幽閉されていたラプンツェル。いままでも幸せ(だと思って)に暮らしてきたが、もっと自由な世界が見えた感じだ。

 

 

 

わたしがいまのアパートに住んでいることがこれほどまでに心地悪く悲しく感じたことはない。でもほんとうのわたしは嫌で嫌でしょうがなかったのかもしれない。やっとその感情があがってきたのかもしれない。

ほんとうは感じたくなかった。だって嫌だもん。でもどうにもできないと思ってた。動いたらなにかが変わったのかもしれない。そうしようとも思わなかった。思えなかった。それほどまでに無力を感じていた。

だからあのiTHAT撮影の室内写真をみたとき、自分ビジネス撮影の一コマの写真を見るたびに「ここまでじぶんを表現していいんだ」っていうじぶんの憧れに圧倒されてぐっときた。

久本雅美さんのお家や、NYバカラホテルを手掛けたインテリアデザイナーのジル&ボワシエールのお家をみても、いいなぁと思う。

 

 

わたしはわたしの好きなものがわからない、好きなものばかり集めたらごちゃごちゃして美しくないと思っていたが、誰の目を気にして何の美しい基準を置いていたんだろう。好きなものばかり集めてたらそれはそれで満足するかもしれないのに。

八木さやさんのお部屋をみるだけでも、じぶんの好きなものそうでないものがわかっていい。

目の前に対象が「ある」と好きか嫌いかははっきりする。思いつかなかっただけ。対象があるだけでじぶんがみえてきたりする。

「わたし」のかけらが「わたし」を創り上げてくれるかもしれない。

あとはわたしが歩きだすだけだ。ひとつひとつ拾い集めにいく。

 

 

みか