投稿文集紹介      2010/8/23(月)掲載
「新制大学誕生の頃」
- 群馬大学工学部CD科第2回生の想い出 -

第4章 啓真寮の生活

 啓真寮での日常生活 梶 洋二郎

 私は千葉県房総大原町の出身で茂原の長生高校を卒業後、群大工学部に入学した。その当時千葉県の小さい町から桐生まで行くのはそれこそ大変で、東京まで行く国鉄の切符の購入が困難で、駅長に泣きついたこともあった。東京に出て浅草観音様近くの松屋デパ-トから東武電車で新桐生に行くまでは大変苦労した。
 当時東武電車の座席は木製で超満員、座席にもゆっくり座れない状態であった。途中で乗り換え疲れ果てて漸く新桐生に着き、バスで天神町一丁目下車、ヘトヘト状態で寮に着いた。

 当時統制経済で主食の米や麦は配給制で自由に買えず、寮での三度の食事は食べ盛りの吾々にとっては耐え難いものであった。朝食は木椀に麦飯が少しと味噌汁程度、腹を空かして授業に出て昼食は少し赤味のある茶色のコッペパン1個、更に空腹状態で授業に出た。寮生にとっては午後の授業は空腹で耐え難く、生命を維持するために夜は軍隊用の飯盒に家から持参した米を炊いて食べた。啓真寮ではこれを〝ボイル″ と称した。炊き上がった白米に醤油をかけて食べたが、こんなにおいしいものが世にあったのかと思えた。現在の飽食時代に生活している人々に対し、こんなことを話しても全く理解しないであろう。私は実家が遠かったので、しばしば帰ることはできなかった。従って家から持参したお米はすぐ底をついた。仕方なく夕方夕食後に街に出て薩摩芋を練って作った芋羊羹を食べに行った。
 空腹の連続で栄養不足、エネルギーが不足し昼間から寮で寝て暮らすこともあった。紡織科の寮生から〝梶は岡公園の狸と同じで昼間から寝ている″と言われた。暫く岡公園の狸という揮名がつけられた。
 また夜の12時近くになると、啓真寮の前にチャルメラ・ラーメン屋台が開店し、私はしばしば食べに行き、暫くしてラーメン屋台のおやじさんと顔馴染みになった。空っ風の寒い冬には屋台のおやじさんに頼んで寮の部屋まで出前してもらった。その後他の人が出前を頼みに行くと屋台のおやじさんが〝梶さんの部屋の近くですか″と聞いたとのこと。屋台のおやじさんが寮で出前する時、何遍も行って良く分かっている私の部屋を中心に配達を考えたのではないかと思われた。かくして私は屋台ラーメン屋のお得意さんになった。
 啓真寮には一年中太陽の当たらない部屋が幾つかあった。冬の期間この部屋に入ったことがあるが、当時は暖房設備(Room Air Con)が完備しておらず、空っ風の吹く寒い冬の夜は地獄であった。窓の硝子戸の少しの隙間も紙テープで風の入らないようにした。その辛さは今でも思い出すことがある。
 寮から歩いて10~15分の所に桐生川があり、初夏には川のせせらぎと河鹿の声がとても爽やかであった。また寮から山手の道を歩いて岡公園や水道山公園にもしばしば訪れた。岡公園の狸には特に親近感を覚えた。
 昭和25(一九五〇)年当時の寮生活には桐生工専からの伝統的な各種行事があった。まず新入生、入寮後まもなくストームがあり、夜中に起こされびっくりした。
 また新入寮生歓迎コンパや全案生朝の体操と寮歌斉唱、新入寮生に対する夏の胆試し、南、中、北寮対抗の運動会、寮を一般市民に開放する寮祭等々青春の一齣として懐かしく甦ってくる。
 以上啓真寮日常生活の原稿は食べることが主体になったが、昭和24~26年は配給制で日本全国食料が不足し、寮生もいかに生命を維持するかが、最重要課題であった。

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