沖縄の原(ハラ、バル)地名・雑録
はじめに
意外と知られていないのだが、沖縄では「原(ハラ・バル)」の付く地名が多い。地図をざっと眺めるだけで、数十か所のハラ・バル地名を数えることができる。小字名まで調べていくと、限りなくバル地名が続き、その多さに圧倒されてしまう。角川地名大辞典によると、6800ヶ所を超える小字の4分の3が、原(バル)地名で、島嶼部を除いて沖縄本島だけを見ると、なんと90パーセント近くがバル地名なのである。
沖縄に分布するバル地名を調べていると、その殆どが耕作地を指していことが分かってくる。開墾する意味の「墾(は)る」に、原の字が当てられ、読みがバルに転じたものである。沖縄語辞典(内間直仁・野原三義編著 2006年 研究社)で「ハル」を検索すると、畑、屋敷内の畑(アタイ)に対して、屋敷外にある畑、耕地を指す、と説明されている。また、山中襄太『地名語源辞典』1995年・校倉書房の記述に、沖縄語では、「ハラ」または「バル」は、場所、方角を意味すると書かれていた。
当初、耕作地も原野も平らな土地の広がりであるため、地形的には、なんとなく「原」をイメージし、ハラもバルも同一の語源であろうと考えていた。九州や沖縄では、原の読みをバルと発音するので、その違いを探ってみたいと思ったのが、ハラ・バル地名考察の起点であった。
原(ハラ・バル)の基本的な解釈について、広辞苑の説明を記しておく。それによると、はら(原)とは、平らかで広い土地、耕作しない平地・原・原野、と説明されている。はり(墾)、はる(墾)は、 墾ること、新たに土地を切り開くこと、開墾することで、張・春などの字を当てて地名となっているところが多い、とある。このことから、野原のハラ(原)と、田圃や畑を拓くハル(墾)の語源は、全く別のものであることが分かる。
沖縄におけるハラ・バル地名の分布
沖縄本島には、西原町、南風原町、与那原町が見える。西原町は、沖縄本島中部の東海岸に面している。なぜ、東海岸にあるのに西原町なのか。沖縄語では、「東・西・南・北」を「あがり・いり・ふぇー・にし」と云う。つまり、西原は「北の原」を意味している。
現在の西原町は那覇市首里の東側に接し、凡そ16 km²の広さを持つ町である。しかし、古琉球と云われる10世紀から17世紀頃までの行政区画であった西原間切(にしばるまぎり)は、王府の置かれた首里城の北側を取り囲むように、那覇市の泊から安謝、天久、末吉、石嶺などの広い範囲が含まれていた。これらの地域は1920年頃、那覇市に編入され、ほぼ現在の領域で示されるようになっている。西原間切は、今の西原町とは異なり、相当に広い行政地域であったようだ。
同じように、首里城の南に接する間切りを南風原(ふぇーばる)と呼んでいる。今の南風原(はえばる)町である。首里の北に位置する西原町とともに、耕作地が広がって、首里への食糧供給基地であったと云う。
ついでだが、勝連半島にも南風原と云う集落がある。元は勝連城の南側に位置し、耕作地が広がっていたと云うが、琉球王府の承認のもとで、1726年に村敷替(むらしきかえ)が行われ、勝連城の北側に移転している。
私が育った山陰の石見地方では、漁師たちは南から吹く風を「はえ」と呼んでいた。琉球からの交易船が長崎を経由して、山陰、北陸地方にまでやって来た名残りであろう。そう云えば、年寄りたちは、薩摩芋の事を「琉球芋」と呼んでいた。琉球から長崎を経て伝来した食糧である。
与那原町企画観光課が発行する「観光客がほとんど行かない⁉㊙な町・与那原町」と云う小冊子に、次のような伝承が載せられていた。中島区にある「宗之増(そうぬまし)」という拝所に触れて、「与那原町発祥の門家を祀った神屋。元々、上与那原に住んでいたが、毎日のように海岸に出て、沖の方を眺めていると、海岸が次第に遠のき、白浜が現れるのを発見し、長い竿を持ってきて、白浜の幅を計っていたところ、次第に広がって平地になった。よって、そこに屋を移し、新しい村建てを行ったと云われている。」と説明している。
宗之増は、竿之増とも表記される。古くは測量のことを「竿を入れる」と称していた。太閤検地以来、測量用具に「間竿(けんざお)」と呼ばれ、目盛りを付した長い竿を用いていたことから、この名がある。竿之増とは、検地することによって、耕地を増やしたという意味であろう。
沖縄語で、「よな」あるいは「ゆな」は海岸の砂地を意味し、原(バル)は墾(ハリ)のことで、開墾によって拓いた土地を指している。つまり、「与那原」は、海岸低湿地帯を拓いた場所であり、その歴史が今の地名として残っているのである。
そのほか、原のつく大字地名を北から拾い上げてみた。
(ハラ・バラと発音する地名)
大宜味村上原(うえはら)
名護市三原(みはら)
うるま市与那城上原(よなしろうえはら)
うるま市豊原(とよはら)
沖縄市池原(いけはら)
沖縄市美原(みはら)
沖縄市高原(たかはら)
北谷町吉原(よしはら)
宜野湾市上原(うえはら)
宜野湾市中原(なかはら)
西原町上原(うえはら)
南城市知念久原(くばら)
那覇市三原(みはら)
南城市佐敷伊原(いばら)
南城市知念久原(くばら)
八重瀬町後原(ごしはら)
糸満市豊原(とよはら)
糸満市伊原(いはら)
久米島町大原(おおはら)
宮古島市平良西原(にしはら)
宮古島市上野野原(うえののはら)
(バルと発音する地名)
国頭村桃原(とうばる)
名護市運天原(うんてんばる)
名護市豊原(とよばる)
恩納村喜瀬武原(きせんばる)
うるま市与那城桃原(よなしろとうばる)
うるま市勝連南風原(はえばる)
沖縄市西原(にしばる)
沖縄市南桃原(みなみとうばる)
読谷村牧原(まきばる)
北谷町桃原(とうばる)
中城村北上原(きたうえばる)
中城村南上原(みなみうえばる)
西原町千原(せんばる)
西原町棚原(たなばる)
西原町桃原(とうばる)
与那原町与那原(よなばる)
与那原町上与那原(かみよなばる)
那覇市首里桃原(とうばる)町
那覇市田原(たばる)
那覇市宇栄原(うえばる)
南城市玉城志堅原(しけんばる)
八重瀬町屋宜原(やぎばる)
八重瀬町上田原(うえたばる)
これらには、ハラ・バラと呼ぶ地名と、バルと呼ぶ地名が混在している。野原のハラ(原)と、田圃や畑を指すハル(墾)を、呼称によって区別しているようでもあるが、もともとバルと発音されていたものが、慣例的に現在風の発音、ハラ・バラに定着したものであろう。
沖縄の小字に見える原(バル)地名
●小字と原は同義語ではない
冒頭で触れたが、角川地名大辞典によると、6800ヶ所を超える小字の4分の3がハラ・バル地名である。島嶼部を除いて沖縄本島だけを見ると、その割合は90パーセントに近い。島嶼部は、本島に比較してハラ・バル地名が少ないのは、耕地に適する土地が少なかったのが要因かもしれない。
今の地図では表記されないのだが、小字のほとんどは○○原(バル)と呼ばれてきた。したがって、沖縄では小字のことをバルと呼ぶと思われているが、これは少し違うようである。沖縄でいうバルは、田圃や畑のある場所を指している。下図は、小字が原(バル)地名になっている分布の一例で、南城市佐敷小谷・新里集落の地図である。(佐敷町史より)
琉球では、1737年から1750年にかけて、琉球王府の三司官、蔡温(さいおん)の指揮によって、農地を中心に細かな測量を実施している。伊能忠敬による全国測量が行われる60年も前のことである。このときに設置された基準点(図根点)を印部石(しるびいし)と言うが、一般には、ハル石、あるいはパル石と呼ばれている。
この標石には、「いろはに」による符号と地名が刻まれ、耕作地の境界を示しているが、集落の境界と重なっていたため、小字と原は同義語になったと思われる。人口の増加とともに集落が広がったり、移動(村敷替)によって、今の小字の境界線とは異なった場所に印部石(ハル石)が存在しているケースが多い。下の写真は、那覇市小禄に現存する印部石で、「ヨ まへ原」と刻字されており、小字集落前原の私有地に建っている。
●桃原(とうばる)の地名
本筋から離れるが、沖縄の地図を眺めているうちに、「桃原」の地名が随所に存在することが分かった。沖縄では、ごく普通の地名のようであるが、桃の花が咲き乱れ、桃源郷さながら、初春の甲府盆地の風景を髣髴させてくれる地名である。
大字地名では、次のように6か所が見られる。国頭村桃原、 うるま市与那城桃原、 沖縄市桃原、同南桃原、西原町桃原、那覇市首里桃原町、である。
さらに、小字地名では27ヶ所が見られ、北から順に羅列すると、伊平屋村田名桃原、同我喜屋桃原、大宜味村饒波桃原、本部町豊原桃原、名護市源河桃原、同済井出桃原、うるま市石川東恩納桃原、同与那城平安座桃原、同与那城平安座上桃原、同市勝連浜桃原、沖縄市山里桃原、中城村安里桃原、西原町翁長桃原、同小橋川桃原、同小那覇桃原、同桃原桃原、浦添市牧港桃原、那覇市具志桃原、八重瀬町玻名城桃原、同安里桃原、南城市玉城垣花桃原、同仲村渠桃原、同知念知名東桃原、同知念知名西桃原、同佐敷新里桃原、糸満市大里桃原、同喜屋武桃原、である。
桃原(とうばる)は、桃の畑が語源というわけではない。沖縄では、小高く平らな土地を「トー」と呼び、そこに拓いた耕作地をトーバルと呼んでいる。おそらく「トー」は「遠」であろう。遠くまで見通せる土地、トーバルに桃原の漢字を当てたものと思われる。沖縄語辞典(内間直仁・野原三義編著 2006年 研究社)に、「トーミーン」と云う言葉があって、平坦に均すこと、と説明されていた。
古琉球の時代には、仮名(平仮名)が一般的に使われ、地名も仮名表記であった。それが1609年の島津氏の侵攻で、薩摩藩が琉球を支配するようになり、ひらがなで表記されていた土地の呼称を漢字表記に改める必要があった。検地帳などの公文書に地名を記録する際、意味を無視して読みだけで漢字を当てる例が多かった。漢字を表意文字ではなく表音文字として使ったのである。漢字の字面からは地名の由来である土地の特徴や地形などの意味合いは伝わってこない。
●宮古島では原をバリと読む
小字地名を調べるうちに、宮古島では原を「バリ」と読むことに気付いた。旧平良市の地域では252ヶ所の小字を数えることができるが、沖縄本島に比べるとバル地名の割合は少ないものの、原をバリと読むことが多い。「原」の付く小字地名は104か所あり、そのうち79か所をバリと読み、ハラ・バラと読むのが20か所、バルは僅かに5か所である。
次項で触れるが、谷川健一は、バル(原)の語源は韓国語の「パリ」にあると結論付けている。宮古島だけに「バリ」の読みが残っていることからすると、朝鮮とは、豊かな文化の繋がりがあって、バリ地名が直接に伝播したのではないかと考えられる。
バルは、韓国語のパリを語源とする説
子供のころ、大人たちが酒を酌み交わしながら歌っていた「田原坂(たばるざか)」の俗謡を覚えている。後に知ったのだが、田原坂は西南戦争の古戦場で、熊本市北区植木町豊岡一帯の地名であり、熊本本線に田原坂の駅名がある。九州では「原」をバルと発音することを知ったのは、この時である。
谷川健一は、その著書『地名の古代史』(2012年・河出書房新社)の、金達寿の対談の中で、「バルというのは、この前、対馬に行ったときに老人と話していたら、老人がこれからパリしに行こうかと言う。朝鮮語と同じで、パリしに、開墾しに行く、耕しに行く、畑に行くことをパリしに行くという。そのパリから出たに決まっているんですよ。『万葉集』のハリミチ(墾道)ですね。開墾することをハリ、新しく開墾したところが新治(にいばり)、四国にも今治と云うところがありますけれども、字は違うけどね。そういうハリというのは開墾すること。それがハルになっているんですね。沖縄なんかではハルと云うと、みんな田圃や畑を表すんです。野原の原じゃないんです。原山勝負と云って、どれだけ一年の収穫が多いか、村ごとに原山勝負に参加する。山は山林の勝負ですけれども、収穫が上がったことを、村ごとに懸賞をかけて競い合う。それを原山勝負と云うんですよ。」と述べている。
つまり、谷川健一は、韓国語では「パリに行く」と云えば、開墾しに行く、耕しに行く、畑に行くことを指しており、バル(原)の語源は韓国語のパリ(耕す)にあると結論付けている。
谷川健一によると、バル(原)地名は朝鮮半島から対馬を経て、九州全域に定着し、沖縄にも伝来したようであるとしているが、それにしては沖縄ではバル(原)地名が、桁外れに多い。小字のほとんどは原(バル)地名で、一般的には、小字と原は同義語として認識されている。このことから推察すると、ハラ・バル地名は、朝鮮半島から九州を経ることなく、沖縄に直接伝来した文化だと考えられる。古い時代、琉球と朝鮮半島との関りは、想像以上に深いものがある。
それを伺う例として、首里城の広福門前広場に吊られている、「万国津梁の鐘」(レプリカ)に、次のように文言が漢文で刻まれている。書き下し文にすると、次のようになる。「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯となす。此の二の中間に在りて湧出する蓬莱島なり。舟楫を以て万国の津梁となす」とあり、文中の三韓とは朝鮮を指している。
また、朝鮮との関りが深い例として、次のような史実もある。南山国王の承察度王は、権力闘争に敗れ、朝鮮に亡命したと云い、『朝鮮王朝実録』(李朝実録)の1394年9月に、中山王察度の使者が、朝鮮王に承察度の引渡しを求めたという記述があると云う。
さらに、『李朝実録』によると、1398年2月に南山王であった温沙道なる人物が朝鮮に亡命して来たと記録されているそうだ。二代に亘って亡命を繰り返すほど、南山国の治世は定まっていなかったと云うことだが、その一方で、朝鮮(李朝)とは、交易を通じて親密な繫がりがあったことが分かってくる。
ハル・パラ・バル地名の広がり
アイヌ語で、ハルは食糧を指しており、山中襄太『地名語源辞典』1995年・校倉書房によると、アイヌ語に当てた北海道の地名について次のような解説がされている。
小樽市に張碓と呼ばれる町名がある。アイヌ語で、ハル(食糧)・ウス・イ(多い所)と呼ばれた土地で、張碓の漢字を当てたものだと解説している。海に面し魚介類に恵まれ、域内を流れる小川の岸には、クロユリ、ウバユリ、ギョウジャニンニクなどの食草が多く育ち、食糧に恵まれた土地だったと云う。ハル・ウス・イの当て字は、付近に数百メートルに亘って崖が張り連なっていることから、張碓の漢字を当てたとする説がある。
旭川市西部、神居古潭の東側に春志内(はるしない)と呼ぶ集落があるが、これも前述の張碓と同様で、アイヌ語のハル(食糧)、ウス・イ(多い所)に漢字を当てたものだと云う。川筋には、食糧となるウバユリやギゥジャニンニクなどの山菜が群生していたようだ。
他にも、日高郡新ひだか町静内に春立(はるたち)の名が付く集落があり、日高本線の駅名にもなっている。これもまた、ハル・タ・ウシ・ナイ(食糧を・とる・いつもの・川)を略した当て字であると云う。食糧の多くは、植物性食糧のクロユリの根や、エゾエンゴサクの根を指しているそうだ。
渡島半島の北岸、島牧村に原歌(はらうた)と呼ばれる集落があるが、アイヌ語では広いことをパラparaと云い、浜はオタで、広い浜「パラ・オタ」が変化して原歌になったと云う。
台湾の原住民も、原をparaと発音するそうで、ニュージーランドのマリオ族も原をparaと云い、マレー半島のサカイ族はbaruと発音するそうだ。
さらに、朝鮮半島に続く中国東北地方(旧満州)でも原をhari と発音すると云い、蒙古語でも原をhalaと発音すると云う。このように、Para、baru、halaは、広域にわたって分布しているが、これらには、共通する語源があるのだろうか。実に興味深いのである。
おわりに
ハラ・バル地名の考察を続けるうちに、平らかで広い土地、耕作しない平地を指す原(はら)と、新たに土地を切り拓く、墾る(はる)とは、その語源が全く異なることが分かった。しかし、沖縄に、これだけ多くのハル・バラ地名が混在していると、「原」と「墾る」の区別はつかない。
沖縄のハラ・バル地名の殆どは「墾る」で、谷川健一の解釈にあるように、朝鮮半島から伝播したパル(耕す)が変化して「バル」になったものであろう。平仮名の表記に、「原」の漢字が当てられ、本来の「墾る・ハル」の意味が忘れ去られてしまったと云うことだ。
沖縄のハル・バル地名を考察した文献を探したが、見当たらない。谷川健一の著書にある記述が目に留まった程度である。他には、九州に分布するバル地名に触れて、ついでに沖縄のバル地名が挙げられているぐらいで、沖縄の小字「原(バル)」にまで触れた文献は無い。
沖縄におけるバル地名の語源は、朝鮮との密接な交流により、九州を経ずして直接に伝わった文化に起因すると考えるが、これ以上は、私の考察範囲を超える領域である。
意外と知られていないのだが、沖縄では「原(ハラ・バル)」の付く地名が多い。地図をざっと眺めるだけで、数十か所のハラ・バル地名を数えることができる。小字名まで調べていくと、限りなくバル地名が続き、その多さに圧倒されてしまう。角川地名大辞典によると、6800ヶ所を超える小字の4分の3が、原(バル)地名で、島嶼部を除いて沖縄本島だけを見ると、なんと90パーセント近くがバル地名なのである。
沖縄に分布するバル地名を調べていると、その殆どが耕作地を指していことが分かってくる。開墾する意味の「墾(は)る」に、原の字が当てられ、読みがバルに転じたものである。沖縄語辞典(内間直仁・野原三義編著 2006年 研究社)で「ハル」を検索すると、畑、屋敷内の畑(アタイ)に対して、屋敷外にある畑、耕地を指す、と説明されている。また、山中襄太『地名語源辞典』1995年・校倉書房の記述に、沖縄語では、「ハラ」または「バル」は、場所、方角を意味すると書かれていた。
当初、耕作地も原野も平らな土地の広がりであるため、地形的には、なんとなく「原」をイメージし、ハラもバルも同一の語源であろうと考えていた。九州や沖縄では、原の読みをバルと発音するので、その違いを探ってみたいと思ったのが、ハラ・バル地名考察の起点であった。
原(ハラ・バル)の基本的な解釈について、広辞苑の説明を記しておく。それによると、はら(原)とは、平らかで広い土地、耕作しない平地・原・原野、と説明されている。はり(墾)、はる(墾)は、 墾ること、新たに土地を切り開くこと、開墾することで、張・春などの字を当てて地名となっているところが多い、とある。このことから、野原のハラ(原)と、田圃や畑を拓くハル(墾)の語源は、全く別のものであることが分かる。
沖縄におけるハラ・バル地名の分布
沖縄本島には、西原町、南風原町、与那原町が見える。西原町は、沖縄本島中部の東海岸に面している。なぜ、東海岸にあるのに西原町なのか。沖縄語では、「東・西・南・北」を「あがり・いり・ふぇー・にし」と云う。つまり、西原は「北の原」を意味している。
現在の西原町は那覇市首里の東側に接し、凡そ16 km²の広さを持つ町である。しかし、古琉球と云われる10世紀から17世紀頃までの行政区画であった西原間切(にしばるまぎり)は、王府の置かれた首里城の北側を取り囲むように、那覇市の泊から安謝、天久、末吉、石嶺などの広い範囲が含まれていた。これらの地域は1920年頃、那覇市に編入され、ほぼ現在の領域で示されるようになっている。西原間切は、今の西原町とは異なり、相当に広い行政地域であったようだ。
同じように、首里城の南に接する間切りを南風原(ふぇーばる)と呼んでいる。今の南風原(はえばる)町である。首里の北に位置する西原町とともに、耕作地が広がって、首里への食糧供給基地であったと云う。
ついでだが、勝連半島にも南風原と云う集落がある。元は勝連城の南側に位置し、耕作地が広がっていたと云うが、琉球王府の承認のもとで、1726年に村敷替(むらしきかえ)が行われ、勝連城の北側に移転している。
私が育った山陰の石見地方では、漁師たちは南から吹く風を「はえ」と呼んでいた。琉球からの交易船が長崎を経由して、山陰、北陸地方にまでやって来た名残りであろう。そう云えば、年寄りたちは、薩摩芋の事を「琉球芋」と呼んでいた。琉球から長崎を経て伝来した食糧である。
与那原町企画観光課が発行する「観光客がほとんど行かない⁉㊙な町・与那原町」と云う小冊子に、次のような伝承が載せられていた。中島区にある「宗之増(そうぬまし)」という拝所に触れて、「与那原町発祥の門家を祀った神屋。元々、上与那原に住んでいたが、毎日のように海岸に出て、沖の方を眺めていると、海岸が次第に遠のき、白浜が現れるのを発見し、長い竿を持ってきて、白浜の幅を計っていたところ、次第に広がって平地になった。よって、そこに屋を移し、新しい村建てを行ったと云われている。」と説明している。
宗之増は、竿之増とも表記される。古くは測量のことを「竿を入れる」と称していた。太閤検地以来、測量用具に「間竿(けんざお)」と呼ばれ、目盛りを付した長い竿を用いていたことから、この名がある。竿之増とは、検地することによって、耕地を増やしたという意味であろう。
沖縄語で、「よな」あるいは「ゆな」は海岸の砂地を意味し、原(バル)は墾(ハリ)のことで、開墾によって拓いた土地を指している。つまり、「与那原」は、海岸低湿地帯を拓いた場所であり、その歴史が今の地名として残っているのである。
そのほか、原のつく大字地名を北から拾い上げてみた。
(ハラ・バラと発音する地名)
大宜味村上原(うえはら)
名護市三原(みはら)
うるま市与那城上原(よなしろうえはら)
うるま市豊原(とよはら)
沖縄市池原(いけはら)
沖縄市美原(みはら)
沖縄市高原(たかはら)
北谷町吉原(よしはら)
宜野湾市上原(うえはら)
宜野湾市中原(なかはら)
西原町上原(うえはら)
南城市知念久原(くばら)
那覇市三原(みはら)
南城市佐敷伊原(いばら)
南城市知念久原(くばら)
八重瀬町後原(ごしはら)
糸満市豊原(とよはら)
糸満市伊原(いはら)
久米島町大原(おおはら)
宮古島市平良西原(にしはら)
宮古島市上野野原(うえののはら)
(バルと発音する地名)
国頭村桃原(とうばる)
名護市運天原(うんてんばる)
名護市豊原(とよばる)
恩納村喜瀬武原(きせんばる)
うるま市与那城桃原(よなしろとうばる)
うるま市勝連南風原(はえばる)
沖縄市西原(にしばる)
沖縄市南桃原(みなみとうばる)
読谷村牧原(まきばる)
北谷町桃原(とうばる)
中城村北上原(きたうえばる)
中城村南上原(みなみうえばる)
西原町千原(せんばる)
西原町棚原(たなばる)
西原町桃原(とうばる)
与那原町与那原(よなばる)
与那原町上与那原(かみよなばる)
那覇市首里桃原(とうばる)町
那覇市田原(たばる)
那覇市宇栄原(うえばる)
南城市玉城志堅原(しけんばる)
八重瀬町屋宜原(やぎばる)
八重瀬町上田原(うえたばる)
これらには、ハラ・バラと呼ぶ地名と、バルと呼ぶ地名が混在している。野原のハラ(原)と、田圃や畑を指すハル(墾)を、呼称によって区別しているようでもあるが、もともとバルと発音されていたものが、慣例的に現在風の発音、ハラ・バラに定着したものであろう。
沖縄の小字に見える原(バル)地名
●小字と原は同義語ではない
冒頭で触れたが、角川地名大辞典によると、6800ヶ所を超える小字の4分の3がハラ・バル地名である。島嶼部を除いて沖縄本島だけを見ると、その割合は90パーセントに近い。島嶼部は、本島に比較してハラ・バル地名が少ないのは、耕地に適する土地が少なかったのが要因かもしれない。
今の地図では表記されないのだが、小字のほとんどは○○原(バル)と呼ばれてきた。したがって、沖縄では小字のことをバルと呼ぶと思われているが、これは少し違うようである。沖縄でいうバルは、田圃や畑のある場所を指している。下図は、小字が原(バル)地名になっている分布の一例で、南城市佐敷小谷・新里集落の地図である。(佐敷町史より)
琉球では、1737年から1750年にかけて、琉球王府の三司官、蔡温(さいおん)の指揮によって、農地を中心に細かな測量を実施している。伊能忠敬による全国測量が行われる60年も前のことである。このときに設置された基準点(図根点)を印部石(しるびいし)と言うが、一般には、ハル石、あるいはパル石と呼ばれている。
この標石には、「いろはに」による符号と地名が刻まれ、耕作地の境界を示しているが、集落の境界と重なっていたため、小字と原は同義語になったと思われる。人口の増加とともに集落が広がったり、移動(村敷替)によって、今の小字の境界線とは異なった場所に印部石(ハル石)が存在しているケースが多い。下の写真は、那覇市小禄に現存する印部石で、「ヨ まへ原」と刻字されており、小字集落前原の私有地に建っている。
●桃原(とうばる)の地名
本筋から離れるが、沖縄の地図を眺めているうちに、「桃原」の地名が随所に存在することが分かった。沖縄では、ごく普通の地名のようであるが、桃の花が咲き乱れ、桃源郷さながら、初春の甲府盆地の風景を髣髴させてくれる地名である。
大字地名では、次のように6か所が見られる。国頭村桃原、 うるま市与那城桃原、 沖縄市桃原、同南桃原、西原町桃原、那覇市首里桃原町、である。
さらに、小字地名では27ヶ所が見られ、北から順に羅列すると、伊平屋村田名桃原、同我喜屋桃原、大宜味村饒波桃原、本部町豊原桃原、名護市源河桃原、同済井出桃原、うるま市石川東恩納桃原、同与那城平安座桃原、同与那城平安座上桃原、同市勝連浜桃原、沖縄市山里桃原、中城村安里桃原、西原町翁長桃原、同小橋川桃原、同小那覇桃原、同桃原桃原、浦添市牧港桃原、那覇市具志桃原、八重瀬町玻名城桃原、同安里桃原、南城市玉城垣花桃原、同仲村渠桃原、同知念知名東桃原、同知念知名西桃原、同佐敷新里桃原、糸満市大里桃原、同喜屋武桃原、である。
桃原(とうばる)は、桃の畑が語源というわけではない。沖縄では、小高く平らな土地を「トー」と呼び、そこに拓いた耕作地をトーバルと呼んでいる。おそらく「トー」は「遠」であろう。遠くまで見通せる土地、トーバルに桃原の漢字を当てたものと思われる。沖縄語辞典(内間直仁・野原三義編著 2006年 研究社)に、「トーミーン」と云う言葉があって、平坦に均すこと、と説明されていた。
古琉球の時代には、仮名(平仮名)が一般的に使われ、地名も仮名表記であった。それが1609年の島津氏の侵攻で、薩摩藩が琉球を支配するようになり、ひらがなで表記されていた土地の呼称を漢字表記に改める必要があった。検地帳などの公文書に地名を記録する際、意味を無視して読みだけで漢字を当てる例が多かった。漢字を表意文字ではなく表音文字として使ったのである。漢字の字面からは地名の由来である土地の特徴や地形などの意味合いは伝わってこない。
●宮古島では原をバリと読む
小字地名を調べるうちに、宮古島では原を「バリ」と読むことに気付いた。旧平良市の地域では252ヶ所の小字を数えることができるが、沖縄本島に比べるとバル地名の割合は少ないものの、原をバリと読むことが多い。「原」の付く小字地名は104か所あり、そのうち79か所をバリと読み、ハラ・バラと読むのが20か所、バルは僅かに5か所である。
次項で触れるが、谷川健一は、バル(原)の語源は韓国語の「パリ」にあると結論付けている。宮古島だけに「バリ」の読みが残っていることからすると、朝鮮とは、豊かな文化の繋がりがあって、バリ地名が直接に伝播したのではないかと考えられる。
バルは、韓国語のパリを語源とする説
子供のころ、大人たちが酒を酌み交わしながら歌っていた「田原坂(たばるざか)」の俗謡を覚えている。後に知ったのだが、田原坂は西南戦争の古戦場で、熊本市北区植木町豊岡一帯の地名であり、熊本本線に田原坂の駅名がある。九州では「原」をバルと発音することを知ったのは、この時である。
谷川健一は、その著書『地名の古代史』(2012年・河出書房新社)の、金達寿の対談の中で、「バルというのは、この前、対馬に行ったときに老人と話していたら、老人がこれからパリしに行こうかと言う。朝鮮語と同じで、パリしに、開墾しに行く、耕しに行く、畑に行くことをパリしに行くという。そのパリから出たに決まっているんですよ。『万葉集』のハリミチ(墾道)ですね。開墾することをハリ、新しく開墾したところが新治(にいばり)、四国にも今治と云うところがありますけれども、字は違うけどね。そういうハリというのは開墾すること。それがハルになっているんですね。沖縄なんかではハルと云うと、みんな田圃や畑を表すんです。野原の原じゃないんです。原山勝負と云って、どれだけ一年の収穫が多いか、村ごとに原山勝負に参加する。山は山林の勝負ですけれども、収穫が上がったことを、村ごとに懸賞をかけて競い合う。それを原山勝負と云うんですよ。」と述べている。
つまり、谷川健一は、韓国語では「パリに行く」と云えば、開墾しに行く、耕しに行く、畑に行くことを指しており、バル(原)の語源は韓国語のパリ(耕す)にあると結論付けている。
谷川健一によると、バル(原)地名は朝鮮半島から対馬を経て、九州全域に定着し、沖縄にも伝来したようであるとしているが、それにしては沖縄ではバル(原)地名が、桁外れに多い。小字のほとんどは原(バル)地名で、一般的には、小字と原は同義語として認識されている。このことから推察すると、ハラ・バル地名は、朝鮮半島から九州を経ることなく、沖縄に直接伝来した文化だと考えられる。古い時代、琉球と朝鮮半島との関りは、想像以上に深いものがある。
それを伺う例として、首里城の広福門前広場に吊られている、「万国津梁の鐘」(レプリカ)に、次のように文言が漢文で刻まれている。書き下し文にすると、次のようになる。「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯となす。此の二の中間に在りて湧出する蓬莱島なり。舟楫を以て万国の津梁となす」とあり、文中の三韓とは朝鮮を指している。
また、朝鮮との関りが深い例として、次のような史実もある。南山国王の承察度王は、権力闘争に敗れ、朝鮮に亡命したと云い、『朝鮮王朝実録』(李朝実録)の1394年9月に、中山王察度の使者が、朝鮮王に承察度の引渡しを求めたという記述があると云う。
さらに、『李朝実録』によると、1398年2月に南山王であった温沙道なる人物が朝鮮に亡命して来たと記録されているそうだ。二代に亘って亡命を繰り返すほど、南山国の治世は定まっていなかったと云うことだが、その一方で、朝鮮(李朝)とは、交易を通じて親密な繫がりがあったことが分かってくる。
ハル・パラ・バル地名の広がり
アイヌ語で、ハルは食糧を指しており、山中襄太『地名語源辞典』1995年・校倉書房によると、アイヌ語に当てた北海道の地名について次のような解説がされている。
小樽市に張碓と呼ばれる町名がある。アイヌ語で、ハル(食糧)・ウス・イ(多い所)と呼ばれた土地で、張碓の漢字を当てたものだと解説している。海に面し魚介類に恵まれ、域内を流れる小川の岸には、クロユリ、ウバユリ、ギョウジャニンニクなどの食草が多く育ち、食糧に恵まれた土地だったと云う。ハル・ウス・イの当て字は、付近に数百メートルに亘って崖が張り連なっていることから、張碓の漢字を当てたとする説がある。
旭川市西部、神居古潭の東側に春志内(はるしない)と呼ぶ集落があるが、これも前述の張碓と同様で、アイヌ語のハル(食糧)、ウス・イ(多い所)に漢字を当てたものだと云う。川筋には、食糧となるウバユリやギゥジャニンニクなどの山菜が群生していたようだ。
他にも、日高郡新ひだか町静内に春立(はるたち)の名が付く集落があり、日高本線の駅名にもなっている。これもまた、ハル・タ・ウシ・ナイ(食糧を・とる・いつもの・川)を略した当て字であると云う。食糧の多くは、植物性食糧のクロユリの根や、エゾエンゴサクの根を指しているそうだ。
渡島半島の北岸、島牧村に原歌(はらうた)と呼ばれる集落があるが、アイヌ語では広いことをパラparaと云い、浜はオタで、広い浜「パラ・オタ」が変化して原歌になったと云う。
台湾の原住民も、原をparaと発音するそうで、ニュージーランドのマリオ族も原をparaと云い、マレー半島のサカイ族はbaruと発音するそうだ。
さらに、朝鮮半島に続く中国東北地方(旧満州)でも原をhari と発音すると云い、蒙古語でも原をhalaと発音すると云う。このように、Para、baru、halaは、広域にわたって分布しているが、これらには、共通する語源があるのだろうか。実に興味深いのである。
おわりに
ハラ・バル地名の考察を続けるうちに、平らかで広い土地、耕作しない平地を指す原(はら)と、新たに土地を切り拓く、墾る(はる)とは、その語源が全く異なることが分かった。しかし、沖縄に、これだけ多くのハル・バラ地名が混在していると、「原」と「墾る」の区別はつかない。
沖縄のハラ・バル地名の殆どは「墾る」で、谷川健一の解釈にあるように、朝鮮半島から伝播したパル(耕す)が変化して「バル」になったものであろう。平仮名の表記に、「原」の漢字が当てられ、本来の「墾る・ハル」の意味が忘れ去られてしまったと云うことだ。
沖縄のハル・バル地名を考察した文献を探したが、見当たらない。谷川健一の著書にある記述が目に留まった程度である。他には、九州に分布するバル地名に触れて、ついでに沖縄のバル地名が挙げられているぐらいで、沖縄の小字「原(バル)」にまで触れた文献は無い。
沖縄におけるバル地名の語源は、朝鮮との密接な交流により、九州を経ずして直接に伝わった文化に起因すると考えるが、これ以上は、私の考察範囲を超える領域である。
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