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1.一般的な説
「波照間島」の魅力のひとつに、その島名そのもの、があると思います。「はてるま」という音の響き、そしてその音にあてられた「波照間」という綴りは、北回帰線に程近い南島の名前としてふさわしく思えます。この島名に惹かれて波照間を訪れる人も少なくないのではないでしょうか。 この魅力的な響きを持つ島名の語源は何なのでしょうか。字面から「日射しに照らされる波の間に垣間見られる島」などというイメージも膨らむでしょうが、漢字は当て字であり、一般的には
「うるま」とは、かつては「琉球」という意味であると解されていました。東恩納寛惇の『南島風土記』での「『果ての島』の意であること、これによって最も明瞭」や、柳田国男の『海南小記』にみられる「波照間の島はすなわちハテウルマで、うるまの島々の南の果て、の意味であろうということだ」という記述はこの解釈に基づくものであり、つまり「琉球の果ての島」という意味にとられていました。 しかしその後「うるま=琉球」ではなく「うるま=珊瑚礁」だという解釈がとられるようになり、「はてるま」=「果てのさんごの島」という説が一般的になりました。この説は八重山出身の方言学者、宮良当壮によるものです。 「『ウル』は海石(珊瑚石)或いはその砕けた砂礫をいい『マ』は島の『マ』と同じく場所を表すのであろうと思われるから、ハテウルマは日本の端の砂礫からなる島と云う意味であろう」(宮良当壮『南島叢考』) 現在、旅行ガイドをはじめ、「はてるま」の語源が紹介されるときは大抵この「果てのさんごの島」が語源であるとの説がとられています。 2.もうひとつの説 しかし、「はてるま」の語源にはもうひとつ、有力な仮説が発表されているのです。
この説は人類学者金関丈夫によるもので、当初、1954年4月14日の朝日新聞西部版に連載「琉球通信」のひとつとして覚え書き程度のものが掲載されました。これに対し、54年12月、「はてるま」=「果てのさんごの島」説の提唱者宮良当壮が反論の論文を季刊『民族学研究』に発表、ちょっとした論争となりました。
金関丈夫の説をまとめてみましょう。彼は波照間がかつてパトローと呼ばれることがあったこと、そして1477年、朝鮮済州島民が漂着時残した記録に「ポタルローマ」「ポトルマ」と書かれていることに着目しました。彼は台湾東岸に住む先住民族ヤミ族が沖合いの島を指す言葉として Botul,Votol,Botoru,Botrol といった言葉を用いていることを紹介します。ここでは事例として台湾南東部の離島、紅頭嶼(蘭嶼島「らんゆうとう」)の呼び名「ボテルトバコ」が挙げられています。(偶然にもそこは「パイパティローマ」と推測されている島!)この「ボトル」という言葉と「パトロー」「ボトロ」が関係があるのではないかと指摘しています。 一方で、フィリピン、ボルネオから台湾東岸に多く見られる地名の語尾に ran,ron,ruan があることを指摘し、この語尾が沖縄から九州南部にかけても 1.~ラン、レン、ロン
といった語尾をもつ地名として幅広く分布していることを指摘します。そして、もともとそれらの語尾は1.の例に見られるような「n」であり、文章に記されていくときに「論」「良間」「呂麻」といった漢字があてられたことから漢字の発音にひきづられて2、3のような形に発音が変化していったものだと推論します。 このような論旨で、「~ラマ、ルマ、ロマ」を語尾に持つ地名はインドネシア系の言葉ではないかと結論付けます。彼の論旨に基づけば、「はてるま」は「沖合いの島」という意味を持つ
彼はこの論争が起きた1954年、波照間島北部の下田原貝塚の発掘を行っていました。この発掘で発見された土器が「下田原式土器」と命名されるなど、八重山の考古学史にとって重要な貝塚(詳細は別稿で)ですが、ここで発見された台湾製の土器のかけらを物的証拠としてとりあげています。
更に彼の仮説は、波照間の方言のイントネーションをもとに、琉球の言葉全体のルーツにまで及びます。
これは波照間の女性のイントネーションが台湾のインドネシア系住民のものとよく似ていることからの類推によるものです。八重山諸島の中でも波照間および波照間からの移民で構成される石垣島白保の言葉は特に独特なものですが、これを彼は、島が隔離された環境にあったことから古い言葉が残ったのではないか、としています。その中で、男性社会に比べ隔離的、閉鎖的であり、また感情生活がより強度(イントネーションは実用性よりも感情表現により深く関係)な女性社会により強く残存したと推測しています。 3.論争の背景 以上は金関の2つの文からまとめたものです。宮良の反論項目は金関の再反論でほぼ解消されているのでここでは詳細は記しませんが、彼の反論は、金関説を、琉球民族はインドネシア系の「蕃族」と同じだ、としたものだと捉え、そこから始まっているものだという点がこの論争最大のポイントであるといえます。 民俗学者谷川健一の分析によれば、金関仮説の背景には戦前から行われてきた日本人の単一民族説に対する批判があったといいます。現在では日本を多民族国家と規定するのはあたりまえですが、当時そこには戦前の体制の呪縛から逃れようとする力が働いていたといえます。 一方で、沖縄では琉球処分より続く、民族意識の問題がありました。戦前までの強力な日本同化政策、そして戦後の米軍による占領。現在にいたるまで、沖縄は日本と「同じ」であることと、「違う」ということの間で揺れ動いているといえますが、当時の占領下沖縄にとっては異民族の支配から一刻も早く脱することが切実な願いでした。 そこで金関説を受け入れることは、自分達が日本人とは別の人種であることとなり、日本復帰の望みを断たれることにつながりかねない、という危機感が宮良の過敏とも受け取れる反論につながったのです。
現在、そういった立場を離れ、その後の研究成果などから見直してみると、台湾東岸を経由してフィリピン、インドネシアの文化と八重山との接触があったことは確実であり、一部に見直しが必要ではあるものの金関説のほうに分があるのではないかと谷川は述べています。そうすると、金関説は有力な語源説のひとつとして考えてよいのではないのでしょうか。 このインドネシア語語源説は現在あまり知られていませんが、推論の端緒となった地名が偶然にも、かつて島民が脱出した行き先である「パイパティローマ」(詳細別項)と推測される紅頭嶼(蘭嶼島「らんゆうとう」)ということが、私には、この仮説をさらに魅惑的なものにしているように思えます。そしてもっと紹介され、「パイパティローマ」ともからめた形で再検討されるべきではないかと思います。
参考文献:
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HONDA,So 1998,99 | 御感想はこちらへ |