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    波照間島あれこれ

    『パイパティローマ』 -楽園の島は何処だったのか?
    「パイパティローマ」とは?

    波照間には、島のはるか南の沖に楽園の島「パイパティローマ」が存在するという伝説があります。八重山の言葉で「パイ」は「南」、「パティローマ」は「波照間」の意味、つまり「パイパティローマ」とは「南波照間」ということになります。(同様に、与那国島にも「はいどなん(南与那国)」伝説があります。)  沖縄には、海のはるか彼方に神々が住む永遠の楽園「ニライ・カナイ」があると信じられており、この「パイパティローマ」伝説もその一種の変型とみることもできるでしょう。

    ■史実としての「パイパティローマ」

    しかし、「パイパティローマ」が他の伝説と違うのは、歴史的事実として記録に残されていることです。1648年、波照間島の住人約40名が、厳しい重税に耐えかね「パイパティローマ」を目指して脱走していることが、琉球王府の記録である「八重山島年来記」に記されています。そこには 「波照間村の平田村百姓4、50人ほど大波照間という南の島へ欠落した。島の行政責任者2名が首里へ報告に上り、落ち度があったとして罷免となった。帰途、南の島に漂着し翌年与那国経由で帰島した」 といった内容が記されています。

    ■伝承としての「パイパティローマ」

    伝承では、現在の冨嘉集落の南西側にあった「ヤグ村」の「アカマリ」という男が、重い「人頭税」から人々を救うため村人を引き連れ「パイパティローマ」に向け脱出したといわれています。「パイパティローマ」はアカマリが「遍く洋中を漕ぎ求めてついにその島を見い出し、わが島にちなんでこれを南波照間と名付け」(柳田国男「海南小記」)たとあるように、事前にその存在がわかっていたとする伝承もあります。また、公用船が税を取り立てに寄港した機会を利用し、役人を酒で酔いつぶれさせ、人頭税である粟や米を積み込んだばかりの公用船を夜陰に乗じてこっそり奪い脱走したというように、かなり計画的な脱走として伝えられています。

    ■史実と伝承の整合性

    高良倉吉(1991)によれば、「八重山島年来記」に記されている「平田村」は伝承にある「ヤグ村」を含む行政区画であり、「大波照間与申南之島」という言い回しで「パイパティローマ」が表現されているといいます。
    また、「人頭税」とは、薩摩藩からの搾取による財政難に陥った琉球王府が、その打開策として施行した税制で、収入ではなく人の存在そのもの(15歳から50歳まで)に対して課税されるという悪税です。1637年より施行されており、島民の脱走はその11年後ですから、理由としての整合性はあるといえます。
    (なお「人頭税」は「琉球処分」による王府消滅後もなお続き1903年(明治36年!)にようやく廃止された)

    関連する言い伝え

    ■ナビカキマスの話

    脱走するまでの経緯には伝承によってバリエーションがありますが、最後に必ず付け加えられるのが「ナビカキマス」のエピソードです。船が出る直前、一人の女性が家に忘れた鍋を取りに戻ります。(当時鍋は必需品かつ貴重品だった)帰りが遅く、夜が明け始めたため、船は彼女を待ちきれずに出帆してしまいます。戻る途上の路で彼女は出て行く船を目にします。その場に崩れこみ、悔しさのあまりその鍋で田圃の土を掻きながら泣き叫んだそうです。それ以降誰と無くその地を「ナビカキマス」と呼ぶようになったとのことです。

    ■ピタブパーとペーヌシマ

    また、幻の島に関する伝承として「ペーヌシマ」の伝承が残されています。「ペーヌシマ」とは南の島の意で、波照間から近い位置にあり、夕方には島影を見ることが出来、炊事の煙が見えるくらいの近さであったといいます。「ペーヌシマ」には「石の門」をくぐって行くとされ、また、島人が波照間に小豆などを盗みに来たとも言います。豪傑の女性「ピタブパー」がその対策として、海に機織と鍋を投げ入れたところ海が荒れ、それ以来島は見えなくなったといいます。(永積,1981)

    一方で「スネ」の伝承も残されています。「スネ」とは、海中の暗礁のことを指す言葉です。波照間の沖にはいくつか「スネ」があって、そのうちミーヌパー(巳の方向=南東南方)に6、70km行ったところにあるかなり大きな「スネ」が、地殻変動により沈んでしまった「南波照間」だとの伝承が残されています。(石垣,1998)

    ひとびとのゆくえは?

    果たして、彼等は「パイパティローマ」にたどり着くことができたのでしょうか?彼等のその後についての記録は残っていませんが、伝承は残されています。

    ■「タァレーウニ」の伝承

    「ウニ」とは船頭を指す言葉で、「タァレーウニ」は「アカマリ」の親友であり航海術に長けていたといいます。アカマリ達の脱走の数年後、彼は航海中に嵐に遭い、南島に漂着、そこで偶然アカマリに会います。アカマリは、ここが人食い島なので、すぐに出て行ったほうがよいと言い、自分達は健在であるが、帰っても島の場所は決して言わないで欲しいと口止めしたといいます。(石垣)

    また、「八重山島年来記」に記されている役人が漂着した「南の島」とは脱走者が目指したパイパティローマそのものであり、役人達が脱走者に再会した可能性が大きいという解釈もあります(高良)。

    「パイパティローマ」は何処だったのか?

    ■「パイパティローマ」探索

    明治時代の探検家笹森儀助は1893年、奄美、沖縄、八重山を4ヵ月に渡って巡回し、「南嶋探験」を記しています。彼は波照間島には一度渡るといつ戻って来れるか判らないとして渡っていませんが、附録に興味深い記述を残しています。
    それによれば、1892年、沖縄県知事から海軍省に南島の探検要請が出された内の第二項目に「パイパティローマ」探索が挙げられているというのです。海軍省は所在不明を理由に断わりますがこれに対し笹森は、場所が所在が判らないからこそ探検を要請しているのだと憤慨し、また、「今、該島現にその四十余戸の屋敷跡残留せり」と記しています。

    また、1907年には沖縄県が台湾東部の離島、火焼島と紅頭嶼(蘭嶼島「らんゆうとう」)を住民の脱走先と考え、県技手を2度に渡り派遣・探検させています。

    「パイパティローマ」は果たして実在する地だったのでしょうか?そしてもしそうだとすれば、それは果たしてどこだったのでしょうか?

    ■マラッカ説―宮良賢貞の推論

    宮良賢貞(1971)は「パイパティローマ」は実在したとし、その候補地としてまず台湾、ルソン、華南、セブ、マラッカを挙げています。そのうち台湾に関しては、もともと台湾と琉球は交流が希薄であったこと、原住民の首狩の風習が知られていたこと、位置的に西にあり、南(パイ)ではないとして退けています。そしてルソン、セブと推測を南下させ、八重山とマラッカとの密貿易の可能性を指摘しています。

    琉球諸島では琉球王朝による公貿易(1420~1570年)のほか、八重山地域独自に東南アジア地域と頻繁な貿易が行われており、それは八重山が王朝の支配下におかれた後(1500年以降)もしばらく続いたと推測されています。波照間の遺跡でも勾玉や中国製の青磁器が多数出土しています。

    彼は八重山の歌である「古見の浦節」「弥勒節」の歌詞に注目します。歌詞に出てくる香料「伽羅(キャラ)」「沈香(ジンコウ)」がマラッカまで行かないと入手できないことから、八重山の密貿易がマラッカまで及んでいたと推測し、その中で航海技術や地理的な知識も蓄えられていたと考えます。そして波照間島冨嘉集落の本比田家の祖先が八反帆船で航海していたとの伝承をあげ、波照間でも南蛮密貿易がなされていたと推測しています。

    「アカマリ」らが奪った公用船は十分な航海能力を持ち、また食料、物資も豊富に搭載しています。そこに密貿易で蓄えられた技術や知識があればマラッカに至る遠方まで航海ができたとし、「パイパティローマ」への逃避行は、やむにやまれずというより確信犯的逃避であったと結論付けています。

    ■蘭嶼島説―又吉盛清の推論

    又吉盛清(1994)はパイパティローマを台湾の離島である紅頭嶼(蘭嶼島「らんゆうとう」)と台東の関山鎮にある集落里壟社(りらんしゃ)ではないかと推測しています。彼等は黒潮の逆流する分流に乗って南下して友好的な先住民「ヤミ族」の住む蘭嶼島に上陸し、そこでしばらく暮した後追手の追求を逃れるため更に台湾本島に移ったのではないかとの仮説を述べています。 蘭嶼島は現在人口5000人弱、台湾で唯一の海洋民族「ヤミ族」は今も暮らしています。
    石垣繁(1998)も同様に紅頭嶼を有力候補として取り上げ、現地調査をしています。しかし、現地の人々の暮らしや習慣などに特に関連性は見出せなかったようです。

    宮良説は全体的根拠には一理ありますが、あまりに雄大であり、逃亡先をマラッカとする根拠にはいささか欠けます。ここで、宮良説では「南」ではなく「西」だとして退けられている台湾に、「民俗方位」の考え方を適用してみましょう。沖縄では「自然方位」の呼称は十二支が使われ、東西南北の呼称は「民俗方位」に使われます。そして波照間での民俗方位は自然方位と30度ずれており、南は実際には南西方向を指すこととなります。ここで、又吉説の蘭嶼島を民俗方位でみるとちょうど波照間の「南」にあたります。蘭嶼島の先住民には首狩の風習はないといいます。波照間から蘭嶼島まではおよそ350km、沖縄本島よりも近く、気候も八重山と変わりありません。脱出した人々が暮らせる可能性は十分あるのではないでしょうか。

    ■南方に行った人の話

    ちなみに、田畑(1978)などで紹介されているエピソードとして、南方に行った島人が波照間と非常に似たアクセントで話す人々に会い、島を脱出した人々の子孫だろうと判断したという話があります。
    しかしこの点に関してはむしろ逆で、「波照間の語源」でとりあげたように、波照間の言葉に、かつてそこで話されていた南方系の言語の痕跡がアクセントとして残っていたために生まれた共通点なのではないでしょうか。

    「南への志向性」

    一方で、「パイパティローマ」に該当する土地の実在については否定的な見方もあります。永積(1981)は、古老の一人が、彼らは当ても無くただ兎に角島から脱出したかったのだと語る伝承を紹介しています。
    田畑(1978)は日本本土の「補陀落渡海(ふだらくとかい)」と比較し、人々の中にある「南への脱出の傾向性」が生んだ伝説だと捉えています。
    「補陀落渡海」とは、古代、都人にとって「最南端」であった熊野から遥か南方海上の彼方にある「常世」である「補陀落」に向って船出することを指します。それは現世に見切りをつけ「あの世」へと旅立つ一種の自殺行為である一方で、食糧を積み込んで出かけるという、「常世」の実在に懸けた行為でもあったといいます。
    石垣(1998)も「南への志向性」を「補陀落渡海」や「ニライカナイ」との関連も交えて論じています。海の彼方の常世観は、いにしえの民族移動の記憶の中にある故郷への想いであるとする、柳田国男などの意見を紹介しつつ、「パイパティローマ」の伝説は、島を脱出した人々がいたという史実がそのような「南への志向性」によって熟成され説話化したものであるとしています。

    映画の「パイパティローマ」

    1994年にはWOWWOWの製作、『ナビィの恋』『パイナップルツアーズ』の中江裕司監督による映画『パイパティローマ』が公開されています(プリンセス・プリンセスの今野登茂子主演)。
    主人公の「とも子」が行方をくらました「あいつ」と呼ばれる男を追って那覇から石垣、竹富、波照間、そして蘭嶼島へと、流されるように南への旅を続けていくという作品です。ビデオが発売されていましたので、探せば見ることができると思います。 ここでも人の心の中にある「南への志向」が描かれています。

    おわりに

    南を目指して島を脱出した人々がどうなったのか、そして「パイパティローマ」の地は果たして実在したのか?すべてはいまだ、謎に包まれたままです。彼等の住んでいた「ヤグ村」の跡はすっかり森に覆われてしまっていますが、島の聖地としていまなお残されています。(冨嘉集落の外れ、「モンパの木」の近くです)そして彼等が島を離れた浜は「浜シタンの群落」のある浜の辺りだということです。その水平線の向こうの「ここではない、どこか」に想いを馳せる時、そこに広がる海は、350年前この浜から南へと旅立ったひとびとが見た海とたぶん変らないはずです。

    参考文献

    笹森儀助 1894 「南嶋探験」  東喜望校注 1983 東洋文庫版 平凡社
    柳田国男 1925 「海南小記」  ちくま文庫1989「柳田国男全集1」所収版 ちくま書房
    大浜信賢 1971 「南波照間逃避行」
     『八重山の人頭税』所収  三一書房
    田畑博子 1978 「南波照間の思想」
     『沖縄文化』第15巻1号(50号)所収  沖縄文化協会
    永積安明 1981 「南波照間島―沖縄離島の構想」
     『世界』1983年8月号(403号)所収  岩波書店
    高良倉吉 1991 「パイパティローマ伝説の風景」
     『Coralway 1991年11/12月号 特集 波照間島』所収 南西航空
    まぶい組編 1993 「島々清しゃ~全有人島コラム63」  ボーダーインク
    又吉盛清 1994 「パイパティローマを追って」
     『GARVE 第3号 特集パイパティローマ』所収  パナリ本舗
    石垣繁 1998 「民話の系譜 パイパティローマ説話の世界観」
     八重山文化研究会編 1998『八重山文化論集 第3号―牧野清先生米寿記念―』所収 ひるぎ社

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