竹槍訓練(『銃後の戦果』)

「この世界の片隅に」で主人公が振るっていた竹槍が意味するもの

死のロマンにとりつかれた人々
軍や政府の「一億総特攻」のかけ声のなか、そのシンボルとなったのが、
特攻隊員、そして「竹槍」だった。現在公開中の映画『この世界の(さらに
いくつもの)片隅に』にも登場する竹槍訓練を、人々はどのような思いで
おこなっていたのか。話題作『特攻隊員の現実』の著者一ノ瀬俊也氏が
銃後の一億総特攻を描き出す。*以下の文章には、作品の内容に関する紹介が
含まれていますので、ご注意ください。

竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋飛行機だ

 

こうの史代の漫画『この世界の片隅に』はアニメ映画化され、現在その延長版『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が上映中である。漫画には、主人公の北條すずが昭和19年、町内で行われた竹槍訓練に参加する場面が出てくる。女性たちは防空ずきんにもんぺ姿で下駄を履き、竹槍をかまえて敵兵に見立てたわら人形をかわるがわる突く。しかしすずは、夫の周作が本当に自分を愛しているのかについて思い悩んでいるため、訓練にちっとも身が入らない。

1945年、千葉県九十九里浜での竹槍訓練のようす 

この場面自体は、戦時下のそれなりにほのぼのとした日常の一コマという扱いだが、問題は竹槍である。敵の米軍兵士は機関銃で武装しているのだから、すずたちが竹槍をもって突進しても、簡単になぎ倒されてしまうだろう。
 
それは現在のみならず当時から、誰の目にも明らかであった。ゆえに、竹槍は戦争の持つ狂気や非合理性のシンボルとみなされてきた。読者のなかには、『毎日新聞』が1944年2月23日に「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋飛行機だ」と東條英機首相の戦争指導を批判する社論を掲げ、東條の激怒を買ったという話をご存じの方もあるだろう。
 
日米戦争が彼我の科学技術の粋をこらした飛行機によって行われている以上、竹槍訓練は狂気の沙汰としか言いようがない。そして竹槍訓練に批判的な目を向けていたのは、新聞だけではなかった。
 
たとえば作家・永井荷風(ながい・かふう、1879年~1959年)の1943年の日記『断腸亭日乗』には「荏原区馬込あたりにては良家の妻女年20歳より40歳までのものを駆り出し落下傘米軍襲擊を防禦する訓練をなしたる由。其方法は女等めいめいに竹槍をつくり之を携え米兵落下傘にて地上に降立つ時、竹槍にて米兵の眉間を突く計略なりと云う。良家の妻女に槍でつく稽古をさせるとは滑稽至極」とある(2月19日条)。確かに、現在の感覚でみても、竹槍は「滑稽至極」にみえる。

竹槍訓練はなぜ行われていたのか 

では、こうした竹槍訓練はいつごろから始められたのだろうか。正確に突き止めるのは難しいが、開戦から1年後の1942年12月4日、陸軍省兵務課の山下中佐が軍の肝いりで開かれた「実戦に即応せる武技錬成に関する協議会」で「全国民は銃剣術等の武技をラジオ体操の如く普及し敵の落下傘兵くらいは竹槍で突き伏せる覚悟が必要だ」と力説したという新聞記事がある(『朝日新聞』同年12月5日)。
 
軍は、本土上空で飛行機から飛び降りた米軍パラシュート部隊は落下中と着地直後はろくに戦闘態勢を取れていない、ならば女性といえども彼らを地上で待ちかまえ、突き伏せるくらいのことはできるだろう、と考えていたようだ。荷風が噂に聞いた竹槍訓練も、こうした軍の方針に沿って始められたのだろう。
 
戦争末期の1945年、沖縄戦で沖縄県民を巻き込んだ悲惨な戦いが始まる直前、内地の新聞は「合言葉は一人十殺 竹槍なくば唐手で 老幼も起つ沖縄県民」(『朝日新聞』3月29日)と書き立てた。6月には内地国民向けの本土決戦心得というべき『国民抗戦必携』が発表され、そこには竹槍が出刃包丁などとともに「近接格闘兵器」として挙げられ、「背の高い敵兵の腹部目がけてぐさりと突き刺した方が効果がある」などと大まじめに解説されていた(同6月11日)。

とはいえ、本土決戦直前の竹槍訓練は、当時の一億国民が軍とともに目をつり上げて行っていたものではない。6月19日の『朝日新聞』には「農民が鍬をすてて竹槍に走ったら誰が一体食糧を作るのか」、「本筋としてはあくまでも敢闘精神を養う手段としての限度に止まるべきである」と、竹槍訓練に批判的ともとれる発言が載っている。

東京神田区で道路を畑にして食糧増産(『銃後の戦果』)

この発言の主はなんと「陸軍省某中佐」である。中佐の言い分は、一般国民によって編成された国民義勇隊は本土決戦の際にはあくまでも兵站(へいたん、後方支援)に徹するべきで、竹槍を持って前線でうろうろされてもかえって迷惑だ、というのである。合理的ともいえるが、同時に本土決戦への本気度を疑わせる発言でもある。