そして、人を個人ではなく属性で捉えるという振る舞いは、差別の基本的な手段でもあります。「フェミがー」とか「朝鮮人がー」とか「左翼がー」という主張に個人の影はなく、どころか場合によっては存在すらなく、ただ「差別したい人々の虚像」しか打ち抜いていないことは多々あります。
 しかしながら、社会心理学の知見が明らかにしてきたように、その虚像こそが差別を促進する原動力です。あいつらはこういうやつに違いないという思い込みから敵意を増幅させ、目の前の個人を個人として捉えない振る舞いこそが差別の本質であるといえましょう。
 こう考えると、『異種族レビュアーズ』は明るいエロコメディの皮をかぶりながら、その実、根幹では差別の基本姿勢を再生産していると言えるでしょう。この根幹、スポンジケーキといえる部分に、「女性を一方的に評価する男」というイチゴや、「エイジズム、ルッキズム、本質主義」といったクリームをデコレーションしているわけですから、エロであるという側面を無視しても「不健全な作品」と評価されるのはやむを得ません。エロ部分をざっくり切ったとしても、海外ならR-18にしたのではないかという気がします。
 ミソオタたっての希望らしいので『異種族レビュアーズ』をフェミニズム視点で批評してみた:個の消失という差別の技法-九段新報文化面
 この前、上のような記事を文化面に書きました。アニメや漫画それ自体とは離れる話だったのでそのときは言及しませんでしたが、この作品ついて気になることがまだあります。


 「異種族レビュアーズ」すごいので、オタクはひっそりと応援しよう-togetter
 それはこういう反応です。

 目新しくない「自主的にセックスを売る女性」像
 実のところ、「性風俗は女性がいやいややってるとは限らないんだ」「自ら好きでやってる女性もいるんだ」という反応それ自体は目新しくありません。

 一昔前、援助交際という言葉が流行ったときには宮台真司がその旗手でした。『【書評】<性の自己決定>原論 援助交際・売買春・子どもの性』で論じたように、氏や氏に賛同する論者たちは、フェミニズムの父権性、つまり援助交際をする女性を被害者視する態度を批判しながら、一方で実際に被害を受けている女性をきちんと認識してきませんでした。

 現在は、この手の議論の担い手は様々に受け継がれていると思われます。代表例は『【書評】「身体を売る彼女たち」の事情―自立と依存の性風俗』で取り上げた坂爪慎吾氏であろうと思われます。また、『ルポ 平成ネット犯罪』のような男性著者の書籍でも同様の見解が見られることから、主張の浸透がうかがえます。

 本当に女性は「自発的」なのか
 このような、性風俗や援助交際を行う女性が、それを自発的に自由意志で行っているという見方は正しいのでしょうか。

 私の考えでは誤りです。すでにAV出演の強要が問題となっていたり、あるいは『【書評】女子高生の裏社会 「関係性の貧困」に生きる少女たち』で仁藤夢乃氏が指摘したような、援助交際を行う女性の苦境は明らかになっています。少なくとも、女性が好きでこのようなことをしていると、手放しに主張することはできません。

 厄介なのは、好きで性風俗を勤めている女性も、探せば当然いるということです。宮台たちはこのような女性を探し出し、無批判に一般化することで、自説の根拠としてきたわけですが、明確な統計があるわけでもない以上、そのような人々が「レアケース」であると言い切れないのも事実です。

 しかし、仮に「いまは」好きで勤めている女性も、おそらくその中で乱暴な客に出会ったり、権利を何とも思わないようなスタッフに加害されたりという経験はあるのではないかと思われます。そのような、通常の労働であれば警察沙汰ともなりかねない事態に遭遇しても、実際に警察に相談されるのが稀という現状を見れば、性風俗一般の労働環境に問題があることくらいは自明として構わないでしょう。

 『異種族レビュアーズ』の問題点
 本作の問題点は、先ほど引用したツイートが述べる『そもそも「風俗嬢かわいそう、不幸に違いない」っていうのもストレートに差別なんだよね』に集約されています。
 むろん、『不幸に違いない』まで言い切ってしまうのは問題がありますが、日本におけるセックスワーカー一般が苦しい立場に立たされているのは純然たる事実です。

 本作は、その明るい作風で、性風俗のこうした問題点を多い隠すという振る舞いをしています。
 もちろん、本作に登場する世界のセックスワーカーの労働環境と、日本の現状は全く違うものでしょう。別に、空想上の環境を現実に寄せなければならないというわけではありません。しかし、人は自分がよく知らないものについて「現実と空想の区別」がつかない生き物です。先ほど指摘したように、本作抜きでも「自発的に性風俗に勤める女性」という「幻想」がまことしやかに流布する日本において、本作のようにあたかも性風俗は明るく問題のないものであるかのように描く作品が地上波で放映されれば、どのように受け止められるかは火を見るよりも明らかです。

 セックスワーカーの苦境が無視され、自発的であるという側面ばかりが強調されるとどうなるでしょうか。それは、援助交際や昨今のJKビジネスに向けられた言説を振り返れば容易に推測することができます。

 ヤフーニュースのコメント欄を探ればすぐにわかるように、児童買春事件では「女性側の非」がことさら言い立てられます。当然、児童買春事件では女性側は未成年ですから、責任は全面的に男性側にあります。しかし、この不均衡を無視し、女性側の非を責める声は後を絶ちません。

 それは、児童買春が「女性の意志で行われている」という認識に端を発しています。「自分の意志で行ったものの責任は自分でとるべき」という規範が、不適切に延長されて適応されているのです。

 未成年でなくとも、セックスワーカーに向けられた性暴力は、そうでない女性に対するものよりも軽く見られてしまう傾向にあることはすでに指摘されています。これも、女性がそういう行為を望んだから被害を受けても自己責任であるという、自由意志とバーターになった非難です。ここでは、性暴力が女性が許可した範疇から逸脱する行為であることが都合よく見落とされます。

 セックスワーカーがその仕事に従事する理由を、過度に女性の意志に求めることで、男性は女性を性的に搾取するという構造の問題から目を逸らすことができるようになります。『痴漢とは何か 被害と冤罪をめぐる社会学』が指摘したように、一時の痴漢報道が「痴漢を喜ぶ痴女がいる」という方向に流れたのと同じ構造でしょう。

 『異種族レビュアーズ』は、性風俗の明るい面を過度に強調し、純然と存在する暗部から目を逸らすことで、問題の解決を先送りにします。そうすることで、性風俗が抱える搾取の構造を無視し、そこへコミットする男性の罪悪感を和らげる機能を持っていると言えます。

 やはり、地上波にはふさわしくないのでは……。