この連載が書籍化されました
『なんで僕に聞くんだろう。』(幻冬舎)、が2月6日に発売されました。発売日の翌日に重版されました。ぜひ連載とあわせてお読みください。
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幡野さん、こんにちは。
しょうもない悩みなのですが... 我が子のニューボーンフォトを撮影しなかった事をすごく後悔しています。もう時間を取り戻せないと分かっているのですが、上手く感情を処理出来ずにいます。
妊娠時から撮影したいなと思っていたのですが、新生児にポーズをさせて撮影をする事が体に負担になるのでは?と夫や親が乗り気ではなく、私自身も子の負担や費用の面も考え、押し切らずにそのまま新生児時代が過ぎました。
新生児の時の裸やサイズ感がよくわかる写真があまり残せていないこと、他の人がニューボーン撮影している写真を見ると、撮影しておけば良かったなと後悔の念が出てきてしまい、感情がうまく処理できません。
同じように、結婚式の映像を撮影しなかったことも後悔しています。私は写真や映像を沢山撮る癖があって、少し強迫観念的な部分もあると思います。
撮れなかった物、やらなかった事の後悔を軽減するにはどうしたら良いのでしょうか。 アドバイスをいただきたいです。 宜しくお願いいたします。
(ゆき 32歳 女)
写真の相談に答えるのってはじめてかも、写真家が人生相談やってて写真の相談に答えるのがはじめてってなんだか変な話ですよね。
カメラの相談はいっぱいくるんです。なんのカメラどんなレンズどの設定がいいんですか?って。なんのどんなどの的な質問がくると、メガネ選びとおなじだから好きにしなよっていつもおもいます。
いいカメラを使うからいい写真が撮れるわけじゃないんだけどね、いいフライパンを使ったら美味しい卵焼きができるわけじゃないでしょ、それとおなじです。
みんな写真の上手さや正解を求めていて、誰かの答えを真似することだったり、ネットでバズった写真を真似することなんだけど、真似ができたときに成功したと勘違いするからよくないんですよ。
誰かの答えを真似するのはプロのカメラマンもおなじことで、ぼくは今年から取材を受けるときにプロカメラマンの撮影を断っているんです。プロといってもいろいろで、一流から四級までいるんです。写真のことを考えていないプロに撮られるほど苦痛はありません。
取材の写真ってカメラのカタログにありそうな、カメラを笑顔で見つめてる姿を撮ろうとするんだけど、写真家がカメラを見つめることなんてカメラが壊れたときぐらいですよ。だいたい深刻な表情になるし、そもそもカメラはほとんど壊れません。
笑顔でカメラを持つことなんて、まずねーよ。オメーもカメラマンならわかるだろ。って心の中でおもってます。編集者とかデザイナーとか写真のプロ以外が撮ってくれる方が悩んだりするぶん、むしろ良かったりします。
世の中には不幸な写真というのが存在します、被写体の人が見かえしたくない写真のことです。見るたびにストレスや居心地の悪さを感じるような写真です。
あなたはいま32歳ですけど、成人式のときに写真館で撮影しましたか? その写真っていまでも見返せたり、SNSにアップする自信ってあります? たぶんほとんどの人ができないとおもうんです。
髪の毛をアップにして、ヘンテコリンなメイクされて、パキッパキの照明を当てられて、稼ぎどきにコミュニケーションを放棄したクリエーターの流れ作業の結晶が写真に残されます。キャッチコピーは「一生に一度」です。
その人にあったヘアスタイルとメイクをして、好きな服を着て友達とワイワイしている、20歳の日常を撮った写真の方が圧倒的に見返せるし、SNSにだってアップしやすいでしょう。中学校の卒業アルバムの個人写真だっておなじことです、何がいいんですかあれ? おもわず目をそらしちゃうよね。
ニューボーンフォトって言葉をはじめて知って画像検索したけど、これ……何がいいんですか? 新生児のポーズの負担とか、費用とかじゃなくて、写真として何がいいんですか?
落ち着いたトーンの布でタイトに巻かれた新生児が、丸いフワフワの上に乗せられて寝てるものばかりだけど、赤ちゃんが入れ替わっても気づかないよね。ニューボーンフォトって日本ではきっとここ数年のものだとおもうけど、被写体の新生児がよろこぶ写真ではないでしょうね。
被写体の新生児が成長したときの顔とは似つかないだろうし、新生児の写真みて「かわらない、そっくりー」なんてあんまりないでしょう。巻かれた布や敷かれたフワフワにも思い入れもないし、つまり誰の写真かわからないんですよ。
これじゃニューボーンフォトじゃなくて、金太郎飴フォトです。お金を払って撮った人もたくさんいるとはおもうけど、ぼくは写真としてあまりいいとはおもわないです。親が悪いわけじゃないよ、思考停止した金太郎飴カメラマンが悪いんだよ、まじで。
卒アルの個人写真や成人式の写真やニューボーンフォトも、よろこぶのは本人じゃなくて親なんですよ。親からすれば成長の記録ではあるから。そうなると写真の良し悪しは関係なく、被写体はおいてきぼりの金太郎飴フォトになりがちなの。
ぼくも息子が生まれてからたくさん写真を撮ってます。この写真は生まれて10日後ぐらいだったんですけど、新生児って小さいじゃないですか。そしてすぐに新生児の顔は変わるし、生まれたばかりのころは頭の形も顔もエイリアンっぽいから、それがわからないように布で隠して、小ささを表現するためにぼくの手をいれたんです。
ぼくが手を添えていることで、ぼくにとって大切な存在であることを、いつか見返すであろう息子に伝えたかったんです。写真って考える作業なんですよ。何千枚と息子を撮影していますが、ぼくはこの写真がいちばん好きです。ぼくの写真集の表紙にも使っています。
金太郎飴カメラマンに依頼するぐらいなら、親であるあなたが撮ればいいんですよ。
子どもを撮る場合はよっぽど技術が高い撮影者でないかぎり、親が撮った方がぼくはいいとおもいます。なぜなら子どもにとって親が撮ってくれたというだけで、その写真に価値が生まれるからです。
あなたがニューボーンフォトを撮らなかった後悔って、写真の良さうんぬんじゃなくて、周囲の人がやってて、自分がやっていない居心地の悪さだったり、とにかく子どものためじゃなくて自分のためでしょ。
これはたぶんニューボーンフォト以外にもたくさん反映されちゃうから、気をつけた方がいいですよ。
ぼくも写真をたくさん撮るクセがあるからよくわかるんです。でもこれは、写真家としての後悔ではあるんですが、ぼくは写真を撮りすぎました。大切な瞬間はカメラではなく眼で見るべきだったと、いまではすこし後悔をしています。
ぼくが撮影した息子の写真は、ぼくからすれば息子がいる情景の記録です。しかし息子の見ている情景はカメラを構えるお父さんです。お父さんの表情もわからない、お父さんと自分の間にいつもカメラがある。これは息子にとって寂しいことだとおもうんです。
もしかしたら息子がぼくの顔を知らないかもしれないですよ、ストップ映画泥棒に出てくるカメラの人みたいなかんじ。
子どもの写真を撮ることもいいんだけど、きっと子どもからすれば、眼で見ていてほしいって感じるとおもうんです。ぼくはここ最近はなるべく写真を撮らないで、眼でいろんなものを見ています。そして感じたことを、なるべく言葉にしています。
撮れなかったことでも、記憶に残ってるから言葉にできるじゃないですか。過去に戻れないので、後悔に意味はありません。写真に関しては次にいかすしかありません。
それでも自分の悩みや後悔をしょうもないことなんて考えなくていいです。悩みなんて他人事になれば全部しょうもない悩みだし、自分ごとになれば全部たいへんなものです。
これから写真をたくさん撮るなら、好きなカメラを持ちましょう、中古でもなんでもいいです。そして好きな被写体を好きな場所で撮りましょう、海とか公園とか自宅とか。
ここからがすこし大切です、好きな光の時間帯に撮りましょう。早朝の光と昼間の光と、夕方の陽が落ちてから徐々に暗くなる時間帯はそれぞれ光が違います。写真は光があるからうつります、だから光がとても大切です。
夕日が好きでも、夕日を撮っていたら電球を撮ってることとおなじです。美しい夕日に照らされた被写体を撮りましょう。
好きな曜日や好きな季節や天気に撮りましょう。こうやってたくさんの好きを重ねると、あなたにとって好きな写真ができます。金太郎飴フォトでなく、あなたとお子さんでしか撮れない関係性で、好きなものをたくさん重ねましょう。
声をかけてポーズをとらせたり、笑顔を狙うだけが写真じゃありません。
最初は下手かもしれないけど、好きな写真が残せます。そして写真は自然と上達します、これは卵焼きを焼いた回数とおなじです。失敗と成功を繰り返せば上達します、味付けもトッピングも自分の好みでいいんです。
写真はいいものです、ぼくは写真家という生き方を選んで良かったとおもってます。 でも本当に大切なのはカメラを構えることではなく、眼でしっかりと見ることです。
今週の幡野さん
高円寺にある小杉湯さんに行きました。 銭湯絵って男湯と女湯の両方に富士山が描いてあるんですね。 3月に小杉湯さんでイベントをします、たのしみです。