映画『ヲタクに恋は難しい』ネットで総叩きだが、オタクをバカにしてるのではなく、他者との「恋の難しさ」ときちんと向き合ったオタク讃歌だと思う

 

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毎回毎回叩かれてる映画のことばっかり書いてる気がするが、映画『ヲタクに恋は難しい』が袋叩きになっている。ツイッターの批判ツイートのRT数は2.8万。比較に出すのもなんだが、あの『ドラゴンクエストユアストーリー』より叩かれている。3万RT近いトップツイートの批判は、『「オタクは気色悪い」という作り手の偏見や蔑視がビンビン伝わる』という内容だった。ツイッター、というかSNS全体のメインエンジンは今や疑いもなくオタクである。「実写映画の連中が俺たちをバカにしているらしい」というストーリーに火がつくとここまでバズってしまうわけだ。

うーん。

そうか?

別に逆張りとかではなく、公開金曜日の初日に「ヲタ恋」を見た僕には映画がオタクへの偏見や蔑視で作られているとは思えなかった。

実際問題、原作からはかなり変えているので、原作ファンが「原作と違うじゃん」という不満を持つのはある程度仕方ないと思う。ただ、それはネットで言われているような作り手のオタクに対する偏見や蔑視のせいではなく、この物語をコミュニケーションをめぐる映画として作り直した結果だと思う。

原作の「ヲタクに恋は難しい」は、少なくとも映画化された1巻のシークエンスにおいては、日常を半ば理想化したラブストーリーになっている。宏嵩はそのまま少女漫画の主人公になれそうな背が高くハンサムな青年だし、桃瀬成海も明るく社交的で魅力的な女性だ。2人は「オタク趣味を持っている」こと以外には特にコンプレックスを持たない、理想的な美男美女のカップルに見える。名作『奥様は魔女』のイントロダクションに倣っていうなら、「ごく普通の2人はごく普通の生活を送りごく普通に恋をしました、でもただひとつ普通でなかったのは、2人はオタクだったのです」というわけだ。

オタク文化の中には、80年代のゆうきまさみ究極超人あ〜る」、高橋留美子るーみっくわーるどから近年のライトノベルに至るまで、「現実の日常をフィクションによって楽園化する」という作品の系譜がある。パトレイバーの特車二課を見れば「警察って楽しそうだな」と誰もが思うわけだが、当たり前のことだが現実の警察官というのは太田巡査みたいにシャレになる憎めないマッチョではないし、上司も後藤隊長みたいに深みのある人格者ではない。特車二課は現実を適度にアク抜きした(このアク抜きの「適度」のサジ加減、リアリティの残し方がゆうきまさみの天才的なところなのだが)「半楽園」なわけだ。決してそれが悪いとか現実逃避だとかいうわけではなく、「ヲタクに恋は難しい」という原作の魅力は、オタクからオタクの嫌な部分をアク抜きしたその料理の手腕、楽園化のテクニックにあったと思う。だから読者は宏嵩、成海、小柳、樺倉という魅力的な4人の男女の幸福な人間関係をまるで息の合ったバンド演奏のように楽しみ、愛することができる。

 

たぶん映画版は、原作よりもういくぶんかその「アク」の部分、オタクが持っている歪みやクセのようなものを映画の中に残している。宏嵩は原作よりも無口で、表情のあまり変わらない青年に、成海は好きなコンテンツの話題になると我を忘れて感情が溢れ出してしまう女の子に描かれる。感情を出せない宏嵩と、感情を出しすぎる成海。2人のコミュニケーションスキルに関する「歪み」のようなものが原作よりも誇張されていて、たぶんそこが「オタクをバカにしている」という反発と非難をこの映画が浴びているポイントなのだと思う。原作通り、理想的な美男美女がたまたまオタク趣味を持っていてそれを隠している、という演出にしておけばそんな反発は浴びなかっただろうし、山﨑賢人と高畑充希という2人のトップスターをもってすればそちらの方が簡単だったのかもしれない。

でも僕はこの実写版『ヲタ恋』がけっこう好きである。世界のあちらこちらに「尊さ」を見出し、社会とのズレも忘れてその讃歌を歌い上げ始める成海と、ゲームという「理論の戦い」には洗練された技術を持ちながら、成海のように素直な感情をそのまま表出することのできない、それゆえに成海を深く見つめる宏嵩の関係は、すっかり巨大産業に成長したオタク文化の中の男女の心のジェンダーギャップをどこか象徴的に描いているように見えた。実写版の『ヲタクに恋は難しい』の優れた点は、オタクと一般人の恋の難しさではなく、本来なら苦もなくわかりあえるはずのオタク同士の恋の難しさを描いている点にあると思う。映画の中の2人はある面ではオタク文化ネットスラングを共有し、共犯者として幸福な関係を続けながら、どこかでお互いのズレ、心の距離を感じている。そしてその距離は「同じオタクだから」という共感と同一化で埋められるのではなく、すぐ近くにあるのに遠く手が届かない別の文化、別の心への想像力と理解で埋められていく。そのストーリーテリングは『逃げ恥』を思い出したし、いや『逃げ恥』だけではなく、優れたラブストーリーはいつも、どんな時代でも「2つの離れた心」の距離について描いているものなのだ。ロミオとジュリエット美女と野獣。この映画がミュージカルの形式を取るのは、これが新しい人々についての古い物語、何度も繰り返される相互理解の儀式の物語だからだ。

 

批判ツイートのRTが3万近くに届き、激しい反発と冷笑がツイッターで渦巻いているこの映画について僕がブログで書こうと思ったのは、ツイッターの中であるツイートを目にしたからである。それは映画をまだ見ていない人がネットの評判や予告編を見て書いたツイートで、「『ヲタ恋』は陽キャがオタクの真似してゲラゲラ笑ってる感じがして怯えてしまう」というものだった。そのツイートは原時点で5000RTと2万いいねされている。別に責める気はないけど、そのツイートを書いた人も、「未見ですけど見なくていいみたいですよ」というリプを寄せる人も、そしてたぶん2万のいいねを押す人のかなりの部分も映画を見てはいないと思う。

この映画はそういう映画ではない。山﨑賢人も高畑充希も、いまだかつて一度も誰かをバカにするために演技をしたことはない。

町田くんの世界』で高畑充希がある種の悪役を演じた時も、山﨑賢人が少女漫画の王子様を演じる時も、彼らはいつでも原作を深く読み込み、二次元の絵に粘土を盛って立体にするように深く人間を演じてきた。それは彼らが人間と演技を愛する演劇オタクだからで、それはこの映画でも同じだ。この映画で扱われているオタクのディテールがいくつか古くなっているというのはその通りだし(そもそもタイトルの『ヲタク』が原作がスタートした2014年からかなり古びてしまった感もある)それこそオタク的に気に入らない点を列挙することはできると思う。でもこれはやはり、古く新しい物語としてちゃんと見られる映画になっていると思う。

原作からポジションが完全に変わってしまったので最も批判が多い樺島を演じている斎藤工の演技も素晴らしいし、小柳を演じて「彼女の心ごと受け入れてやれ」と机を叩いて宏嵩に説教する菜々緒はかつて「オオカミ少女と黒王子」で山﨑賢人と姉弟を演じた時の名演を再び見せている。

原作ファンが不満なのはある意味で仕方ない。でも、映画は自分の目で見なくてはわからない。そんなに悪い映画ではないと思う。最後に有名な、とても有名な『美女と野獣』の歌詞を引用してこの映画についての言及を終わりにしよう。たぶんどんな批評よりも的確にこの映画を説明していると思うので。

 

 

Tale as old as time  Tune as old as song

時の始まりから繰り返す物語、はるか昔から繰り返されるメロディ

Bittersweet and strange Finding you can change

苦く甘い不思議な気持ち、変わっていく自分に気がつく

Learning you were wrong

自分の過ちを学びながら